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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.2] ■■■
[305] 河内の坂門原はお話と見たか
御陵非記載天皇について見て来たが、一番古い22代清寧天皇の河内坂門原陵を見ておこう。
  24代仁賢天皇📖 28代宣化天皇📖 29代欽明天皇📖
比定地は白髪山古墳@羽曳野西浦(前方後円115m)

話の筋から言えば、本来皇嗣たるべき父皇子を殺害した㉑大長谷若健命を恨んでいる㉓袁祁王が、憎んでいる対象の唯一の皇子 ㉒白髪大倭根子命から皇統を引き継ぐことを快く思う訳もなく、御陵の面倒を引き続きみようとする白髪部の活動を容認するかは微妙なところでは。いかにも儒教的だが、一族すべてを子々孫々まで罰を与えた話が収載されている以上、先代だからといって、例外的に扱う理由はなにも無いのだから。

ともあれ、面倒を見る組織が消滅すば急速に御陵の存在は忘れ去られてしまう筈。
河内坂門原陵の伝承が確かなのかはなんとも言い難しというのが、太安万侶の見立てと違うか。天皇として認定した以上、御陵の記載が必要ということで、推定するしかないという事態に陥っていたことを示している可能性もあろう。

インテリなら、口に出すことはないが、その辺りピンと来ておかしくないからだ。そもそも、兄弟の名称自体が余りに簡素。どう見ても"ヲ"トト/弟と"お"おえ/大兄という接頭語を祁(≒大 他の意味はなさそう)に付けただけ。いかにも、養育された家(氏族や地の名称)を欠いていることを示す命名と言わざるを得まい。このことは、本貫地というか出自の辺りに御陵を造営するパトスを欠いていることを意味しよう。
従って、河内坂門原という御陵の地名はどうしても文芸的創作に映ってしまう。祖父に当たる⑰履中天皇の九死に一生的な事績を頂戴した名称ではなかろうか、と。そんな場所をわざわざ選択する必然性に乏しいから、この疑念を否定しようが無いのである。
つまり、御陵名から比定地を捜したのではなく、逆。竹内街道沿いにあって、伝承を欠いていそうな前方後円墳を御陵に設定した可能性が頭に浮かんでくるのである。

大雀命/仁徳天皇
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大江之伊邪本和気命/履中天皇
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蝮之水歯別命/反正天皇
┼┼男浅津間若子宿祢命/允恭天皇
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┼┼┼┼○市辺之忍歯王
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┼┼┼┼┼┼㉔意祁王/仁賢天皇
┼┼┼┼┼┼│㉓袁祁王/顕宗天皇
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┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼小長谷若雀命/武烈天皇
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┼┼┼┼┼┼┼┼穴穂御子/安康天皇
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼大長谷若健命/雄略天皇
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┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼白髪大倭根子命/清寧天皇
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