[→本シリーズ−INDEX] ■■■ 古代の都 [2018.11.19] ■■■ [04] 吉備国高嶋宮 初代の宮は畝火 白檮原宮だけ場所を取り上げ、[→]海路途中の宮ははっきりしないので名称だけ記載。"古事記の歴史観"を検討した際には、"プレ東征"として、上巻から南方海人時代の話を加えたので、[→]この部分が欠けた形になっている。 そこを見ておこうと思う。 内容を書く前に目次を作ればこうなる。 古代の都[00]高千穂宮 古代の都[01]豊国宇沙足一騰宮 古代の都[02]筑紫国岡田宮 古代の都[03]安芸国多祁理宮 古代の都[04]吉備国高嶋宮 「古事記」には情報はほとんどなにもなく、一見、書くことなどなさそうに思えるが、考古学の情報を参考にすれば、そんなこともない。わざわざ、宮名を書く意味があるのだから、その真意を汲み取る必要があろう。 少なくとも、瀬戸海航路確保にはこれらの要衝を押さえる必要があると語っている訳であるし。 と言うことで、順番は逆だが、吉備国高嶋宮から。 すでに見て来たように、前方後円墳は奈良盆地山辺の道に"突如"出現したとされている。ただ、吉備国にも同時に出現とか。その地の勢力が巨大だったのは間違いない。 「古事記」では8年間過ごしたと記載されており、通り過ぎたというには長い。奈良盆地に先駆けた文化の地だったので、そこでの連合体制樹立には時間がかかったと言うことだろう。 阿遅鉏高日子根神の名前は登場しないが、ここを拠点とした瀬戸海王国が存在していたと考えることもできそう。[→] 「古事記」では、吉備での活動については触れていないが、なにげか、出立すると海亀に乗った水先案内役が登場する話が収載されている。浦島譚かネという程度で、フ〜ンと読み飛ばしがちだが、これは吉備の信仰を描いているのではあるまいか。浪速の海までを支配圏とした海人の話として。 そう考えるのは、常時海水に浸っている亀石を御神体にしている亀石神社@岡山水門で今も祭事が盛んという背景があるから。と言っても、おそらく、東征譚を重視したい人々による、後世の創作だと思う。 しかし、楯築神社ご神体の亀石の方は古代信仰の対象だった可能性が高い。"亀"と見なせる証拠は無いものの、目玉が目立つ人間の顔的な彫り物があり、呪術的神石であったのは間違いなかろう。石の全面に渡り帯状曲線入組(弧帯)文様が刻まれているが、これは吉備地区墳墓に飾られた独自様式の土器、器台、壺の装飾模様と同じだし。 この吉備独特の紋様は特殊らしいが、纒向石塚古墳で1975年に出土した弧文円板で発見されているそうだ。換言すれば、纒向地区の古墳では吉備型の土器、器台、壺が出土していないのだと思われる。このことは、纒向は山の辺の道の最初期の古墳ではない可能性があるとも言えよう。 普通に考えれば、吉備様式の"特殊"な墳墓装飾品とは、その後に一般化した埴輪の原型。・・・ 吉備における器台とは壺用台だが、その壺は底に穴が開けてあり、実用的なものではない。その後の朝顔型埴輪の原型としか思えまい。勿論、器台だけの純装飾品が円筒埴輪に変化したことになる。 この吉備文化は弥生時代から続いて来たことが判明している。高梁川西岸の伊予部山には磐座と墳丘墓[7m]があるが、そこから同様な土器が出土しているし、倉敷真備の黒宮大塚竪穴式石室でも特殊壷形土器・器台・台付壷・高坏などの土器類が確認されているからだ。 このことは、古墳に埴輪を飾る文化は吉備発祥ということになろう。 楯築神社はすでに活動していないので、当時の祭祀を推定することは無理だが、この場所は双方中円形の墳墓でもあり、そこから多少は状況が見えてくる。(楯築遺跡は、前方後円墳以前の墳墓なので、"古墳"でなく、"墳丘墓"と記載することが多い。年代的に古墳時代初期ではなく弥生時代であることを意味する。) 古墳の形状は「円⇒方⇒前方後方⇒前方後円」と大型化という流れが自然だ。(大陸の天地の方円タイプには進まなかった。しかしながら、方は大陸的である。)そして、巨大前方後円墳登場がヤマト国の樹立を意味している。従って、墓制規格で統治したようにも映る訳である。 これ以外の形状古墳もあるが、擬似形(帆立貝, シャモジ)や複葬都合(双円, 双方)程度で特殊あるいは異端とは言い難い。結局のところ、律令国家化に伴い前方後円墳は断絶となり、八角(皇族)+方(遠戚)+円(他)の墓制になる訳だ。 前方後方はこの流れの中に位置付けることができるし、日本海側の四隅が飛出たタイプも所詮は方墳であり、四柱祭祀を被せただけである。ところが、双方中円は異端と言わざるを得ない。 つまり、初代天皇以前の頃の瀬戸海地区は葬送儀礼が違っていた可能性がある。にもかかわらず、墳墓の巨大化と墓域標章装飾化という点を、ヤマト国が全面的に採用した訳で、両者には文化的紐帯があったのだろう。 ●倉敷 南 足守川 楯築墳丘墓@王墓山丘陵北域72m[双方中円] ●奈良盆地 柳本 櫛山150m[双方中円] ●高松 石清尾山塊 猫塚,鏡塚[双方中円] そのような地に宮を置いた訳だが、比定地は沿岸と島嶼に沢山ある。 岡山 宮浦(高嶋神社:児島湾高嶋遥拝)、岡山 賞田 高島の鼻 倉敷 児島塩生 高島(島) 笠岡諸島 高島(当時は島)、笠岡諸島 神島(島) 福山 田尻高島(当時は島)、福山 内海田島(島) 尾道 浦崎高山(当時は島) 瀬戸海の小豆島に近づくには、ここら一帯のどの地に寄港してもおかしくない。例えば、潮待ちに不可欠と思われるのは鞆の浦@備後 福山だし。と言っても、8年間滞在ということは、航路確保のための本格的活動がなされた筈であり、大きな宮だった可能性が高かろう。 ともあれ、その眼目は、高松@讃岐との間に散らばる島嶼がつくる海峡と小豆島辺りの支配ということでは。 ─・─ 亀信仰について ─・─ 亀が神のお遣いという考え方は、沖縄から本州まで、黒潮系海人の共通の理念と言ってよいだろう。とてつもない数の海亀が、特定の場所に渡来し産卵することから来ていると思われる。云うまでもないが、大量捕獲可能であり、神と共食する食材となる。共食儀式の後に、甲羅を加工し、亀卜に使ったのである。 従って、中国の玄武(亀+蛇)信仰とは相容れないし、亀の像を作ることもない。大陸の亀像は、宇宙を四つ足で支える存在と見なすか、甲羅が星座の天球ドームとなると考え、造形されたモノ。従って、日本に残存する形象は、渡来信仰の残滓と見なすべきだろう。尚、銅鐸等で亀らしき像が散見されるが、首長であり、硬い甲羅というか亀甲紋様が無い鼈(スッポン)。両者をカメ一族と見なした証拠はない。 (ご注意) インターネットリソーシスの、Wikiと公的らしき組織の様々な目的の解説から引用しているが、情報そのものに矛盾点は少なくない。出典未詳が多く、情報の質はまちまちだし、著者名も記載されていないのが普通。・・・そのような情報の集成として御覧になって頂きたい。それに加えて、小生が一部改変している。 表紙> (C) 2018 RandDManagement.com |