→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.11] ■■■ [657]山多豆歌に再度触れておこう 国史は「古事記」とストーリーが異なってしまうことがあり、そうなると「古事記」とは異なる収録先を考える必要があるが、見つからなければ没しかない、という話で、それが一番わかり易いのが次の歌。📖「万葉集」軽皇子歌の扱いが違う理由 [歌88]君が行き 日長くなりぬ …此云<山多豆>者是今<造木>者也 この樹木は、多数の小さい白い花からなる大きな散房状の房(英)をつけるので愛でられていたようだ。実をつけると確かに多豆である。 木英: 陸英: この先、書いていることに、なんらオリジナル性がある訳ではない。「萬葉集」注記記載者が、以下に示すように、国史を引用しており、それが示唆していることを書いているだけ。念のため。📖徹底的に磨き込まれた兄妹婚歌謡 [巻二#90]古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀<慕>而追徃時歌曰 [左注]右一首歌「古事記」与「類聚歌林」(逸書)所説不同歌主 亦 異焉 因檢「日本紀」曰: "【難波高津宮御宇大鷦鷯天皇(仁徳)】 【廿二年春正月】天皇語皇后 納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰 天皇歌以乞於皇后云々 【卅年秋九月乙卯朔乙丑】皇后遊行紀伊國 到熊野岬 取其處之御綱葉 而 還 於是 天皇伺皇后不在 而 娶八田皇女納於宮中 時皇后 到難波濟 聞天皇合八田皇女 大恨之云々" 亦曰: "【遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇(允恭)】 【廿三年春三月甲午朔庚子】木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女 亦 艶妙也云々 遂竊通乃悒懐少息 【廿四年夏六月】御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親々相奸乎云々 仍移太娘皇女於伊豫者" 今案 二代二時不見此歌也 話は跳ぶが、それにしても「記紀」のストーリーの違いには面食らう。輕皇子皇女近親相姦が問題視されたという点では両者一致していながら、伊予へ流されるのが、皇子と皇女と全く異なるし、罪状も違う。 しかも、同一歌を所収していながらだ。 なかでも、素人を驚かせるのが、<大王を島に葬らば船余り/大王を島に葬り船餘り・・・>の句。("葬る≒放る") 「古事記」なら、皇子が伊予に居るから、"船で帰るゾ〜"という言葉を掛けて励ます気分はわかる。しかし、国史では皇女が伊予に。そうなると、この歌はどういう意味でとればよいのか理解に苦しむことになる。 しかし、一寸考えるとそれは致し方ないことに気付くことになる。 「古事記」は"口誦"ストーリーが命。文字化しても、読者に感動を与える口誦叙事の内容に引けを取らぬだけの威力が発揮できなければ折角の努力が無駄になるからだ。その姿勢で、稗田阿礼が覚えている内容をトリミング・補強した結果が収録文に。 一方、国史は編年の事績を矛盾なく記載することに先ずは全力投球。"文殊の知恵"プロジェクトであり、政治的忖度が必要となるので自ずと様々な制約が生まれる。しかも、総力をあげて情報を寄せ集めて完璧を目指しただろうから、入手した記録自体が矛盾だらけになっていてもおかしくない。従って、文字通り、熟慮検討の上での、取捨選択・訂正が不可欠。流れを"強引にでも"一本化しない限り成書化など夢物語。それは簡単なことではなく、お手上げで放棄する訳にもいかないから、コリャなんなんだ的なものも生まれてもおかしくない。輕皇子皇女近親相姦譚はその手の話のような気もする。 上記に示した「萬葉集」の注記記載者は、両書がそのようなものであることを100%理解しているように思える。だから持って回った長たらしい例外的な記載に踏み切ったとも思えてくる。 要するに、この歌は「古事記」では輕皇子皇女近親相姦譚に収録されているが、実は、全く無関係の歌なのでご注意の程と書いているようなもの。もちろんそんなことを書ける訳が無いし、見方がわかるように細かい点にも触れていないが、国史が、この歌を輕皇子皇女近親相姦譚に収録しなくて当然と言いたいのだと思われる。 なにせ、わざわざ国史の仁徳天皇段にも収録されていないという、ヘンテコな説明があるのだから。・・・他書(「類聚歌林」)から案ずるに、「古事記」所収歌は、本来的には允恭天皇段の輕の歌ではなく、仁徳天皇段の大后脱宮に絡む相聞歌である、と記載したも同然。 [巻二#85]相聞 / 難波高津宮御宇天皇代 [大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇] / 磐姫皇后思天皇御作歌四首 [左注]右一首歌山上憶良臣「類聚歌林」載焉 言外に、輕皇子皇女近親相姦譚が「古事記」と国史で余りに違うので、公的に認められているのは国史しかありませんゾと、としているような気もする。 太安万侶流石と思うのは、そんなこともあろうと、分かっていた点。 それが、<山多豆=造木>との注である。植物"山たづ"を詠み込んでいると、はっきり書いてある。これでは、皇后の歌にはなるまい。 従って、「萬葉集」収録歌#85と#90の小異は、実は大異であることがよくわかる。句"山たづの"が"山尋ね"となっているからで、注記記載者が語るように、これでは仁徳天皇の皇后が詠んだ歌とせざるを得まい。 さて、どちらがオリジナルかとなるが、小生は自明と考える。("山尋ね"は山に入って行く訳ではなかろうが、そんな雰囲気を醸し出しており、情緒的恋歌ではない。どういうつもりで作られた歌かよくわからないところがある。)そもそも、「古事記」の輕譚は特殊と言ってもよいのかも。地文と歌の相互作用は乏しく、数多くの歌が並ぶことでストーリーが生まれる構成と言えなくもないからだ。そうなると、そこから抜き出した1首の独立歌に、はたしてどれだけの価値があるのか疑問が生じてくる。 ただ、だからといって、地文がたいした意味なしという訳ではない。この構成だからこそ〆の文章が輝いてくるからだ。奏楽無しに静かに平坦に語ることで、聴衆の琴線に触れる演出と言えよう。秀逸。 如此歌 卽 共自死 <故 此二歌者讀歌也> (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |