→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.9] ■■■ [437] 禅宗伝 そこに、茶目っ気やエスプリを感じるか、はたまた滅茶苦茶出鱈目な書きっぷりと呆れ返るかは、読者の自由である。 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布) <1-10 史> 《3 達磨[5世紀後半〜6世紀前半]…武帝死の予言》 ●[巻六#_3] 震旦梁武帝時達磨渡語 題名は、梁 武帝蕭衍代[在位:502-549年]に菩提達摩/達磨[382-535年]が震旦に渡来した話となっているが、いくつかの断片話をつなぎ合わせたものである。ここが秀逸。 神話の時代でもなかろうに、達磨が150年も生きていたのかネという素朴な疑問が原点にあろう。達磨死後27年にして武帝崩御も、上記の数字と齟齬がある。もちろん、この数字は代表的なもので、辻褄合わせしてある場合もあろう。 マ、それでよいのだよ、ということ。 それを示すために、いくつかの話を編年的に繋げて、あたかもそんな"震旦仏教史"が存在しているかのように書いてみたが、読者諸君どうかネ、ということでは。 成程、仏教史とはそのように読むべきものかと、深く頷くしかなかろう。 しかしながら、それは大いに危ない仕業。いい加減に集めて来た話に映るようにしておく必要があるのは当たり前。 小生が、「今昔物語集」編纂者は「酉陽雑俎」を知っていた、と考えるのは、そのような手立ての見本としては他に考えにくいからである。 さて、その譚だが、以下のような構成になっている。 ①【南天竺】…譚末記載。 達磨和尚は、南天竺 大婆羅門国国王の第三子。 ②【天竺】 達磨は弟子に震旦で伝法するよう命じる。 ③【長安】 弟子は海路震旦へ。 その主張は反感を買い、追放される。 ④【廬山】 南行し山へ。 慧遠[334-416年]がおり、"煩悩即菩提"という見解を認める。 渡来した弟子は、この地で示寂。 ⑤【金陵/建康/南京】 達磨、神通力で弟子の死を知り自ら渡震旦。 巨大布施の武帝に招請されるも、褒めず対立。 ⑥【嵩山】 追放され、遭遇した会可(慧可[487-593年])禅師に伝法。 示寂。 ⑦【葱嶺@パミール高原】 外交使節団[518-522年]の宋雲は胡僧に出会う。 帝逝去と知らされ、日付を記録。 帰京して確認するとまさしくその通り。 あの僧は亡達磨に違いないということに。 開棺すると、達磨の遺骸は無く、証拠品が残っていた。 そもそも、達磨は法灯では28祖。 《釈尊伝灯》 __六[_0]釈尊 __七[_1]大迦葉 ___: 三十四[28]菩提達摩 従って、【天竺部】でも、一応、名前だけは登場しているが、基本、震旦での僧と考えるべきだろう。 【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動) ●[巻四#_9]天竺陀楼摩和尚行所々見僧行語📖達磨 ただ、【震旦部】と繋がるところは、曖昧である。 ① 比丘 仏陀耶舎は、南天竺の聖人 達磨和尚の弟子。 <仏陀耶舎/覚明[4〜5世紀]> 罽賓/カシミールの婆羅門出身。 沙勒國@新彊弥勒王宮在(太子付)。 鳩摩羅什来訪。📖鳩摩羅什 408年入長安、「四分律」翻訳。 罽賓へ帰還。 普通に考えると、次の話も考えて、適合する僧が違う。 ② 「汝、速に震旦国に行き、伝法せよ。」と、 師から命じられた。 そこで、師の教えに随い、震旦に船で渡った。 <仏駄跋陀羅/覚賢/天竺禅師[359-429年]> 北天竺迦毗羅衛出身。 罽賓/カシミールで仏大先に師事。 震旦僧 智厳の勧めで海路入青州。 406年入長安。 鳩摩羅什と法相論で不和、 道恒の勢力からも排斥され南行。 廬山 慧遠に歓迎され翻訳活動。 「達摩多羅禪經」翻訳(系譜:達摩多羅⇒仏大先⇒仏駄跋陀羅) 座禅普及活動。 建業で「華厳経」60巻翻訳。 「華厳経」の翻訳者、仏駄跋陀羅を知らぬ訳もなく、仏陀耶舎と混同するとも思えまい。鳩摩羅什の命でなく、震旦僧から請われて渡震旦であることが余りに明確なので、変えてみたということだろうか。 ③ 比丘数千人が勤行しており、 伝法の説教をしたものの、信奉者現れず。 最終的には、追放されてしまった 鳩摩羅什と"禅"はどうも肌合いが違い、さっぱりなじまなかったようだ。 「酉陽雑俎」著者もそうだが、禅についての記述は抑えており、歯切れが悪い。「今昔物語集」編纂者も教義対立についての記述を避けており、ココはさらっと流している。次の譚に係わるからでもある。 素人からすれば当たり前の"迫害"と言えよう。翻訳僧を核にした学僧集団のなかに、経典の文章論議にたいした意義なし、と公言しかねない僧が入って来たのだから。 ④ そこで、(南行し)廬山の東林寺に入った。 そこには、止事無き聖人 遠大師[慧遠]がおられた。 来訪した耶舎を受け入れたのである。 そして問答開始。 「汝、西国より渡来されたが、 どのような仏法をこの地に広めようとされ、 このように追放されてしまったのか?」 ところが、耶舎は答えない。 ただ、自分のが手を握って開いただけ。 そして 「この事、疾や否や?」と。 遠大師は理解した。 「手を握るは煩悩。 開くは菩提。」 煩悩即菩提で、一つにほかならないと悟ったのである。 耶舎はこの地で死去。 <慧遠[334-416年]> 384年東林寺@廬山[江西九江]創建。 “涅槃宗”祖。…念仏結社"白蓮社" 📖震旦浄土宗祖曇鸞 慧遠と、仏陀跋陀羅、仏陀耶舎の関係はこんな具合。📖鳩摩羅什 ┼○"釈"道安[314-385年]…"安・支・康・竺"廃止 ┼│ ⇳ 説一切有部《毗曇宗》…主要論蔵真諦/玄奘新訳後⇒俱舎宗 ┼○慧遠[334-416年] ┼┼《念仏結社白蓮社》402年@廬山 ┼┼┼●支婁迦讖[訳]:「般舟三昧経」(禅観修法) ┼┼ 僧:仏陀跋陀羅、仏陀耶舎、慧永、慧持、竺道生、慧叡、 慧厳[363-443年] 、慧観、慧遠、道朗、超進、慧叡、慧嵩、・・・ ┼┼ 居士:劉程之、宗炳、雷次宗、周続之、・・・ ┌─┘ │┼【五胡十六国代】 │┼┼●法顕[337-422年]往陸復海路■1■訪天竺「仏国記」 │┼┼●仏陀跋陀羅/覚賢/天竺禅師[359-429年]…「華厳経」@建業 │┼┼●鳩摩羅什[344-413年][巻六#5][→天竺伝来釈迦像]❺ └──┤ ┌──┘《大乗経典宗》 ○竺道生、慧観、僧肇、僧叡、道融、曇影、慧厳、道恒、道常、・・・ "煩悩即菩提"はいかにも禅的なもので、涅槃宗とは肌があったようである。前段の話があるから、それでは、鳩摩羅什とはどうなのかと気になる。 そこには触れず、ご想像におまかせいたしますとなるが、そこらは知る人ぞ知る話がある訳だ。 ⇒釋慧皎:「梁高僧傳」卷六義解三#1晉廬山釋慧遠 去月法識道人至,聞君欲還本國,情以悵然。・・・ 今輒略問數十條事,・・・ 欲取決於君耳。 帰国するという鳩摩羅什に、手紙で、考え方を尋ねているのである。すでに、あらかた仏駄跋陀羅との論議を通じてわかっているのだろうが、"法性論"(至極以不變為性,得性以體極為宗。)を展開したかったのかも知れない。 ともあれ、そんな状況を感じさせる流れになっている。 ここで、突然、5世紀が6世紀に飛ぶが、話自体は連続している。 ⑤ 震旦は天竺から遥かに遠い場所だが、 達磨大師は、弟子耶舎が死去したことを空で知った。 そこで、自から船で、震旦に渡った。 梁 武帝代[502-549年]のことである。 その頃、武帝は、大伽藍を建立。 数体の鋳造仏像を安置。起塔し、数部の経巻を書写。 そんなことで、 「我、殊勝の功徳を修した。 これを、智恵有る僧に見せしめ、 讃められれば、貴い事と言えよう。 ついては、 この国で、最近、 智恵があり賢く貴い聖人は誰だろうか?」と尋ねた。 「近来、天竺より渡来された達磨聖人がおられます。 智恵があり賢く、止事無きお方でございます。」と。 武帝、これを聞いて、心が躍った。 「その人を召し、伽藍・仏経の有様を見分してもらい、 讃歎していただこう。 さらに、貴き功徳の由を聞き、 ますます殊勝なる善根を修そうと考えておる。」 と思ったのである。 そして、達磨和尚招請のため使いを派遣。 和尚は、お召しに随って参上された。 伽藍に迎へ入れ、堂塔・仏経等を見分させた後 武帝は達磨に向って語った。 「我、堂塔を造り、人を度し、経巻を写し、仏像を鋳造した。 どのような功徳と言えようか?」と。 達磨大師の答は、「これは、功徳ではござらん」というもの。 武帝は、 「"和尚は、この伽藍の有様を見れば、まずもって讃歎し貴ぶだろう。"と 予想していたのにもかかわらず、 その気色は、大変に涼しい限りなので、 この調子では、頗る、不満である。」と思ったので 再び、尋ねた。 「それならば、何を以て、功徳に当たらないと言えるのか?」と。 達磨大師の答は、 「この様に、塔・寺を造って、 "我、殊勝の善根を修した。"と考えるのは、 有為の事そのもの。真実の功徳とは言えない。 真実の功徳とは、 我が身の内に存在する、菩提の種である、清浄の仏由来であって、 その仏の思いを顕わすことこそが、真実の功徳なのだ。 これと比較すれば、 このような行為は功徳の数にも入らない。」というもの。 武帝は、これをお聞きになり、お心にそぐわなかったので、 「これはどういうことか。 我は、"比類なき功徳を造った。"と考えておるのに このように誹謗されるとはどういうことか。」と、 悪き様なこととして、大師を追放されたのである。 禅宗の"灯史"類には、必ず収載される禅問答である。…「大唐韶州双峰山曹侯渓)宝林伝」801年, 道原:「景徳傳燈録」1004年, 「伝法正宗記」1061年 ⇒道原:「景徳傳燈録」第三巻#1菩提達磨 帝覽奏遣使齎詔迎請。十月一日至金陵。 帝問曰:「朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功コ。」 師曰:「並無功コ。」 帝曰:「何以無功コ。」 師曰:「此但人天小果有漏之因。如影隨形,雖有非實。」 帝曰:「如何是真功コ。」 答曰:「淨智妙圓,體自空寂。如是功コ,不以世求。」 帝又問:「如何是聖諦第一義。」 師曰:「廓然無聖。」 帝曰:「對朕者誰。」 師曰:「不識。」 帝不領悟。 ⑥ 達磨大師は追放され、長安からも退却させられた。 錫杖を突いて、_山(嵩)に至った。 そこで、会可(慧可)禅師に会い、 仏法を、すべて付嘱された。 その後、この場所で亡くなった。 門徒僧等は、遺体を入棺し、墓に安置した。 <慧可/普覚大師>[487-593年] 嵩山少林寺で面壁の達磨に入門申請。 拒絶され雪中断臂し許諾を得る。 法嗣である。 ⇒ 淨覺:「楞伽師資(血脈)記」708年 二 魏朝三藏法師菩提達摩 唯有道育惠可。 ⑦ 達磨、死後27日後のこと。 公の御使である宋雲が、設定された旅程の途中、 葱嶺@パミール高原の上を通り、そこで胡僧に遭遇。 片足は草鞋を履いていたが、もう今片足は裸足。 僧:「汝、知っておくがよかろう。 国王は、今日、崩御された。」と。 宋雲は、それを聞くと、紙を取り出し、日付を記録した。 月日は経ち、宋雲は王城に帰還し、確かめると、 国王はすでに逝去しており、 記載した日が命日だった。 あの胡僧は誰だったか考えると、達磨和尚しか考えられず、 朝庭百官と達磨門徒僧等が一緒になって 本当か確かめるるため、達磨の墓に行き、 開棺するとご遺体が無い。 只、棺の中に履物が片足だけ残っていた。 そこで、 「葱嶺の上で出会った胡僧は、 草鞋を片足だけ着け、天竺へお返りになった大師だ。 片足を棄て置いたのは、 震旦の人々に、遍く知らしめようということ。」と、 皆、考えたのである。 と言うことで、国を挙げて、 「止事無き聖人である。」として、限りなく貴っとんだのである。 ⇒佚名:「暦代法寶記("保唐宗"師資血脈伝)」 唐代時魏聘國使宋雲。於葱嶺逢大師。手提履一隻。 宋雲問:「大師何處去。」 答曰:「我歸本國。 汝國王今日亡。」 宋雲即書記之。 宋雲又問:「大師今去。佛法付囑誰人。」 答:「我今去後四十年。有一漢僧。可是也。 宋雲歸朝。舊帝果崩。新帝已立。 宋雲告諸朝臣説。大師手提一隻履。歸西國去也。其言。汝國王今日亡。實如所言。 諸朝臣並皆不信。遂發大師墓。 唯有履一隻。 簫梁武帝造碑文。西國弟子般若蜜多羅。唐國三人。道育尼總持等。唯惠可承衣得法。 <宋雲> 北魏僧。敦煌出身。 518-522年 孝明帝/胡太后命で 仏典収得に洛陽から西域へ。 惠生同行。 [楊衒之:「洛陽伽藍記」巻五"宋雲行紀"] ① 伝承によれば、 達磨和尚は、南天竺の大婆羅門国国王の第三子とされている。 ⇒曇琳:「菩提達磨大師略辨大乘入道四行觀序」 "法師者,西域南天竺國人,是婆羅門國王第三之子也。 <曇琳> 達磨の弟子。 538〜543年成立の翻訳諸経典の筆記担当者。 最後に、一言。 「今昔物語集」の編纂者は、実によく見ている。矛盾結構で、細部の辻褄合わせなど、本質的な問題ではないということ。 震旦の禅は、外道も上座部もあり、混沌としたものだったが、大乗が入って来て禅を主体とする教派が生まれたと見てよいのだろう。しかし、達磨の系譜以外はすべて消滅してしまった。そこまで迫害が酷かったということかも知れない。 従って、達磨はこの期間のすべての資産を背負っていかざるをえないのである。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |