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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.30 ■■■

中華仏教観

東アジアの大乗仏教は、仏教国家の隋と道教国家唐が基盤を作ったと見てもよいだろう。
なかでも特筆すべきは、唐代中期に様々な宗派が現れたこと。しかし、そのような熱気がありながら、その後は、個人修行的イメージを振りまいた禅宗を除けば命脈も留めないほど零落一途。現状を見れば、その禅宗もマイナーなものでしかなさそう。
その一方で、伝来先の日本には、この当時の姿がそのまま残っていると言ってよいだろう。

そんな多宗派仏教の時代を生きていた、成式はどのように見ていたのか気になるが、その辺りについては用心深く避けた記載になっている。
実際、どのような中国仏教宗派が生まれたのか、僧侶名で整理した上で考えてみたい。あくまでも小生の視点で書いているので、そこらはご注意のほど。・・・

***大乘***
<新漢訳ベース経典派>
唯識宗, 法相宗 or 慈恩宗(印度瑜伽行派)
  玄奘[602-664年]@大慈恩寺 →「尊師玄奘」
 攝論宗
<伝来経典ママ使用の実務派[ご利益型]>
密宗 or 真言宗(密傳派)
  善無畏[637-735年]
  金剛智[669-741年]
  不空[インド僧 705-774年]@大興善寺
<旧漢訳ベースの経典派>
三論宗(印度中觀派)
  鳩摩羅什[344-413年]@戸縣草堂寺
  吉蔵[549-623年] 新三論
 涅槃宗
  法顕[337-422年]
<異端[禁止令で消失]>
三階教
  信行[540-594年]
<経典総合化派>
天台宗 or 法華宗(印度佛法派)
  慧文─慧思[515-577年]─智[538-597年]@浙江天台山
華嚴宗(法界縁起派)
  法藏[643-712年]@陝西華嚴寺
 地論宗
<新機軸派>
律宗(傳持戒律派)
 南山宗
  道宣[596-667年]@業寺
 相部宗
  法砺@相州日光寺
 "緑天庵"東塔宗
  懐素[725-785年](書家)@太原寺東塔
禅宗 or 佛心宗(修習禅定派)
  菩提達磨[n.a.-528年]@河南少林寺
 5宗派(下記系譜[◆宗祖])
念仏宗、淨土宗 or 蓮宗(往生阿弥陀佛派)
  道綽[562-645年]
  │
  善導[613-681年]@香積寺
  │
  承遠[712-802年]
***聲聞***新興宗派から小乗と揶揄されていたようだ。
成實宗(←曇宗)
  鳩摩羅什(再掲) @壽春立寺
舍宗
  世親尊者[陀羅国]
  玄奘(再掲) @慈恩寺
***宗派不詳***
  萬迴[632-711年]・・・風狂僧
  行儒[インド僧]
  金剛三昧[倭僧] →「天竺から帰還の倭僧」
***禅宗***
[1]菩提達磨
└曇林
[2]慧可

[3]

[4]道信[580-651年]

[5]弘忍

[6]神秀

[7]普寂
││└
│└一行 →「一行禪師伝」
[8]宏正

│ (n.a.) 元鑒

慧能____
│││││└崇一
││││└永嘉
│││└荷沢─南印
│││ (青原禅師は死後"弘済"とされたか。)
││青原[n.a.-740年]─石頭
│南陽─耽源
南嶽

馬祖[709-788年]
│││└大珠
││└南泉─趙州[778-897年]
││├─洞山[807-869年]◆宗祖
││└─曹山[840-901年]
│盤山
└普化
百丈
│└黄檗[n.a.-850年]─臨済[n.a.-867年]◆宗祖
[771-853年]◆宗祖
││└香巖
│└仰山[804-890年]─巌頭
巌頭

徳山

雪峰
│└雲門[864-949年]◆宗祖
玄沙

羅漢

清涼/法眼[885-958年]◆宗祖

成式の認識は、すべての始まりは玄奘との認識。持ち込まれた大量の原初経典の翻訳が進んだ結果、大乗に関しての議論が活発化し、中華仏教のレベルは印度を越えたと見ていそう。しかし、その貴重なタネ本がすべて葬り去られたのを一番嘆いているからこそ「酉陽雑俎」と命名したのだろうし。
ただ、それは官僚政治社会の宗教を旨とする道教の勃興を呼び込んだということでもあろう。

天竺僧や胡僧の話が登場するが、おしなべて歴史が古い国からやってきた以上の姿勢を見せることができない例をあげているように思える。プライドだけで、そのうち零落すると見ていそう。
この辺りの見方、現実をよく見ている感じがする。「玉格」篇で、仏教の宇宙との比較がなされているように、仏教の構成を真似、土着信仰総まとめ的な"精緻"な世界を形成している状況が細かく記載されているのは、そういう意味がありそう。流石、官僚的宗教だけのことはある。思想性は決定的に乏しいが、解釈はどうにでもなるように作られており、用語的な統一だけはしっかり決めていることがよくわかる。
このことは、成式的には、道教の政治的優位性は以下の点から決定的と見ていたことになろう。
 1. 権力お助け勢力。(李氏王朝祖を老子として箔をつける。)
 2. 内部派閥は風土的違いでしかない。
 3. 経典は仏教対抗視点で作られている。
 4. あくまでも実務(ご利益)最優先。
 5. 土着祭祀取り込みに制限なし。
どれもこれも、仏教勢力にとっては、それを100%肯定できず、さりとてその姿勢をとらざるを得ないことになるから、インテリ層以外に見捨てられる可能性はかなり高い。
天子がその気になれば、仏教勢力のこうした弱点を道教に突かせるのは実に簡単である。(仏教経典は多数であり、相互矛盾は至るところに存在する。いわば、それを乗り越えようという教義集団が上記の<経典総合化派>といえよう。)
ダイレクトに道教と実務で競おうというのが、<伝来経典ママ使用の実務派[ご利益型]>。
不空の事績の引用はいかにも、その辺りが強調されていると言ってよかろう。
これが、成程感を生む。道教崇拝天子の下では、この姿勢では勝負になるまい。日本は官僚制宗教や科挙は風土に合わないが、中華社会とは津々浦々まで官僚でなけらばヒトにあらず感覚が定着している訳で、密宗はいずれ道教に放逐されるか取り込まれるしかあるまいと示唆しているようなもの。
インド僧不空と金剛三蔵の祈祷請雨が淡々と記載されており、呪術の威力ありというだけにすぎぬ。但し、そんな僧をどう活用していくかで、プラスにもマイナスにも働くことになる。帝の力量が問われる訳だ。
梵僧不空,得總持門,能役百神。玄宗敬之。常旱,上令祈雨,不空言:“可。過某日令祈之,必暴雨。”上乃令金剛三藏設壇請雨,連日暴雨不止,坊市有漂溺者。遽召不空,令止之。不空遂於寺庭中捏泥龍五六,當溜水,作胡言罵之。良久,復置之,乃大笑。有頃,雨霽。 [卷三 貝編]

そして、ほとんど引用する気がないのが、天台・華厳系である。
「華厳」名の僧侶は登場してはいるものの、問答相手の一公がどういった僧なのかよくわからぬ。一行の可能性もある。その場合、今村与志雄が指摘するように、「華厳」は師たる普寂である可能性が高かろう。
ただ、一行は禅僧ではあるが、密教も習得しており、華厳経だけそのままにしておく筈もなく、そのような観点での記載とも思える。
禪師も不詳だが、流れから見て華厳経解釈の重鎮僧侶だろう。
その後に、突然、「列子」の話になり、人々はそれを「名言」と呼ぶが、そういった状況に陥ると欺かれ易くなるものと指摘している。華厳経には好印象を持っていないようである。
相傳雲,一公初謁華嚴,嚴命坐,頃曰:“爾看吾心在何所?”一公曰:“師馳白馬過寺門矣。”又問之,一公曰:“危乎!師何為處乎末也?”華嚴曰:“聰明果不虚,試復觀我。”一公良久,,面洞赤,作禮曰:“師得無入普賢地乎?”
集賢校理鄭符雲:“柳中庸善《易》,嘗詣普寂公。公曰:‘筮吾心所在也。’柳雲:‘和尚心在前檐第七題。’復問之,在某處。寂曰:‘萬物無逃於數也,吾將逃矣,嘗試測之。’柳久之瞿然曰:‘至矣。寂然不動,吾無得而知矣。’”
禪師本傳雲:“日照三藏詣不迎接,直責之曰:‘僧何為俗入囂湫處?’,亦不答。又雲:‘夫立不可過人頭,豈容標身鳥外?’曰:‘吾前心於市,後心末。三藏果聰明者,且復我。’日照乃彈指數十,曰:‘是境空寂,諸佛從自出也。’”
予按《列子》曰:“有神巫自齊而來,處於鄭,命曰季鹹。列子見之心醉,以告壺丘子。壺丘子曰:‘嘗試與來,以吾示之。’明日,列子與見壺丘子。壺丘子曰:‘向吾示之以地文,殆見吾杜コ機也。’嘗又與來,列子又與見壺丘子。壺丘子曰:‘向吾示之以天壤。’列子明日又與見壺丘子,出曰:‘子之先生不齊,吾無得而相焉。吾示之以太沖莫朕。’嘗又與來,明日又與之見壺丘子,立未定,失而走。壺丘子曰:‘吾與之虚而猗移,因以為方靡,因以為流波,故逃也。’”
予謂諸説悉互竄是事也。如晉時有人百擲百盧,王衍曰:“後擲似前擲矣。”蓋取於《列子》均後於前之義,當時人聞以為名言。人之易欺,多如此類也
 續集卷四 貶誤

さて天台だが、日本的な感覚から言えば、言葉は悪いが、知の巣窟のイメージが強い。
そこから様々な宗派が生まれてくるからだ。しかし、中華文化ではそうはならないことを、成式先生はよくご存知。
勉学の仕方が理念的すぎ、実務から遠ざかっている雰囲気が醸し出されるとウケない社会だからだ。お布施には見返りが不可欠と考える風土。そのなかで、経典を矛盾なくまとめるための教学に凝ってしまうと、道教と競争しても勝ち目は薄かろう。僧慧思辺りから、修行上では道士の神仙思想を取り入れていたようだし。
政治に直接関与せず、道教との親和性を保って残る方向を早くから模索していたように映る。

成式の時代、新興仏教宗派が勃興していた訳で、傳持戒"律"派、修習"禅"定派、往生"阿弥陀佛"派の3勢力が目だっていた筈である。ところが、最後の宗派についての記載はないようだ。貴族と違って、インテリには死後の世界の"阿弥陀佛"興味が薄かったということかも。

律宗は、一応触れている程度。
道宣/宣律和尚は、終南山仲間として、道教の孫思ともツーカーの仲。戒律中心なので、修行を重視するタイプの道士とは通じるところがあるということだろう。
孫思嘗隱終南山,與宣律和尚相接,毎來往互參宗旨。時大旱,西域僧請於昆明池結壇祈雨,詔有司備香燈,凡七日,縮水數尺。忽有老人夜詣宣律和尚求救,曰:“弟子昆明池龍也。無雨久,匪由弟子。胡僧利弟子腦,將為藥,欺天子言祈雨。命在旦夕,乞和尚法力加護。”宣公辭曰:“貧道持律而已,可求孫先生。”老人因至思石室求救。 [卷二 玉格]
懐素は名書家。"素晴らしき書"が所蔵されているとの記載あるのみ。しかし、傳持戒律派の重鎮でもあり、太原寺東塔で活動していた僧侶でもある。
安邑坊玄法寺,初居人張頻宅也。---
---西北角院内有
懷素書,顏魯公序,張渭侍郎、錢起郎中贊。 [續集卷五 寺塔記上]

禅宗には惹かれるものがあったようだ。普寂、道、一行の作り上げた世界には一目置いていたようである。だからこその一行中心の記述。

それ以外の禅師としては、元鑒/玄覽が登場する。道高有風韻ということであるから、存在するだけで風格を感じさせる僧侶だったことがわかる。
当時からすれば一級品の賛つき絵画をそれこそゴミのように平然と処分し、「あるがママの自然体」こそ仏教の真髄と公然と語る様は、後世の公案の世界に近い。
禅宗発展の方向性を嗅ぎつけていたと見てよさそう。
大歴末,禪師玄覽住荊州陟寺,道高有風韻,人不可得而親。常畫古松於齋壁,符載贊之,衛象詩之,亦一時三絶,悉加堊焉。人問其故,曰:“無事疥吾壁也。”僧那即其甥,為寺之患,發瓦探,壞墻梠l,未嘗責。有弟子義詮,布衣一食,覽亦不稱。或怪之,乃題詩於竹曰:
  “大海從魚躍,長空任鳥飛。”
忽一夕,有梵僧撥戸而進,曰:“和尚速作道場。”
言:“有為之事,吾未嘗作。”僧熟視而出,反手闔戸,門如舊。笑謂左右:“吾將歸歟!”遂遽浴訖,隱幾而化。 [卷十二 語資]
「江陵陸侍禦宅宴集觀員外畫鬆石圖」---觀夫公之藝,非畫也,真道也。--- [「全唐文」卷六百九十]
段成式云:「大歴末,禪師元鑒住荊州陟寺,道高有風韻,人不可得而親。嘗畫松於齋壁,符載贊之,象詠之,時號『三絶』,悉加堊焉。人問之,曰:『無事疥吾壁也。』其徒有殺物命者,弗之責;有高行者,亦不稱。或怪之,乃題詩於竹曰:『大海從魚躍,長空任鳥飛。』」乃知象大暦間江陵詩人也。 [「唐詩紀事」卷四十三 衛象]

そして、南方の禅僧達。理屈屋ではなく、博学的知識もあり、実践的だと見ていたようだ。
崇一は医薬のプロでもある。成式は、そこらの名声で、南方で禅宗が力を発揮できたと見ていそう。丹薬の道教では今一歩というところ。
寧王憲寢疾,上命中使送醫藥,相望於道。僧崇一療憲稍,上ス,持賜崇一緋袍、魚袋。 [卷三 貝編]

行儒はインド僧だが、医療専門だったようだし、生物の知見も豊かなのである。
石班魚,僧行儒言,建州有石班魚,好與蛇交。南中多隔蜂,大如壺,常群螫人。土人取石班魚就蜂樹側灸之,標於竿上向日,令魚影落其上,須臾有鳥大如燕,數百,互撃其碎,落如葉,蜂亦全盡。 [卷十七 廣動植之二]
そのリーダー格は弘済。不詳の僧であるが、指導者としての力量を感じさせる逸話であるから、青原禅師の可能性が高い。妖怪などなにするものゾという姿勢で臨む宗派であることがよくわかる。
醫僧行儒説,福州有弘濟上人,齋戒清苦,常於沙岸得一顱骨,遂貯衣籃中歸寺。數日,忽眠中有物其耳,以手撥之落,聲如數升物,疑其顱骨所為也。及明,果墜在床下,遂破為六片,零置瓦溝中。夜半,有火如卵,次第入瓦下。燭之,弘濟責曰:“爾不能求生人天,憑朽骨何也?”於是怪絶。 [卷十三 屍]

ただ、成式が人間的に興味を惹かれたのは、宗派勢力とは距離を置いた萬迴上人のようである。風狂僧を装っているから、インテリのサロンに参加はありえないが、直観力と社会の洞察力に優れておりその能力を高く評価しているのは間違いない。
特に、萬回上人のお蔭で一族壊滅を回避できた、権謀術数の世界でのお話の意味深である。[卷三 貝篇]
   <僧萬回の話>@「壺と貝」
出自の状況からみて、天賦の才能ありだが、政治的に立ち回らない僧であることから、「凄い僧」であると評判をたてることで帝がとんでもない方向に引き摺られないように頑張って欲しいと声援を受けていたのは間違いないところ。
萬回年二十余,貌癡不語。其兄戍遼陽,久絶音問,或傳其死,其家為作齋。萬回忽卷餅磨C大言曰:“兄在,我將饋之。”出門如飛,馬馳不及。及暮而還,得其兄書,緘封猶濕。計往返,一日萬裏,因號焉。 [卷三 貝編]

そうそう、日本では知られていない、天竺で修行した倭僧 金剛三昧[→]とも知己。と言うか、多分、馬が合うお仲間的人物であろう。政治勢力や宗派抗争から離れ、精神的にバランスがとれた僧だからだ。いかにもインテリ好みの僧である。
仲良くなれば、仏教の将来性も見えてきたに違いない。そして、印度帝国や中華帝国は広大な範囲を支配する以上、様々な土着信仰の寄せ集め的な宗教の道を歩まざるを得ないから、仏教はそのうち排除されかねないと危惧の念を持っていたに違いあるまい。
もしかすると、中華仏教は日本で残ることになるかも、と話をしていたりしたかも。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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