→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.18] ■■■ [321] [私説]皇統を示す地から外された御陵例 思うに、皇統断絶の危機直面が最大の山場。播磨国での2王子発見と兄弟間の皇嗣騒動回避は、それをどう解決したかについての話の核となる。それを記載し終えれば、それこそ、そこで"完"でもよいのである。 ただ、ここからは国際的なパワーバランス大変動の時代でもあり、そこらを描きたかったろうが、一官僚の見方を開陳できる訳もない。そこで、考えた結果、生み出されたのが事績なき系譜記載による、社会の変化を伝える方法論。 ・・・と言うことで、最終段の"小治田宮"の読み取り方を書いてみた。 📖[私説]小治田宮への道間の角逐 系譜上で言えば、質的に異なる国際化対応が始まったことを示した訳だ。竹内街道整備と磯長谷への御陵集約と、前方後円墳放棄を示すことで、道程選択の激烈な権力闘争が生まれたことを示したことになろう。 系譜を眺めた瞬間、大きな流れに棹差す、反竹内街道の姿勢が顕わな32代天皇の存在が目立つことになる。磯長谷での御陵設営は認める訳にはいかなかったのである。 さて、それでは29代はどうなっているかと進みたくなるものの、28代ともども、御陵無記載である。コリャ駄目だとなる。 奈良盆地外竹内街道 ○磯長谷…33, _, 31, 30 《32》寺川上流宮地近辺 不明瞭 □無記載…29, 28 : □無記載…24 <↑事績記載無し> : □無記載…22 同じく未記載である22代より以前を眺めると参考になることに気付けば、どうということもない。・・・ <佐紀⇒巻向柳本⇒古市/百舌鳥⇒(不明瞭)⇒磯長谷>という御陵地域変遷が見て取れれていればの話だが。ここで、鍵を握るのが、20代御陵。32代の扱いから類推するに、古市での埋葬が認められなかったことを示唆していると考えられるからだ。その場所は、奈良盆地内西北と思われるが、比定古墳は定かではない。 奈良盆地外竹内街道 不明瞭 : □無記載…22 奈良盆地外海側 ○古市…21, _, 19, ____, 15, 14 ○百舌鳥…___, 18, 17, 16 奈良盆地内東山麓 ○巻向柳本…_________, 12, _, 10 奈良盆地内西北 ○佐紀…_, 20, ________13, _, 11, _, 9 《20》菅原伏見 《13》沙紀之多他那美 《11》菅原之御立野中 《_9》伊邪河之坂上 何故に、20代が、32代同様に特別扱いなのかは、説明するまでもなかろう。皇后の連れ子に、父親殺戮の恨みで暗殺されるという、権威喪失間違いなし的事績で有名なのだから。 御子がいないこともあり、天皇は代が御陵護持の部を設定しただろうが、長続きするとも思えず、御陵が保たれ続けたかはなんとも言えまい。 と言うことで、次ぎは、<不明瞭>の箇所に挑戦といこう。 ---------------📖古墳リスト再掲--------------- ●佐紀 五社神276m▲▲▲=狹城楯列陵◇[14]皇后🈜 ウワナベ265m▲△🈭 市庭250m▲△◇51🈭 佐紀石塚山220m▲△=沙紀之多他那美陵◇13🈜 ヒシアゲ218m▲=◇[16]皇后磐之媛陵🈭 佐紀陵山208m=沙紀之寺間陵◇[11]天皇妃日葉酢媛命▲△🈜 小那辺204m▲△🈭 佐紀高塚127m 神明野114m 塩塚109m 佐紀瓢箪山96m ○佐紀遠南方孤立(大和西大寺駅南の尼ケ辻駅) 宝来山226m▲△=菅原之御立野中陵◇11🈜 〇現奈良 伊邪河之坂上陵◇9 〇若草山山頂 鶯塚103m 〇高畑 吉備塚/[伝]真備墓20m --------------------------------------------- ---磯長谷@南河内 太子 📖御陵記載が必須である意味 ┐↓上ノ太子駅 └──┐┼┼┼┼┌┘ ─○─│────┘近鉄南大阪線 ┼┼┼└┐ ┼┼┼┼└┐ ┼┼┼┼┼└┐R166:竹内街道 ┼┼┼┼⊥┼└┐⊥ ←山田上ノ山古墳(円)◇36 ┼⊥┼┼┼┼┼└──────── ┼┼┼┼┼┼⊥┼┼⊥ ←小野妹子墓 ┼┼┼┼┼┼↑山田高塚古墳(方)=科長大稜◇33 ┼┼┼┼↑春日向山古墳(方)=科長中稜◇31 ┼↑太子西山古墳(前方後円)=川内科長◇30 --- ◇32…寺川上流宮地近辺に比定地@倉橋池北東側。☚ 7の宮は寺川に近い。 --- ◇29…無記載 ◇28…無記載 --- ◇26…@摂津 高槻 ◇24…無記載 ◇23, 25…@王子辺り(7:それ迄と違い宮地と離れた地。) ◇22…無記載 ---古市 ◇27, 21, 19, 15, 14 ---百舌鳥 ◇18, 17, 16 ---巻向柳本 ◇10, 12 ---佐紀 ◇20, 13, 11, 9 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |