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■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.29] ■■■
[605]「古事記」が語る歴代遷宮の意味
袁祁王@近飛鳥宮+播磨国美嚢郡志深里の4宮と志毘臣@平群の角逐と、皇嗣招請者の飯豊郎女@葛城 忍海高木角刺宮、と書いていて📖大和の雅を無視する鄙文化に喝采か、ふと、歴代遷宮についてもう少し細かく触れておくべきだったと反省。太安万侶は重要ななメッセージを折角残しておいてくれたのだから。・・・
古代に行われていた歴代遷宮は、当初から倭国のルール(藤原宮で廃止。)とされていたようで、極めて珍しい慣習である。その理由は確定していないようだが、母系制からくる成人独居制度(父子絶対的別居)が底流であるのは間違いないだろう。これに、崩御の死穢忌避感情と、即位=新造成建物居住慣習が重なることも多かっただけのことだと思う。これが、臣がからむと、連合国家の代表持ち廻り制に似てきて、皇位継承争いに乗っかって来るので、宮地は常に振れることになる。このような状況だと、歴代遷宮のルールから、なかなか抜け出せないことになる。📖[安万侶サロン]宮名へのこだわり 📖宮地名への拘り…《宮名(「延喜式」対応)》

歴代遷宮について語る場合は注意が必要なので、先ずはそこから。下記の、「古事記」後の動きを混ぜて考えてはいけない。太安万侶は、はっきりと峻別しているのだから。・・・
---歴代遷宮最終期---
【飛鳥地区全体が都】
…ほぼ1世紀
㉝(小治田宮)[628 年崩御]@「古事記」最終段⇒
㉞(飛鳥岡本宮)⇒㉟(飛鳥板蓋宮)⇒㊱(難波宮)⇒㊲(飛鳥板蓋宮 飛鳥川原宮 飛鳥後岡本宮 飛鳥田中宮 朝倉橘広庭宮)⇒㊳/㊴近江大津京(667-672年)⇒
[内裏-朝堂-官衙]㊵飛鳥"浄御原"宮(672-694年)⇒
【都城制(坊条)】…ほぼ1世紀
藤原京(694-710年)⇒平城京(710-740年)⇒恭仁京(740-744年)⇒難波京(744年)⇒紫香楽宮(745年)⇒平城京(745-784年)⇒長岡京(784-794年)⇒
【平安京(大内裏)】

首都としての宮域を整えた藤原京以後もほぼ20年毎に都を移転させているが、その理由はどうでもよい。「古事記」記載との関係性の有無が読み取れるとは思えないから。
飛鳥地区における宮は、それ以前とは異なる。その辺りについては触れたが、上記の流れでわかるように飛鳥域が都であり、各天皇の宮地を記載することはできるが、それは実質的には宮室であって、場合によっては旧宮室を転用したり建て替え使用してもなんら問題は無い筈である。条坊構造ではなく、地理的にはバラバラの寄せ集めの構造で、寺や、官のそれぞれの組織体が散在していたのは明らか。
それでも、それ以前とは全く違っている。<都>と呼べる統治システムが導入されており、歴代遷宮制度とは似て非なる仕組みである。

「古事記」記載の歴代遷宮は、どうみても単純そのもの。倭国特有となるのは、女系性の名残のせい。宗族信仰の儒教国ではないから、本来的には都を設定する必要性がないから、宮地が転々とすることになるだけの話。特殊な観念があると考えるべきではなかろう。・・・
中華帝国では、王朝革命での遷都はあるが、同一王朝での歴代遷宮の慣行が存在した形跡は一切ない。強固な宮城構築のためという実践上の意義は小さなものではないが、儒教国家である以上、君主宗廟地を決定する必要があり、都を動かすのは宗廟地を荒らされるリスクを感じた時のみ。(儒教では宗族の不名誉を招いた者と非婚者は死後の世界を失う。敵対宗族の絶滅は子々孫々の義務であり、宗族長は宗族繁栄のチャンスを常に伺っており、実現可能そうなら手段は選ばない。・・・見かけとは違って安全な社会ではなく、都城構築と王朝への絶対忠誠制度構築には半端なき注力となる。)

太安万侶は、必ず、天皇段毎に、冒頭で"坐〜宮治天下也"と表現しており、皇嗣は遷都地を定めて宮号を付けることが即位を意味する書き方になっている。そもそも、伊邪那岐命伊邪那美命二柱~の時から八尋殿@淤能碁呂嶋が設定されており、速須佐之男命も"宮可造作之地 求出雲國"と云うことで須賀宮を作るのだから、一代毎に宮作りすることは、国家樹立儀式そのものとの観念が出来上がっていたことを意味しよう。
天皇名は宮地表記にするのが普通なことでわかるように、遷都(宮地)こそ皇統譜の根幹であるとされていることがわかる。
宗族信仰ではないし、天帝の命を権威として必要としてい訳でもないから、皇后と臣が同意するなら、即日でも皇嗣として旧宮で儀式を行なうことは可能な筈。その後で、旧宮で葬儀を終えることで、天皇魂を受け継いだことになり、新宮を設定すればよい。
しかし、喪(殯〜葬儀〜埋葬)を執り行う体制の確立なくしては事は運ばないから、そう簡単に行く訳ではない。旧宮組織が指示に従う必然性に欠けるからだ。しかも、皇嗣が自明とも限らないから、空位となって、皇后が代役を務めるしかなくなる場合も多かろう。(中華帝国都城のように、今上天皇の宮脇にその第一皇子が居住させられることはない。しかも、一般的には皇嗣は自明でないから、皇子は春宮でなく、独自の宮に居住すつことになる。崩御後、宮は殯の地になるから、皇嗣の皇子が入って政務を司る訳にもいかないから、自身の宮か、新皇后の地に新たに設定した新宮をその場所に当てるしかあるまい。)
それを考えると、統治の自信があるなら、自らの皇子宮で即位して、正統性誇示のために葬儀を司る方を選ぶことになろう。
どうあれ、前宮の組織と皇嗣の組織のマージが前もって準備されている訳ではないから皇位継承時の混乱は免れまい。この観点では、ルールはほぼ無きに等しいと云ってよかろう。

こんな状態を想起すれば、歴代遷宮とは、フラグメントな土着女系族の島嶼社会の文化そのものと考えるのが自然である。(末子相続に目が行くが、兄は他の地へ移って新天地を切り拓くことに着目すれば、肝心要の資産継承者たる娘は資産保全の近親婚ではなく、外部から婿を得て資産増大を狙う手もある。)
これを考えれば、歴代遷宮に特殊性があるとの見方は避けた方がよかろう。経済合理性からして、そのような社会が形成されて当然だからだ。(日本列島は、気候・地質・地勢が余りに多様で、箱庭的状況だったため、単純な土地確保と奴隷投入でが経済的富を増大どころか減少しかねないからだ。)

全体を俯瞰するとそう考えざるを得ない。
【葛城】
┼┼<②葛城高岡宮>
┼┼<⑤葛城掖上宮>
┼┼<⑥葛城室之秋津嶋宮>
石之日売命(葛城之曽都毘古の娘)
└┬─⇐⑯【難波】
├⑰⇒【磐余】
├○墨江之中津王【難波】
├⑱⇒【−(多治比柴垣宮)】
└⑲⇒【飛鳥】
黒比売(葛城之曽都毘古の子 葦田宿祢の娘)
└┬─⇐⑰【磐余】
├○市邊忍齒別王⇒【石上】
├○御馬王
└△飯豊郎女<葛城 忍海高木角刺宮>
【石上】
都怒郎女(丸邇の許碁登臣の女)
└┬─⇐⑱【葛城】
├△甲斐郎女
└△都夫良郎女
弟比売(丸邇の許碁登臣の女)
└┬─⇐⑱【葛城】
├□御子財王
└△多訶弁郎女
┼┼<⑳石上穴穂宮>【近江〜越前】
n.a.
└┬─⇐【葛城】市邊忍齒別王
├㉓袁祁王之石巣別命⇒(播磨)【難波】
└㉔意祁命⇒(播磨)<㉔石上廣高宮>
糠若子郎女(丸邇日爪臣の女)
└┬─㉔↑
└△春日山田郎女
【難波】
┼┼<⑯難波之高津宮>
難波王
└┬─⇐㉓袁祁王之石巣別命<㉓近飛鳥宮>
《無》
【磐余】
┼┼<⑰伊波禮若櫻宮>【葛城】
┼┼<㉒伊波禮甕栗宮>
【長谷】
┼┼<㉑長谷朝倉宮>【近江〜越前】
【飛鳥】
┼┼<⑲遠飛鳥宮>【葛城】
【近江〜越前】
忍坂之大中津比売命(意富本杼王の妹)
└┬─⑲⇐【飛鳥】【葛城】
├⑳⇒【石上】
├㉑⇒【長谷】


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