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■■■ 「古事記」解釈 [2022.8.28] ■■■
[604]大和の雅を無視する鄙文化に喝采か
即位前の袁祁王と志毘臣の歌垣掛け合いの読み方について書いたが📖鮪と大魚と揶揄するしかなかった、これらの歌が織りなすストーリーは戯作以外のなにものでもないとの見方を提示してみただけ。ここが肝心な点。
「古事記」は、程度の差はあるものの、史書の補助文献あるいは聖典として読むのが普通なので、そのような見方には呆れ返ってしまう、となろう。そんなこともあるので、多少の補足を加えておくことにした。

先ず、時代状況の確認。
飯豊郎女王の天皇空位時代が終わり、23代袁祁王之石巣別命顕宗天皇に。宮は近飛鳥宮。
8年間統治し、38歳崩御。御陵は片岡石坏岡上。📖
娶ったのは難波王のみで、御子は居ない。
飯豊郎女王の後背勢力 v.s. 平群等の勢力の角逐が酷かった時代の記憶ということでは。結局のところ、実質天皇位にあった飯豊郎女王は、正史から外されたのであるから📖下巻収録天皇のランク、その力で地位を築けた袁祁天皇を褒めたたえる雰囲気に欠ける状況で、「古事記」が編纂されたことになる。

当然ながら、この天皇についての事績記載無しになるが、なにも書かれていない訳ではなく、父王御骨探しと父王殺戮者の大長谷天皇への恨みでの御陵毀損は行われたという、特徴的な活動が細かく書かれている。

ただ、即位前については詳しい。
しかし、即位前の歌垣もそうだが、記念あるいは祭祀として、朝廷の行事として残されるという類の題材ではなかろう。にもかかわらず、稗田阿礼の記憶に残っている位で、なんらかの行事に関係していたことは間違いなかろう。皇嗣兄弟譚ならわかるが、初代天皇から縁がある行事とはいえ、歌垣がそれほど意味あるものかははなはだ疑問である。大和国の俗的風習だから、雅として扱われることはおよそ考えられないし、中華帝国型儒教的統治の模倣が進んでいる以上、未開地蛮族の廃止すべき仕来たりとされるタイプなのだから。
にもかかわらず、伝承譚として残されて来たのだから、これはエンターテインメントジャンルと云うことでは。
大雀命と建内宿祢の掛け合いは豊楽での天皇のユーモアが肝であり、これと同様な扱いを受けていた可能性も。📖鴈産卵の戯歌も収載渡来のかしこまった形式の鑑賞や、伝統あるもののバラバラな雅だけでは飽きてしまう訳で、それを突き破る、鄙的な袁祁王の対応に大拍手といったところではあるまいか。

ともあれ、この天皇は大和の雅には合わなかったようである。どっぷりと播磨の奥地文化に染まっていたと見ることもできそうだから。
歌垣で振られたこともあって、大和の女性にはとんと惹かれず状態であってもおかしくない。奴を可愛がってくれた志深里の娘達が好みであっておかしくない訳で。・・・近飛鳥宮で統治していたとは限らないことになる。[「播磨国風土記」美嚢郡【志深里】]]
・・・於奚袁奚天皇 自此以後更還下
造宮於此土 而 坐之
故有

 高野宮
 少野宮
 川村宮
 池野宮

(隠れていた市辺之忍歯王御子発見の地は針間国志自牟@三木 志染で、そこから葛城忍海高木角刺宮に招請された。)
┼┼加古川
┼┼┼美嚢川
┼┼┼┼┼└志染川┬染川
┼┼┼┼┼┼┼大谷川(志染大谷)
┼┼┼┼┼┼┼淡河川(志染戸田⇒淡河)
┼┼┼┼┼┼┼細目川(志染細目⇒志染四合谷)

---------------------------------
⑰伊邪本和氣命/履中天皇@伊波禮若櫻宮
└┬黒比売命(葛城之曽都毘古の子 葦田宿祢の娘)
├┬┐
○市邊忍齒別王📖市辺之天皇との呼称は正当
│○御馬王
△青海郎女/飯豊郎女@葛城 忍海高木角刺宮

└┬△
┼┼├──┐
┼┼㉓意祁命/仁賢天皇@石上廣高宮
┼┼┼┼
┼┼┼┼㉓袁祁王之石巣別命/顕宗天皇@近飛鳥宮
┼┼┼┼└┬△難波王(石木王の娘)
┼┼┼┼┼《無》
┼┼
┼┼└┬△春日大郎女(㉑皇女)
┼┼│├△高木郎女
┼┼│├△財郎女
┼┼│├△久須毘郎女
┼┼│├△手白髪郎女(㉖皇后)
┼┼│├㉕小長谷若雀命/武烈天皇
┼┼│└○真若王
┼┼└┬△糠若子郎女(丸邇日爪臣の女)
┼┼┼└△春日山田郎女(㉗皇后)

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