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■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.7] ■■■
[65] 心地概念や修辞法は似合わない
"仮名序"の第5パラグラフを取り上げよう。・・・
  ❶"やまとうた"とは
  ❷やまとうたの"みなもと"📖歌のみなもとは古事記
  ❸うたの"ちちはは"📖大雀命のどの歌を重視するか
  ❹"うたのさま"むつ"📖太安万侶流の歌分類
  ❺"はじめ"をおもふ
  ❻"かきのもとのひとまろ"と"やまのべのあかひと"
  ❼ちかきよに "そのな きこえたるひと"
  ❽なづけて"こきむわかしふ"
  ❾ときうつりとも うたのもじあるをや


この箇所を一目で読めるようにすると(末尾に掲載)、そんなところか、という印章。
どう見ても、えらく観念的。
主張の意義は誰でもわかるが、それ以上ではない。
失礼ながらが、文芸職専門官僚の作文というところ。この程度の言い方なら許されるだろう。これ以上の言葉で、歌聖達を貶しまくっているのだから。

詩集ではないものの、「古事記」の太安万侶の視野の広さと比較すると、重箱の隅をつつくような話でしかなかろう。
高官だけあって、大所高所から国家全体を眺めながら、社会における歌の役割を考えているように見えるし、古代から綿々と引き継がれて来た歌謡文化をどのように尊重すべきか考えていそう。

もっとも、「古今和歌集」奏上は905年で、「古事記」は712年と、時代の隔たりは余りに大きく、そのような比較をすべきではないかも知れぬが。
太安万侶もわかっていたに違いないが、叙事詩的歌謡の時代はとうに終わっていたのである。

しかし、そのことは仏教の影響をモロ被っているということでもある。だからこその観念論傾斜と言えなくもない。
勝手な見方と言う訳ではなく、冒頭での真名序がいみじくもそれを語ってくれているからだ。・・・
 【仮名序】倭歌は、人の心を種として、・・・
 【真名序】夫和歌者、託二其根於心地。
倭歌とは、唐歌という語彙に対応した漢語的語彙の和歌を倭歌にしたに過ぎない。表面的表現な違いがあるだけで、漢詩の心と、倭歌の心に、本質的違いは無いと言っているようなもの。
!心地!は、漢語と言えば、漢語ではあるものの、どう見ても仏教用語以外のなにものでもなかろう。
・・・あえて、このように記載したと見てよいだろう。

そうなると、「古今和歌集」編纂において、何を重視したかだが、《❹"うたのさま"むつ"》をじっくり記載しているところからみて、いかに修飾するかという技法に重きを置いているということでは。唐詩と同じで、修辞法ということになろう。

叙事詩を文書として残そうと苦闘した「古事記」とは路線が異なっていそう。
叙事詩の場合、いかに生々しく、感動を与えるように、謡うかが鍵。語り手のアドリブが入ってもかまわないし、感極まって皆で唱和することにもあろう。謡う形式は厳格であっても、精神的には自由自在だったろう。ここに、修辞云々の問題が入ってくるとは思えない。
官人は官人らしくだし。身分を捨てて恋に生きる決心をした皇子は雅をすてて感極まる言い回し。それだからこそ、人々の琴線に触れることになる。想像の世界だが、それこどが現実の社会でもある。

一方、"仮名序"が目指すのは、観念の文芸世界での"心地"である。極めて現代的な思想と言ってよいだろう。

はたして、そのような"心地"が古代から存在していたのかは、なんとも言い難しである。先ずは、原始共産制社会ありき、と考えるのと同じことでは。それを否定する根拠は無いが、肯定できる根拠はさらに薄弱と言わざるを得まい。

「古事記」は、冗談やご注意的な記述も紛れ込ましているものの、基本姿勢は、叙事詩的"事実"を並べることで、古代社会の実態を見せていると言ってよかろう。その感覚からすると、おそらく、"仮名序"の観念は理想論ということになろう。しかし、それも良き哉ということになるのでは。

---❺"はじめ"をおもふ---
●今の世の中、
色につき、人の心、花に成りにけるより、徒なる歌、儚き言のみ出くれば、
色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて
真目なる所には、花薄穂(秀)に出だすべきことにもあらず成りにたり。
その初めを思へば、かかるべくならぬあらぬ。
●古の代々の帝、
春の花の朝、秋の月の夜ごとに候ふ人々を召して、事に付けつつ歌を奉らしめ給ふ。
あるは、花をさふとてたよりなきところに惑い、
あるは、月を思ふとて標なき闇に辿れる心々を見給いて、賢し愚かなりとしろ示しけむ。
●しかあるのみにあらず
細石に喩へ、筑波山に掛けて君を願ひ、喜び身に過ぎ、楽しび心に余り、
富士の煙によそへて人を恋ひ、松虫の音に友を偲び、高砂住之江の松も相生(相追)のやうに覚え、
男山の昔を思ひ出でて、女郎花の一時をくねるにも、歌を言ひてぞ慰めける。
又、春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き、
あるは、年毎に鏡の影に見ゆる雪(白髪)と波(皺)とを嘆き、草の露、水の泡を見て我が身を驚き、
あるは、昨日は栄え驕りて、時を失ひ、世に侘び、親しかりしも疎くなり、
あるは、松山の波をかけ、野中の水を汲み、秋萩の下葉を眺め、暁の鴫の羽掻きを数え、
あるは、呉竹の憂き節を人に云い、吉野川を引きて世の中を恨みきつるに、
今は富士の山も煙立たずなり、長柄の橋も造るなりと聞く人は、歌にのみぞ心を慰めける。


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