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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.16] ■■■
[105] 天皇称号の開始時点
天武天皇による、天皇称号の開始について取り上げたが、もう少し考えておきたい。📖下巻で見る天皇称号の開始

「古事記」に天皇という用語が登場するのは、上巻の木花之佐久夜毘賣+石長比賣の御命不長譚。
そして、中巻に入り、神倭伊波礼毘古天皇/[1]神武天皇)から天皇の系譜が始まる。
だが、"初"とされるのは、初國之御眞木(入日子印惠)天皇/[10]崇神天皇
例外は、巻末の豐御食炊屋比賣命/[33]推古天皇で、天皇称号を付けていない。

もちろん、音読みも可能な"天皇"称号がこれほど古代から存在していた筈は無い。万葉集から見て、これに当たるのは、当初は倭語のオオキミ/大君である。当て字として、大王にするのは自然だが、天皇となると自明ではない。
(「万葉集」では聖武天皇を指している称号は大王。但し、天皇ではない高市皇子や石田王も大王である。読みは、於富/於保/憶保/意保+伎美/岐美/伎弥/枳美/吉美なので、現代翻訳では大君となる。)

しかし、必要に迫られた状況はよくわかる。大王/オオキミは天皇以外の尊称にも使われており、現代用語としての"殿下"とほとんど変わらない。従って、皇統譜作成に当たっては、どうしても峻別用語が欲しくなるからだ。
結局のところ、そのために、スメラ命/ミコトと、オオキミ新借字としての天皇の使用が始まったということのようだ。このどちらが先かはなんとも言い難しだが、皇神/スメガミは使われても、皇命は見たことが無いし、〜命天皇と書く場合もあるので、後者と考えてよさそう。文字表記の必要性が切迫していたのだろう。

それが、何時の時からかは、「古事記」にはヒントはなさそうに思えるが、逆である。太安万侶には「古事記」に叙事詩を残そうという思いが強いが(歌謡的発声記譜挿入)、それは裏を返せば、語り部から書籍への転換を意味しており、「古事記」後の、34代天皇からは完全に文字社会に入ったと見なしていると考えられるからだ。
つまり、天皇という文字を使い始めたのは、[34]舒明天皇であると見なしているということ。しかし、それを確定させたのは「古事記」編纂を命じた[40]天武天皇と見てよいだろう。
それは、天皇という語彙は渡来語といっても、中華帝国での基本称号はあくまでも皇帝であり、天皇は道教用語だからだ。
…唐朝では、[3]代皇帝 高宗の諡号"天皇大聖大弘孝皇帝"[在位:649-683年]のみが天皇の称号を用いている。実権は皇后の武則天に握られていたようだが。
他には、遼[初]太祖の耶律阿保机/大聖大明神烈天皇帝[872年-926年]が一代限りの"天皇帝"称号を用いている。天皇称号はそんなところである。


太安万侶の書いた序文は、朝廷の歴史観は道教の上に成り立っていると書いているようなもの。それは[40]天渟中原瀛"真人"天皇の影響力が大きかろう。このことは、天皇称号使用を確定させたのは、この代ということと同義と見てよいのでは。

ただ、道教の天皇の観念を取り入れたのは、[34]舒明天皇からと考えるべきだと思う。

それを強く感じさせるのは、1つには御陵の形式の変遷。

600年頃、全国展開していた前方後円墳が造られなくなり、一部地域に大型円墳あるいは方墳が、特定の地域に造営されるようになった。どう見ても外見の威風を誇る、大量労働力投入型陵墓から、内部の高度装飾型石室建造型に変わったのである。時代から見て、仏教の影響であろう。

そして、それも「古事記」最終巻までで、そこから突然、八角陵墓に変わる。最初は、旧来の御陵を改造したようだが、天皇の地位を示すために特別設計されるようになったのは間違いなさそう。
<"御陵地"磯長谷古墳群@南河内太子[30〜33]>📖小治田宮
⊥太子西山古墳…[30]敏達天皇(川内科長/河内磯長中尾陵)前方後円墳93m
⊥春日向山古墳…[31]用明天皇(科長中稜/河内磯長原陵)方墳63m
⊥山田高塚古墳…[33]推古天皇(科長大稜/磯長山田陵)長方墳63m
          +竹田皇子
⊥叡福北古墳…聖徳太子(磯長墓)円墳55m
  <場所的例外[32]:史書では暗殺>📖倉橋柴垣宮
⊥倉梯岡陵@桜井倉橋…[32]崇峻天皇(倉椅岡上陵)円墳
 or 赤坂天王山古墳@〃方墳51m
<"八角"陵墓[34〜42] …「古事記」収載代後>
⊥段ノ塚古墳@桜井…[34]舒明天皇(押坂内陵)[基台は前方後円形]【小山田遺跡⇒改葬】
⊥岩屋山古墳@明日香[基台は方形]
⊥牽牛子塚古墳…[35/37]皇極/斉明天皇
⊥御廟野古墳@京都…[38]天智天皇
⊥野口王墓古墳@明日香…[40]天武・[41]持統合葬
⊥束明神古墳@高市高取…草壁皇子(真弓山陵)
⊥中尾山古墳@明日香…[42]文武天皇
  <例外[36]:中大兄皇子と対立し孤立>
⊥山田上ノ山古墳…[36]孝徳天皇(大阪磯長陵)円墳30m
  <例外[39]:壬申の乱敗死の大友皇子>
⊥長等山山麓古墳@大津御陵…[39]弘文天皇(長等山前陵)円墳
薄葬[43]>
⊥奈保山東陵…[43]元明天皇 「古事記] 成立
     (遺詔で古墳否定、雍良峯での火葬(山丘墓)。但し、碑建造。[「続日本紀」]


もう一つは、宮に於ける、大極殿の存在である。言うまでもないが、この名称は道教から来ており、最高神の天皇大帝の居所という意味である。当然ながら、そこには八角形の神座があり、それは現代も紫宸殿に常設されている高御座=玉座のこと。
とはいえ、藤原京や平城京に於ける大極殿存在ははっきりしているものの、どこから大極殿造営が始まったのかの検証は難しそう。飛鳥浄御原宮での存在は確実であるが、突然生まれる訳もなく、おそらく飛鳥岡本宮からであろう。

時代的に流してみるとこうなる。・・・📖畝火白檮原宮
先史[無文字]
 (無土器時代)
 (代表地を特定できない土器形式の時代)
 ("弥生"町で出土したパターンの土器が使われていた時代)
大和の時代(御陵祭祀◆1〜29)
 前期◆1-15
 後期◆16-29
飛鳥の時代
 御陵地期◆30-33
   豊浦宮@向原寺/蘇我稲目邸◆33-1
   飛鳥小墾田宮@雷丘東方遺跡◆33-2 ↑「古事記」対象
 飛鳥宮(岡本宮)=向原寺岡本宮◆34[舒明]-1(火災)
 田中宮=法満寺@橿原畝傍◆34-2
 厩坂宮@橿原大軽◆34-3(伊予行幸後仮宮)
 百済宮+百済大寺@吉備池廃寺◆34-4
 飛鳥小墾田宮◆35-1[皇極]
 飛鳥宮(板蓋宮)◆35-2
 飛鳥小墾田宮◆36-1[孝徳]
 難波 長柄豊碕宮@摂津◆36-2
 飛鳥宮(板蓋宮):火災◆37-1[斉明:皇極重祚]
 飛鳥川原宮◆37-2
 飛鳥宮(岡本宮)◆37-3
 朝倉橘広庭宮@(福岡)朝倉山田◆37-4
 近江大津宮@大津錦織◆38[天智]/39[弘文(大友皇子)]
 嶋宮/蘇我馬子邸宅跡@明日香島ノ庄◆40-1[天武]
 飛鳥宮(岡本宮)◆40-2
 飛鳥宮(浄御原宮)◆40-3/41-1[持統]
奈良の時代
 藤原京@橿原高殿◆41-2/42[文武]/43-1[元明]
 平城京I◆43-2/44[元正]/45-1[聖武]
 恭仁京@山背相楽/木津川加茂◆45-2
 紫香楽宮@甲賀信楽宮◆45-3
 難波宮@難波長柄豊碕宮跡地◆36-2/45-4
 平城京II◆45-5/46[孝謙]/47[淳仁]/48[称徳]/49[光仁]/50-1[桓武]
  [行宮]小墾田宮=小治田宮=雷丘東方遺跡◆47[淳仁]/48[称徳]
平安京の時代
 長岡京◆50-2[桓武]
 平安京◆50-3[桓武]/〜

飛鳥の時代は現代の眼から眺めると、とんでもない時代である。一般には逆のイメージで美しく描かれていたりするが、「古事記」が描こうとしないのも道理と言えないでもない。

皇位継承争いの熾烈化は極端であり、血脈正統性誇示のためか近親婚だらけ。しかもクーデターはいつ何時発生してもおかしくない状況で、敗者となれば、一族絶滅もありうるのだ。

王朝転覆を当然視し、敵対する血脈に対して、子々孫々迄抹消の義務を負うという、倭の風土とは正反対の、儒教の宗族絶対主義の影響と考えるのが自然だ。ただ、儒教の氏族内婚禁忌や、宦官制度には馴染まなかったようだが。

ともあれ、これこそ、大陸の"先進"文化が一挙に入って来た結果である。太安万侶は、おそらく、ここらを冷徹に眺めている。歴史教育では、飛鳥から奈良の時代は、鎮護仏教ばかりが目立つ時代だが、そればかりに注目していては変化が読めなくなると言うこと。・・・親仏教ではないから、「古事記」が仏教について触れていない訳ではないと見るべきだ。📖崇佛皇帝賛辞も記載

当然ながら、道教の取り入れも図った筈である。

ところが、この場合、絶対神たる天帝=星神と天子=中華帝国皇帝(封禅@泰山)の関係を最重要視する道教(太一信仰)と、本朝の太陽神信仰を習合させるのは無理である。別天神と習合させるしかないが、そうなると天照大神を最高神とするヒエラルキーと齟齬が生まれてしまう。スムースに道教を取り入れることは原理的に困難。
しかも、道教の基底には、各地固有の土着信仰を寄せ集めた流れがある。君臨する最高神あって、初めて神々の官僚的ヒエラルキー制度が成り立つ訳で、機能発揮の神々だけを取り入れるのも難しからおう。しかも、老子あるいは形而上の「道」という観念に至っては、経典や教義とは無縁な、各地各氏族の敬う八百万の神々とは繋がりようがない。
にもかかわらず、太安万侶が指摘するように、道教的歴史観が主流の社会なのだ。常識的には驚くべきこと。

ただ、その理由を「古事記」が周到に指摘しているとも言える。
それこそが、天皇称号開始。

人々は、皇位継承を魂の受け渡し観念でとらえているにもかかわらず、道教や儒教の"天帝⇒天子"の天命概念を取り入れようと図ったのはまず間違いあるまい。
天皇を寿ぐ伝統を引き継ぎながら、天帝信仰をそれに接ぎ木することになり、いかにも無理筋。天孫(皇神)=天皇とすれば、道教の天帝="One of 星神s"とするしかなくなるからだ。しかし、国際情勢を考えれば、それしか有りえまいとの判断だったのだろう。
当然ながら、道教型信仰は宮中の一部でしか通用しないことになり、道教の広がる道は閉ざされたも同じ。

【ご注意】天皇という名称は倭語でない以上、道教由来なのは間違いないし、上記の論旨はそれに沿っており、自然な見方だと思う。しかし、ココには間違っていると思われる箇所も入れ込んであるのでご注意頂きたい。わざわざそんなひねくれたことをしたのは、星神=天帝⇒天皇ではないと見ているから。これを取り上げるとゴチャゴチャしてくるので避けただけ。太安万侶風で書いてみた訳ではないが、直截的記載はしにくいのである。そこら辺りは、一段落してから別途。
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