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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.9.26 ■■■

牡丹史

「卷十九 廣動植類之四」には、牡丹史が。・・・
牡丹,前史中無説處,
文献的には、牡丹は古書に見えないとの指摘。
つまり渡来種であり、隋/唐以前は鑑賞対象の花木ではなかった訳だ。

もっとも、文献的には皆無ではなく、例外的なものありと。
唯《謝康樂集》[謝霊運[385-433年]の文集]中言"竹間水際多牡丹"。
ところが、そのような記載を当該書で見つけることができない。
成式先生、自宅の竹林で育てているのを見られてしまい、もともとこういう処に育っている植物だから生えているのではないか、とからかったのではないか。竹と牡丹の組み合わせにも違和感を覚えるし。

隋代では、漢方薬にしてから関心を呼ばなかったとのこと。70巻もの農学書を検索したというのだから、こちらは本当だろう。

成式隋朝《種植法》七十卷中,初不記説牡丹,
則知隋朝花藥中所無也。
開元
[713-741年]末,裴士淹為郎官,奉使幽冀回,至汾州衆香寺,得白牡丹一,植於長安私第。
天寶
[742-756年]中,為都下奇賞。
ところが、8世紀中ごろになると、長安の詩人達は、帰還した裴士淹の邸宅に植えられた、たった1株の白牡丹を愛でるようになったというのである。汾州衆香寺からの移植だという。これが、首都における牡丹愛好の嚆矢という訳である。

実態のほどはなんともいえぬが、隋 煬帝[在位:604-617年]が、洛陽に造成した植物園的な西苑に、易州産牡丹を移植させた辺りが転換点と見られているようだ。

唐代になり、武則天[在位:690-705年]も好きだったようで、上苑で嚴冬酒醉で遊んだ際の詔書が知られている。小生は、洛陽の上流階級の作り話ではないかと思うが。・・・
 明朝游上苑,火急報春知,花須連夜發,莫待曉風吹。
マ、知られているのは、こちらかも知れぬが。
 若一夜之間,百花齊放,
   那該有多好,我可是堂堂的武則天,那百花豈敢違抗我的旨意!

洛陽を愛す人々にとっては、ここは「焼骨牡丹」の地ということでもあろう。(一面雪景色の宮殿の庭に咲くのは紅梅のみで、他の花もコレを見習えとの命。コレに唯一従わなかった牡丹は焼却処分の上、捨てられた。その地は洛陽で、翌春、見事な咲きっぷりを見せた。)

冒頭の、「天寶[742-756年]中,為都下奇賞。」とは、玄宗[在位:712-756年]晩期である。帝が大いに囃したから、この時期に一気に人気が沸騰したのであろう。
天寶中、李白供奉翰林、時禁中初種木芍薬、移植興慶池沈香亭前、会花開、上[=玄宗]賞之、太真妃[=楊貴妃]従、上曰〈賞名花、対貴妃、焉用旧楽詞為〉、命李亀年持金花箋、宣賜白、為〈清平楽詞〉三章、李白奉詔、即興揮毫、写下了〈名花傾国両相歓、長得君王待笑看、解釈春風無限恨、沈香亭北倚欄干〉等絶句。  [李翰林別集序]

開花と聞けば首府長安は興奮の坩堝と化したようで、洛陽はおそらくそれ以上。そんな雰囲気を伝える詩がある。・・・
    「賞牡丹」  劉禹錫[772-842年]
   庭中芍薬妖無格 池上芙蓉浄少情
   唯有牡丹真国色 花開時節動京城
 庭の前で咲く芍薬は、妖艶なれど品位無し。
 池の上で咲く芙蓉は、清浄なれど風情少なし。
 ただ、牡丹のみ、真の中華帝国的色艶有り。
 その花が開く時節、京城内は鳴動しつくす。


ここで皮肉の一発でもかましてもよさそうなものだが、自分も牡丹を育てたりしているので、流石にそれは拙いかということか。

ということで、牡丹を愛でた詩は沢山ありそうなものだが、よく調べていないと言い訳。ただ、裴給の邸宅での牡丹鑑賞は人気ありだったとだけ。コレ、白楽天の「裴給事宅白牡丹」[長安豪貴惜春残,争玩街西紫牡丹。・・・]ではないのか。(作者が異なるという説もあるようだが。)

當時名公有《裴給事宅看牡丹》詩,時尋訪未獲。
一本有詩雲:
 “長安年少惜春殘,爭認慈恩紫牡丹。
  別有玉盤乘露冷,無人起就月中看。”


もちろんのことだが、高級官僚としての地位を守るためにも、白楽天には、人気の花をめぐる様々な詩作あり。・・・
 「白牡丹」 閨中莫妬新妝婦,陌上須慚傅粉郎。・・・
 「白牡丹」 白花冷澹無人愛,亦占芳名道牡丹。・・・
 「白牡丹」 城中看花客,旦暮走營營。・・・
内容的には、他の花は平凡そのものだが、比較にならぬほど富貴な姿との"賞賛"に徹しているだけ。以下の詩を見ても、"狂ったよう"に大流行していたことがよくわかる。[→]
 「新楽府 牡丹芳 美天子憂農也」  白居易
 牡丹芳,牡丹芳,・・・
  :
 濃姿貴彩信奇絶、雜卉乱花无比方。
 石竹金錢何細碎、芙蓉芍葯苦尋常。
  :
 花開花落二十日,一城之人皆若狂。
  :

小生の印象にすぎないが、白楽天は、この大流行には、かなり批判的だったのでは。

成式の上司だったこともあった、李徳裕[787-850年]も牡丹の華やさを早くから愛していたようだ。こちらも、余りの大流行に疑問を感じていた模様。そこらは、成式も共感していたと見てよいのでは。[→]
(衛公)又言:
 “貞元
[785-804年]中牡丹已貴。
  柳渾
[715-789年]善言:
   ‘近來無奈牡丹何,數十千錢買一顆。
    今朝始得分明見,也共戎葵校幾多。’”
成式又嘗見衛公圖中有馮紹正圖,當時已畫牡丹矣。

 [續集九 支植上]

長安では西明寺@延康坊西七条が牡丹の花で有名であり、一般開放されていたと言われる。元白楽天が詩を残している。にもかかわらず、「寺塔記」では、そのような庭園話には余り力が入っていないように思える。[→]
大慈恩寺については、牡丹の話が一言あるとはいえ。
寺中柿樹白牡丹。是法力上人手植。  [卷六 寺塔記下]

さて、巻十九の記載に戻ろう。8〜9世紀についての状況がさらりと触れられている。・・・
太常博士張乘嘗見裴通祭酒説。
又房相
[697-763年]有言:
 “牡丹之會,不預焉。”
至コ
[756-757年]中,馬仆射鎮太原,又得紅紫二色者,移於城中。
元和
[806-820年]初猶少,今與戎葵[=タチアオイ]角多少矣。

なにげない書き方だが、成式の感情がそのまま出ている。
祭酒という官を拝命している裴給という人物とは、牡丹狂いで訪問する詩人がひきもきらずだった邸宅の持ち主たる裴士淹の息子である。あの時はものすごかったですナと語っている訳だ。
そんな雰囲気のなかで、時の宰相 房[697-763年]は、牡丹の会に出席してなんの意味があるのだとの態度を貫いたのである。
なかなかの人物。されど、マ、どうでもよいことだから、適当にあしらえばよいのにと、成式先生は見ていたのではないか。
なにせ、その後、さらに新しい色の品種が移植されたりした訳で、人気は一過性ではなかったのである。それでも、9世紀初めは普及はそれほどまでではなかったが、その後は一世風靡そのもの。

と書いてくれば、ここで、成式が話を収めるとはとうてい思えまい。

その通り。
ここで面白話を一発である。 [→]
韓愈の甥の不思議な牡丹栽培能力をとりあげている。詩が花に浮き出たというのだ。貴種というか、奇異な牡丹の栽培に血道も上げるのも結構だが、抱えている問題から逃避しても、どうかネ〜ということか。
それは正論ではあるが、人々は、権謀術数の政治には飽き飽きしていたということでもあり、派手な花を鑑賞して皆で大騒ぎして、気を紛らわせていたとも言えよう。・・・
韓愈侍郎有疏從子自江淮來,年甚少,韓令學院中伴子弟,子弟悉為辱。韓知之,遂為街西假僧院令讀書,經旬,寺主綱復訴其狂率。韓遽令歸,且責曰:“市肆賤類營衣食,尚有一事長處。汝所為如此,竟作何物?”拜謝,徐曰:“某有一藝,恨叔不知。”因指階前牡丹曰:“叔要此花青、紫、黄、赤,唯命也。”韓大奇之,遂給所須試之。乃豎箔曲尺遮牡丹叢,不令人窺。掘四面,深及其根,ェ容入座。唯齎紫礦、輕粉、朱紅,旦暮治其根。幾七日,乃填坑,白其叔曰:“恨校遲一月。”時冬初也。牡丹本紫,及花發,色白紅暦香C毎有一聯詩,字色紫,分明乃是韓出官時詩。一韻曰“雲秦嶺家何在,雪擁藍關馬不前”十四字,韓大驚異。且辭歸江淮,竟不願仕。
この話、結構、気にいられているようだ。以下の話がある。・・・
俗漢が庵にやって来たので、茶を呈していたところ、「老人、死に臨んだ時に辞世の偈を作りますか?」と訊かれた。"韓愈の甥、韓湘が碧色の牡丹を育て、花や葉に韓愈の句を浮かびあげた"との故事を思い出し、辞世用詩句を漏らされたんだゼ、との冗談話をしたが通じる訳もない。 [破戒禅僧 万里集九:"要識「梅花無尽蔵」,人人襟袖帯香帰"@1506年・・・市木武雄:「梅花無尽蔵注釈」続群書類従完成会 1993年]

さらに、興唐寺の牡丹にも触れている。
興唐寺有牡丹一,元和中著花一千二百朶。其色有正暈、倒暈、淺紅、淺紫、深紫、黄白檀等,獨無深紅。又有花葉中無抹心者。重臺花者,其花面徑七八寸。興善寺素師院牡丹,色絶佳。元和末,一枝花合歡。金燈,一曰九形,花葉不相見,俗惡人家種之,一名無義草。合離,根如芋魁,有遊子十二環之,相須而生,而實不連,以氣相屬,一名獨搖,一名離母,言若士人所食者,合呼為赤箭。

ただ、すでに述べたように、牡丹のメッカとは、西都の長安ではなく、東都の洛陽。
そちらについては、別篇で、「紫牡丹」話として取り上げられている。
古来の伝説風に仕上げてあるが、成式の上記の記述からわかるように、唐代に作られた都会における作り話ということ。
東都尊賢坊田令[成コ軍節度使 田弘正[764-821年]]宅,中門内有紫牡丹成樹,發花千朶。
花盛時,毎月夜有小人五六,長尺余,遊於上。如此七八年。
人將掩之,輒失所在。

  [續集卷二 支諾皋中]
洛陽の尊賢坊に節度使 田弘正の邸宅があった。
門から中に入ると、紫牡丹が樹木となって繁っており、1,000もの花が咲き乱れる庭があった。
その花が盛んな時になると、月夜には、毎晩、背の高さ1尺余りの小人達五〜六人が、花の上で遊んでいた。
そんな状況が7〜8年続いた。
ところが、それを疎ましく思う人がおり、花を覆ってしまった。
すると、登場しなくなってしまった。


せっかくの月夜の遊びを封じ、花を取られぬようにするなど、全くもって小人そのもの。花の生気を失わせるだけという、都会の人々の嘲笑談なのであろう。

尚、成式より後になると、本格的な牡丹狂想曲の時代に突入する。
  「牡丹」 晩唐 王
  牡丹妖艷乱人心,一国如狂不惜金。
  曷若東園桃与李,果成無語自垂陰。

洛陽での栽培品種も一気に増え、花色だけでも、紅、白、粉、黄、紫、藍、緑、K、復の9色に。

(参照) 陳秀美:"從社會互動論唐人「牡丹熱」之文化意涵" コ霖學報第28期 2015年
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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