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■■■ 古代の都 [2018.11.7] ■■■
[時代区分:4] 16〜19代総ざらい

ここからは「古事記」下巻。15代を下巻にもってこなかった点は流石である。天皇家による神権政治史の口承用叙事詩ではあるものの、歴史観は鋭い。
軍事力誇示的な、権威の標章たる超大型の前方後円墳を河内に造成した時代として区切れば、15代を新たな時代と考えたくなるが、そうではないのである。

中国の国史との整合性や、様々な勢力の合意を重視しながら、政権に拙い点を削除するような編纂方針を採らざるをえない国史とは違って、当代最高の知性が考え抜いた結果だからであろう。(「古事記」序文を読めば、資料が他にないからといって、「日本書紀」の情報を混在させるのは避けた方がよいことがわかる。)

言うまでもないが、413〜502年に渡って、倭の五王(讃,珍,済,興,武)が朝鮮半島支配を認める官爵を求めたことが記載されている「宋書」倭国伝を知らない訳がないのである。(最終的には、百済を除く、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の宗主国王として公認されたことになる。)国史編纂者にとってはここらの整合性は極めて重要になってくるが、「古事記」は逆だろう。逆説的だが、だからこそ一番整合する可能性が高い。
(中国情報の問題は、王の名称が、本邦では例が皆無の一字であること。お蔭で、比定説は百花繚乱。中国使用文字の字義/語音解釈は恣意的にならざるを得ないから致し方ない。)

そう考えて「宋書」を眺めると、「古事記」では下記の頃の年代に該当する。素直に受け取れば、[16]大雀命が歴史上確実に存在する証拠がある天皇と言うことになる。(「宋書」記載系譜とは矛盾する記載があるが。)
 394年崩御[15] 品陀和気命/大鞆和気命
 427年崩御[16] 大雀命
 432年崩御[17] 伊邪本和氣命
 437年崩御[18] 水歯別命
 454年崩御[19] 男淺津間若子宿禰命
 _____[20] 穴穂御子
 489年崩御[21] 大長谷若健命
 _____[22] 白髪大倭根子命
 天皇空位 飯豊郎女王
 _____[23] 袁祁王之石巣別命
 _____[24] 意祁命
 _____[25] 小長谷若雀命
 527年崩御[26] 哀本杼命
ともあれ、「古事記」には、この間の「宋書」にある外交話は一切記載されていない。
しかし、要するに、倭国は強大な海軍を擁す海洋国家として君臨していたのは間違いあるまい。従って、宮地は港が見渡せる地になるのが自然。
と言うことで、この時代をこう名付けてみた

摂津〜河内〜和泉時代》

なんといっても、その特徴は、大阪城から南につらなる台地の上に御陵を造営した点。もちろん、16代が始めた訳ではないが、巨大なご陵にして港を支配する権威を示したという点で画期的といえよう。
  【古市古墳群】
__ 倭建命白鳥陵
⇒[14]河内惠賀之長江陵
⇒[15]恵賀之裳伏岡
  【百舌鳥古墳群】
⇒[16]大山古墳=毛受耳原陵
⇒[17]上石津ミサンザイ古墳=毛受陵
⇒[18]田出井山古墳=毛受野陵
  【古市古墳群】
⇒[19]市ノ山古墳=河内之惠賀長枝陵

宮地は、16代だけが難波で、以降はバラバラ。
 [16]難波之高津宮
 [17]伊波禮若櫻宮
 [18]多治比柴垣宮
 [19]遠飛鳥宮@雷丘

そりゃそうだろう。
16代のお蔭で、難波に常設の行宮ができれば、その辺りに新たな宮を造営する必然性に乏しい訳で。

ご陵がここらに集中しているは、もともとは権力の示威としてだろうが、いくつも巨大墳墓を並べたててもたいした意味はない。どちらかと言えば、設計施工や祭祀様式の規格化で、この辺りに造営コンプレックス組織が常駐する体勢が出来上がったからと見た方がよいと思う。農業土木専門家集団とも連携しなければ、土盛工事もできないから、大組織の可能性が高い。
しかも、宮名から見て、大規模後湾工事が行われた可能性も。当時の瀬戸海に出る港と言えば、もっぱら大和川河口の河内湾(あるいは河内潟)近辺の住吉津の筈だが、それを一変させるような大型港湾をつくりあげたのではないか。

つまり、趙大型古墳造営、大規模農地開発、大型港湾化を同時に仕上げたと見る訳である。湾岸地域の景色は一変したに違いない。
当然ながら重い賦役になる訳で、民は疲弊したにちがいないが、長期的にはその効果で経済力は飛躍的に上昇した筈。民の竈から煙があがらぬ話は有名だが、そういう点ではポイントをついた話だ。言うまでもないが、それは渡来人の増加で儒教の影響力がただならぬレベルに達していたことをも物語る。
ただ、それはあくまでも武力を背景にしていた訳で、その頭領的地位にいたのが武将 葛城之曽都毘古と見てよいだろう。ただ、もともと葛城地区の頭領なのだろうから、その海側に続く地域をも支配圏におさめていただろうから、湾岸地域の田圃開発で多大な経済的利益をあげたことも間違いないところ。
 [16皇后] 石之日売命(葛城之曽都毘古の娘)
 [17皇后] 黒比売命(葛城之曽都毘古の子 葦田宿祢の娘)
  葛城之曽都毘古は建内宿禰の子とされる。
[「万葉集」巻十一#2639]
葛城の 襲津彦真弓 荒木にも 頼めや君が 吾が名のりけむ

ともあれ、16代によって、政治経済的な施策によって国家が大繁栄を遂げ、この辺りに御陵を持つ天皇とは、その流れを続けたに過ぎないとも言えよう。
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