[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.6] ■■■ [時代区分:3] 13〜15代総ざらい 《葛城〜金剛〜巨勢時代》《山の辺の道三輪山〜巻向山〜柳本時代》を見てきたが、「古事記」中巻には13〜15の3代が残っている。13代崩御は355年で、15代崩御は394年であるから、ほぼ4世紀ということ。 すでに述べたように、繁栄の時代は原理的に変化を助長することになる。それが表面化し脱三輪山を果たすのがこの3代と考えることもできよう。 13代は近淡海之志賀高穴穗宮と沙紀之多他那美陵。14代の宮は出征の地九州であり、崩御もその地だが御陵は寄港地に近い河内惠賀之長江。15代は奈良盆地内に戻り、橿原の軽嶋明宮になり川内恵賀之裳伏岡陵と。 この時期は天皇の権威が薄れてしまったのが特徴と言えよう。祭祀勢力と軍事勢力の上に君臨する仕組みが奏功しなくなったということでは。 [13]敬称のみで名前が無い。 [14]敬称のみで名前が無い。 [15]ほむだ和気…敬称が付かない。 おそらく実権は軍事勢力に移ったのであろう。第一義は戦力向上であり、祭祀はそのためのものでしかないと言えよう。三輪山信仰の中身は自動的に変わることになるし、それ以上にご利益がある神々への信仰に人気が集まったに違いない。 しかし、ご陵の重要性が薄れた訳ではなく、権力集中不可欠なのでかえって強まった可能性が高い。 前後の宮に繋がりはないものの、この時代の名称はこうしてみた。 宮地でなくても、そこは軍事拠点として、重視された筈と見て。 《筑紫本営時代》 この3代の崩御年は355年-362年-394年。朝鮮半島での高句麗の動きに、呪術的宗教政権的が全力で対応した訳だ。 御陵は、以下の通り。 [13]沙紀多他那美@奈良佐紀 [14]河内恵賀長江@羽曳野古市 [14皇后]狭城楯列稜@奈良佐紀 [15]川内恵賀裳伏岡@羽曳野古市 15代御陵は、古市古墳群でその存在感(墳丘長420m)を示す誉田御廟山古墳とされている。造営年代は5世紀第1四半期と推定されており、比定は確実視されている。しかし、「古事記」では下巻に収録されてはいない。つまり、かなり抽象化された存在とみなされたのである。 換言すれば、神として崇められる対象ということになろう。そうなれば、初代と15代の可能性が高いと看破したとも言えよう。実際、それぞれ、20世紀、9世紀から、絶大な信仰を集めることになった。 [→ 13 14 15 ] 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |