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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.10] ■■■
[252] 「上宮記」系譜を無視する理由
皇統断絶の危機に直面し、5代遡って継承者を探し出した話の不思議なところは、皇統譜を提示しその正当性を示そうとはしていないところ。
この部分の情報を補いたい場合は、卜部兼方:「釈日本紀(「日本書紀」注釈書@鎌倉期)」が記載している、「上宮記」を引用した某書の一文を参照するしかない。
と言うことで、系譜はすでに眺めている。
  📖哀本杼命新王朝論について 📖皇統譜の提示が第一義
㊥巻
品陀和気命/大鞆和気命/応神天皇
┼┼㊦巻
├──[16]
┼┼├─┬─┐
┼┼
┼┼
┼┼
┌┤
┬△
┼┼┼├─┐
┼┼┼[25]
哀本杼命/継体天皇
┼┼┼△手白髮命
└─┬─┘
[29]
[30]
│└○
[34]…皇嗣記載(岡本宮天皇)
[31] [33] …「古事記」"完"
[32]
[27] [28]

この書だが、「古事記」成立時には存在していたのだから、太安万侶はこの情報を使いたくなかったのである。そうなると、どこかにひっかかる点があったことになろう。気になるので、この「上宮記」逸文を眺めてみることにした。・・・

「上宮記」曰:
  一云
  …某書引用
⑮凡牟都和希王
  …品陀和氣命/応神天皇
0△<洷俣那加都比古女子>[名]弟比賣麻和加
  …※咋俣長日子王の女 息長眞若中比賣
生兒
 若野毛二俣王
  …若沼毛二俣王
1△母々㤙己麻和加中比賣
  …㤙=恩
  …百師木伊呂辨/弟比賣真若比賣※同⇒0△と1△が逆
生兒
 大郎子 [一名]意富々䓁王
  …大郎子/意富富杼王
 △[妹]踐坂大中比弥王
  …忍坂之大中津比売命
 △[弟]田宮中比弥
  …田宮之中比賣
 △[弟]布遲波良己等布斯郎女
  …藤原之琴節郎女
   四人也
  …7人(+田井之中比売+取売王+沙禰王)
意富々䓁王
2△中斯知命
生兒
 乎非王
3△<牟義都国造[名]伊自牟良君女子>[名]久留比賣命
生兒
 汙斯王

 伊久牟尼利比古大王
  …伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇
  ○伊波都久和希
   …[皇子]石衝別王(祖:羽咋君, 三尾君)
   ○伊波己里和氣
    ○麻和加介
     ○阿加波智君
      ○乎波智君
      娶 △余奴臣[祖] [名]阿那尒比弥
      生兒
       ○都奴牟斯君
       4△[妹]布利比弥命 也
汙斯王 坐"弥乎國高嶋宮" 時
  …弥乎=近江郷高島郡(安曇川)三尾郷)
聞 「此 4△布利比賣命 甚美女」
 遣人召上 自 三國坂井縣
  …越前三國坂井に三尾という地名は無いが、水尾が該当するとの説がある。
    (帰郷し育児した場所に弥乎國名は残ってしかるべきだが、これは一般地名。)


所生
 "伊波礼宮"治天下 乎富䓁大公王 也
  …哀本杼命/継体天皇@伊波禮玉穂宮
[父]汙斯王 崩 而 後
4△[王母]布利比弥命 言曰
  「我獨持抱王_
   无親族部之國
   唯我獨難養育比陁斯奉」

   (自分が一人親族のいない国で、ただ一人で養育するのは難しい。)
之云
尒將下去於 [祖]三國命
  …天武天皇により三國公は"眞人"姓を賜わった。📖太安万侶の地位情報の危うさ )
 坐 多加牟久村
  …多加牟久村=高椋村高向@越前三國坂井縣

・・・読めば、太安万侶の姿勢を全面的に支持したくなる。

「上宮記」のような方針は嫌いなのである。国史はあくまでも朝廷の公書であり、編纂は官僚の知恵を120%活用して行われる。後世から見れば改竄となるが、政治的状況を勘案しての許せる範囲での描き方の工夫であるし、できる限り相互矛盾なきように妥当と考えられる書き換えが行われているに過ぎまい。儒教国の場合はさらに、国威発揚のチャンスあらばさらなるドギツイ創作が加わることもあるが、それは当たり前である。
しかるに、「上宮記」はいかにも無責任に映る。有能なプロジェクト担当者が分担して集めた情報から、必要な部分を引用したただけに見えるからだ。国史プロジェクトとは違い、この場合の"一云"とは、収集情報をママ記録しただけで、その方針なら、「酉陽雑俎」のようにソースを記載すべきなのに。
太安万侶が、そう判定したのは、0△1△がおかしいからだ。逆なのだ。この婚姻関係は姉・妹の連続と考えたから、「上宮記」は弟⇒中になっていて、どう見ても間違っていることになる。慣習を知らずにメモ的記載でよくわからない書を読んで勘違いしていることに気付いたのは間違いなかろう。
大郎子の子の数も、4と7で違いがある。敬称が比賣ではなく、比弥とされているから、かなり古い情報であるのは間違いないが、太安万侶からすれば、ここは多数の婚姻関係を必要とした時代だから、数は多い筈と見た点もありそう。

もう一つは、天皇の母系がから男系で記載されている点。これだけでは、何の意味があるのか、と言うことになるが、主旨自体は自明。・・・「上宮記」は近江高島三尾⇔越前三國坂井の関係を、そこまでして書く必要があったことになる。一方、「古事記」は、近淡海國からの招来天皇であり、御陵は三島之藍御陵というのみで実に淡泊。

この気分、よくわかる。琵琶湖北西岸に経済基盤が生まれる必然性は、日本海側港湾と繋がる以上ではなく、仏寺はあるものの、目立つ前方後円墳は一つも存在していないのだから。農耕地としても、奈良盆地の農法の延長しか考えられない訳で。残るは騎馬戦法軍事力の可能性程度。
しかし、越前となれば別。
三国は、この時代、圧倒的な米穀生産量を誇る状態に迄達していた可能性があるからだ。近江勢力は、これをバックとして淀川〜瀬戸内一帯とも繋がり、塩調達がどうなっていたのか調べていないが、敦賀を押えれば鉄器充足に問題は無いから、実質的には、外交交易権を握る朝廷の力を凌ぐほどと考えてもよかろう。
大阪湾から奈良盆地に都を移した朝廷中央としては、実質的都が淀川河口や近江に移すべきかで、対立があったのは間違いないだろう。上宮とは、大和ではあるものの、淀川河口と近い位置にある訳で、近江勢力寄りということだろう。

しかし、結局のところ、太安万侶が活躍した天武朝で、近江勢力は飛鳥〜伊勢〜尾張〜美濃に駆逐されてしまった。せいぜいのところ、皇統譜に近江から招請した天皇が存在したと記載するだけで十分と考えるのは自然なこととは言えまいか。

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