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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.10 ■■■

唐詩人史

「貶誤」篇があるが、今村与志雄 訳では"誤用をたどる"とされている。この冒頭では、碁の「5並べ」ゲームでの用語を正しく扱っていない話をあげており、この巻では笑止千万な誤った例を記載しておくと書いてある。・・・
實為可笑乃録賓語甚誤者,著之於此。

しかし、そんな"可笑しな使い方"の例をズラズラと並べ、些細なことを議論したい訳があるまい。ここでの、成式の意図は何か考える必要があるのは言うまでもない。
はたして、次のパラグラフから、早速始まる。
【典拠】續集卷四 貶誤
予太和初從事浙西贊皇公幕中,嘗因與曲宴,
中夜,公語及國朝詞人優劣,雲:“世人言靈芝無根,醴泉無源,張曲江著詞也。蓋取虞翻《與弟求婚書》,徒以‘芝草’為‘靈芝’耳。”予後偶得《虞翻集》,果如公言。開成初,予職在集賢,頗獲所未見書。始覽王充《論衡》,自雲“充細族孤門”,或之,答曰:“鳥無世鳳凰,獸五種麒麟,人無祖聖賢。必當因祖有以效賢號,則甘泉有故源,而嘉禾有舊根也。”

太和という年号は827年〜835年。この頃、成式は浙西の贊皇公の下での官僚。
宴席で、詞人の優劣について語りあかしたことが忘れられないと見える。
そこでは、以下の文章のオリジナリティに拘る議論があったようだ。
靈芝無根,醴泉無源。角立傑出,先生斯存。英英先生,コ不可名。麟出無應,鴻飛入冥。道高事遠,跡陳名劭。勒石舊邦,以觀其妙。 [張九齡:「後漢君徐君碣銘」]
実に細かい話。この頭の部分が三国時代の虞翻:「與弟求婚書」からの引用であるとの指摘。
オリジナリティにはトコトンこだわる社会だったということか。
そう言えば、「綽名」についても似たような話があった。すでに使われている言葉をもってきて、ウケ狙いとは最低と言わんばかり。[→「人間心理」]真似しかできぬのは無能の証以外のなにものでもないと見ていたのだろう。
しかし、創造性を欠く人間は概して世渡り上手。喧伝も得意だから、社会的には挑戦者とか、新時代を築いたと見なされたりするもの。もちろん、それは社会的なイノベーション屋の場合もある訳だが、アジアの門閥縁故社会では概して稀。たいていは政治ゴロと結託して成功を収めているだけ。

そんな眼から眺めると、唐代の有名な詩人達はどう映るのだろうか。
そこで、「酉陽雑俎」にどのように登場しているのが、ざっと眺めてみることにした。・・・

誰が決めたのか知らぬが、唐代を4期に区分することになっているので、それに従って、有名人が登場しているのか見ていこう。
<初唐[618-712年]
"四傑"のうち、2人登場。
駱賓王[640-684年]
【駱賓王】為徐敬業作檄,極疏大周過惡。則天覽及“蛾眉不肯讓人,狐媚偏能惑主”,微笑而已。至“一А之土未幹,六尺之孤安在”,不ス曰:“宰相何得失如此人!” [卷一 忠志]
反乱軍の正当性を訴える「檄文」起草者。誹謗された側の則天武后はこれを読み、その才に愕然となる。
おそらく、激情絶唱型詩人なのであろう。ただ、打倒曹操の檄文作者のように、召し抱えられることはなく、敗戦後は行方知れずに。


王勃[650-676年]
【王勃】毎為碑頌,先墨磨數升,引被覆面而臥。忽起,一筆書之,初不竄點,時人謂之腹槁。少夢人遺以丸墨盈袖。 [卷十二 語資]
才気煥発型詩人とされる。ここでは、碑頌を作る際の王勃流のやり方が描かれている。目隠し状態で臥せて、インスピレーションが湧いたら一気に書くというのである。書聖王羲之[303-361年]の書法にただただ倣う時代が終わったことを告げているようなもの。

但し、<初唐>とは、あくまでも宮廷詩人が狭い社会で蠢く時代。いつの世にも、そうなると、必ず文芸復興の波が生まれるもの。そんな新潮流の切欠を作った代表的詩人の名前も出てくる。
陳子昂[661-702年]
曼殊院東廊,大暦中,畫人【陳子昂】畫廷下象馬人物,一時之妙也。及檐前額上有相觀法,法似韓混同。西廊壁有劉整畫雙松,亦不循常轍。  [續集卷五 寺塔記上]
成式は高く評価していそう。反技巧主義の詩人としてではない。描きたいという衝動を秘めた画家と見なしていそうだからだ。任侠に走っても、悔い改めてそれから勉学を始めればこれだけのことができると感嘆しているのである。華美装飾だらけの人々をモデルとしない仏画であることにも、気付いているご様子。そんな表現方法に感じ入っているということ。

続いて、玄宗の年号 開元〜代宗の永泰の約半世紀。
<盛唐[713-765年]
先ずは、「反閨閥」[→]で取り上げた詩人を。政治家として登場するだけで、なんの説明もないが、唐詩全盛時代を切り拓いた功労者の筈。露骨な閨閥主義者だったとはいえ。
張説/張燕公[667-730年]

上述の【典拠】論議のタネになった詩人もこの頃の人。
張九齡/張曲江[678-740年]

「一行禪師伝」[→]で取り上げた僧侶ももちろん詩人である。
一行[683-727年]

一時代を築きあげたのが、"詩仏"こと、“南画の祖”でもある自然(山水田園)詩人。
王維[699-759年]
道政坊寶應寺。韓幹,藍田人,少時常為貰酒家送酒。王右丞【(王維)】兄弟未遇,毎一貰酒漫遊。幹常債於王家。戲畫地為人馬,右丞精思丹青,奇其意趣,乃與錢二萬,令學畫十余年。今寺中釋梵天女,悉齊公妓小小等寫真也。寺有韓幹畫下生幀彌勒,衣紫袈裟,右邊仰面菩薩及二獅子,猶入神。有王家舊鐵石及齊公所喪一子,漆之如羅ケ羅,毎盆供日,出之寺中。彌勒殿,齊公寢堂也。東廊北面,楊岫之畫鬼神。齊公嫌其筆跡不工,故止一堵。  [續集卷五 寺塔記上]
王維の作品の話ではなく、家に勘定をとりにきた男の才能を生かして寺の絵師に仕上げたとの話。水墨画に優れているのは、そのモチーフが独特ということかも。画中に詩ありということ。

とくれば、”詩仙”(道術的浪漫派)と“詩聖”(儒教的社会正義派)。こちらは、「李白評」[→]ですでに取り上げた。
李白[701-762年]
杜甫[712-770年]
この3詩人を成式はどう見ていたか推定してみた。・・・
先ず、李白だが、ノマドと見なしていたかも。旅と酒の詩が多いが、それは国家や故郷感覚からくる旅情を超越した作品だらけだからだ。従って、どんな場所で詠おうが、ある意味、普遍的なものになり、李白の世界を作り出すことになる。伝統の漢文化とは無縁な詩人と言えよう。コリャ、真似などとても無理。
杜甫は、いかにも知識人の家庭で育って苦学時代が長かった感じ。そして、真面目一方。結局のところ反戦詩人として活動しただけ。それはそれでよいが、余りに政治オンチ。これでは、社会など変わる訳がないだろう。詩にしても、李白のオマケ的存在に甘んじていると言ってよかろう。
この二人と違い、王維にはお仲間感を持っていたのでは。エリートの子供として育ち、才能が開花した人に映るからだ。その幅の広さは杜甫とは比べようもない。

次は、年号で言えば、大暦より太和まで。
<中唐[766-835年]

大暦十才子の筆頭的地位の詩人の名前が出ている。
錢起[722-780年]
安邑坊玄法寺---西北角院内有懷素書,顏魯公序,張渭侍郎、【錢起】郎中贊。  [續集卷五 寺塔記上]
玄法寺に錢起の贊があるというだけ。サラリと。

そして"現実主義"的立場で"ふらり"と登場したのがこの人。
顧況[725-814年]
【顧況】喪一子,年十七。其子魂遊,恍惚如夢,不離其家。顧悲傷不已,因作詩,吟之且哭。詩雲:
“老人喪其子,日暮泣成血。
 心逐斷猿驚,跡隨飛鳥滅。
 老人年七十,不作多時別。”
其子聽之感慟,因自誓:“忽若作人,當再為顧家子。”經日,如被人執至一處,若縣吏者,斷令托生顧家,復都無所知。忽覺心醒,開目認其屋宇,兄弟親滿側,唯語不得。當其生也,已後又不記。年至七,其兄戲批之,忽曰:“我是爾兄,何故批我。”一家驚異,方敘前生事,暦暦不誤,弟妹小名悉遍呼之。抑知羊叔子事非怪也。即進士顧非熊。成式常訪之,涕泣為成式言。釋氏《處胎經》言人之住胎,與此稍差。
 [卷十三 冥跡]
子供を失った悲しみを詠んだ詩が引用されているが、ある意味、俗世間的な感情を隠そうともしない作風と言ってよいだろう。そんなこともあるのか、嘲笑的作詩で左遷。

"反佛"と"古文復興"の旗振り役を務めたのはこの詩人。
韓愈[768-824年]
牡丹,前史中無説處,唯《謝康樂集》中言竹間水際多牡丹。成式隋朝《種植法》七十卷中,初不記説牡丹,則知隋朝花藥中所無也。開元末,裴士淹為郎官,奉使幽冀回,至汾州衆香寺,得白牡丹一,植於長安私第。天寶中,為都下奇賞。當時名公有《裴給事宅看牡丹》詩,時尋訪未獲。一本有詩雲:“長安年少惜春殘,爭認慈恩紫牡丹。別有玉盤乘露冷,無人起就月中看。”太常博士張乘嘗見裴通祭酒説く。又房相有言:“牡丹之會,ム不預焉。至コ中,馬仆射鎮太原,又得紅紫二色者,移於城中。”元和初猶少,今與戎葵角多少矣。【韓愈】侍郎有疏從子自江淮來,年甚少,韓令學院中伴子弟,子弟悉為辱。韓知之,遂為街西假僧院令讀書,經旬,寺主綱復訴其狂率。韓遽令歸,且責曰:“市肆賤類營衣食,尚有一事長處。汝所為如此,竟作何物?”拜謝,徐曰:“某有一藝,恨叔不知。”因指階前牡丹曰:“叔要此花青、紫、黄、赤,唯命也。”韓大奇之,遂給所須試之。乃豎箔曲尺遮牡丹叢,不令人窺。掘四面,深及其根,ェ容入座。唯?紫礦、輕粉、朱紅,旦暮治其根。幾七日,乃填坑,白其叔曰:“恨校遲一月。”時冬初也。牡丹本紫,及花發,色白紅暦香C毎有一聯詩,字色紫,分明乃是韓出官時詩。一韻曰“雲秦嶺家何在,雪擁藍關馬不前”十四字,韓大驚異。且辭歸江淮,竟不願仕。  [卷十九 廣動植類之四 ]
牡丹の話だが、韓愈の甥の不思議な牡丹栽培能力が書かかれている。花に浮き出た当該詩の全文は以下。牡丹とは何の関係もない。
  「左遷至藍關示姪孫湘」
 一封朝奏九重天, 夕貶潮州路八千。
 欲爲聖明除弊事, 肯將衰朽惜殘年。
 雲横秦嶺家何在, 雪擁藍關馬不前。
 知汝遠來應有意, 好收吾骨瘴江邊。
言うまでもないが、仏舎利問題で「論仏骨表」を帝に提出し、即刻左遷された際のもの。姪孫の湘よ、私の骨を拾ってくれと、あくまでも拘る。
成式は仏教徒だが、仏舎利到来に歓喜する風潮には首をかしげていたということでもあろう。それを口に出すような間抜けではないだけ。


"新楽譜二人組"になると、成式の父の時代の人となる。
白居易[772-846年]
荊州街子葛清,勇不膚撓,自頸已下遍刺【白居易】舍人詩。成式常與荊客陳至呼觀之,令其自解,背上亦能暗記。反手指其處,至“不是此花偏愛菊”,則有一人持杯臨菊叢。又“黄夾纈林寒有葉”,則指一樹,樹上掛纈,纈鎖勝絶細。凡刻三十余處,首體無完膚,陳至呼為“白舍人行詩圖”也。 [卷八 黥]
白楽天の詩文は刺青につかわれるほどポピュラーになっているという話。それはそれで結構なことと言えるのか気になるのが成式的問題意識の持ち方。当該詩はこのようになっている。
  「泛太湖書事寄微之」
煙渚雲帆處處通,飄然舟似入虚空。玉淺酌巡初匝,金管徐吹曲未終。
黄夾纈林寒有葉,碧琉璃水淨無風。避旗飛鷺翩翻白,驚鼓跳魚撥剌紅。
澗雪壓多松偃蹇,巖泉滴久石玲瓏。書爲故事留湖上,吟作新詩寄浙東。
軍府威容從道盛,江山氣色定知同。報君一事君應羨,五宿澄波皓月中。

実は、もう一方は、白居易作ではないようだ。元白と並称されていた元の作品と混同が生じていたのであろうか。マ、そんなことはどうでもよいのですがネ、と成式先生。
 「菊花」 元
秋叢繞舍似陶家,遍繞籬邊日漸斜。

不是花中偏愛菊,此花開盡更無花。
成式には、李白の「太白」主義は合うまい。悲愴な決意で貧困なにするものぞの杜甫の姿勢にはとうてい馴染めず。違和感なきは、白居易の「楽天」主義。在官にして交遊を愉しむ生活しかなかろう、といったところ。もちろん任官(正四品上 太常少卿)は生活のためであり、それが名誉なこととは思っていそうにない。

玄白のもう一人のお方。
[779-831年]
【元】在江夏襄州買塹有莊,新起堂,上梁才畢,疾風甚雨。時莊客輸油六七甕,忽震一聲,油甕悉列於梁上,一滴不漏。其年,元卒 [卷八 雷]
湖北で没したという以上の話ではなさそうだが。何故に、元を取り上げるつもりになったのか、さっぱりわからぬ。

尚、今村与志雄編纂訳には、佚文の可能性がありそうな文章を網羅的に集めた「逸文」編が収載されている。
そのなかに、出入りするお客と連句をつくることを日常的に行っているとの話がある。[唐詩紀事卷五十七 段成式]
 予在城時,常與客聯句,初無虚日。
そして、そこでの、成式曰くの"毎坐吟"句がある。コレ。・・・
希逸[843年登進士第]・・・
(句) 蟾蜍醉裏破,蝶夢中殘。山險不曾離馬后,酒醒長見床前。
若さを気に言ったのだろうか。時代が大きく変わりつつあるなかでのこと。
さらに、客人に佳句を乞う話が続く。
 予因請坐客各吟近日為詩者佳句 
どれも、漢詩断片しか掲載されていないので原詩文を引いておく。年齢的にはバラつくが、おそらく、成式と交流があるお仲間だろう。
賈島[779-843年]・・・白楽天的な平易な方向を嫌ったとか。
   「旅遊」
此心非一事,書若為傳。
舊國別多日,故人無少年。
空巣霜葉落,疏水螢穿。留得林僧宿,中宵坐默然。

馬戴[n.a.−869年]
   「楚江懷古三首 其一」
露氣寒光集,微陽下楚丘。
猿啼洞庭樹,人在木蘭舟。
廣澤生明月,蒼山夾乱流。云中君不降,竟夕自悲秋。

   「塞下曲二首 其一」
旌旗倒北風,霜霰逐南鴻。夜救龍城急,朝焚虜張空。
骨銷金鏃在,改玉關中。却想羲軒氏,無人尚戰功。
無可[n.a.]・・・曲江での奇譚話をした僧。[→]
   「送李騎曹之武寧」
一歸寧,凉天数騎行。
河来当塞曲,山遠与沙平。
縱獵旗風卷,听笳張月生。新鸿引寒色,回日満京城。

   「秋寄從兄賈島」
暝虫喧暮色,默思坐西林。聽雨寒更徹,
開門落葉深。
昔因京邑病,并起洞庭心。亦是吾兄事,遲回共至今。

[782-852年]
   「横吹曲辞 入關」
都城連百二,雄險北回環。地勢遥尊岳,
河流側讓關。
秦皇曾虎視,漢祖亦龍顔。何事梟凶輩,干戈自不閑。
   「題惠山寺」
旧宅人何在,空門客自過。
泉聲到池盡,山色上楼多。
小洞生斜竹,重階夾細莎。殷勤望城市,云水暮鍾和。

靈准[n.a.]
(逸句) 晴看漢水廣,秋覺山高。
朱景玄[841-846年]
(逸句) 塞鴻先秋去,邊草入夏生。
元礎[n.a.]・・・成式が選んで詠んだ。
(断句) 守隔殘潮去,採藥過泉聲。林塘秋半宿,風雨夜深来。
季子[n.a.]・・・成式の知る蜀中客。
(句) 寒雲生易滿,秋草長難高。
残念ながら、詩壇の全体像が頭に入っていないので、上記がどのような傾向なのかコメントはできぬ。各詩人に関する情報も余りに少ないし。

この辺りになると、唐の衰退期である<晩唐[836-907年]にさしかかる。
当然ながら、頽廃化は避けられない。登場していない詩人だが有名な1名をあげておこう。残っている作品のほとんどは艶体詩だが。
温庭[812-870年]
温庭家と成式家は"頗睦"であり、互通詩文。娘が段成式の息子 段安節の嫁。

ついでながら、こちらも登場しないが、成式邸の客人なので、その詩も引いておこう。
劉得仁[n.a.]@通濟坊・・・隠遁型。
  「初夏題段郎中修竹里南園」
高人遊息處,與此曲池連。密樹纔春後,深山在目前。
遠峰初絶雨,片石欲生煙。數有僧來宿,應縁靜好禪。
  「和段校書冬夕寄題廬山」
名高身未到,此恨蓄多時。是夕吟因話,他年必去隨。
嘗聞廬嶽頂,半入楚江。幾處懸崖上,千尋瀑布垂。
爐峰松淅瀝,浦柳參差。日色連湖白,鐘聲拂浪遲。
煙梯縁薜,嶽寺歩欹危。地本饒靈草,林曾出祖師。
石樓霞耀壁,樹鶴分枝。細徑巖末,高窗見海涯。
嵌空寒更極,寂寞夜尤思。陰谷冰埋朮,仙田雪覆芝。
亂泉禪客P,異迹逸人知。蘚室新開竈,潭末了棋。
如何遂閑放,長得在希夷。空務漁樵事,方無道路悲。
謝公臺尚在,陶令柳潛衰。塵外難相許,人間貴迹遺。
雖懷丹桂影,不忘白雲期。仁者終攜手,今朝預賦詩。


どういう関係かわからないが、会いにやってくる詩人も。
方干[809-88年]
   「東溪別業寄吉州段郎中」
前山含遠翠,羅列在窗中。盡日人不到,一尊誰與同。
涼隨蓮葉雨,暑避柳條風。豈分長岑寂,明時有至公。
   「自縉雲赴郡溪流百里輕棹一發曾不崇朝敘事四韻寄獻段郎中」
激箭溪湍勢莫憑,飄然一葉若爲乘。仰瞻青壁開天罅,斗轉寒灣避石稜。
巣鳥夜驚離島樹,啼猿晝怯下巖藤。此中明日尋知己,恐似龍門不易登。
   「贈處州段郎中」
幸見仙才領郡初,郡城孤峭似仙居。杉蘿色裏遊亭,瀑布聲中簿書。
コ重自將天子合,情高元與世人疎。寒潭是處清連底,賓席何心望食魚。


もちろん「酉陽雑俎」の著者はこの時代の代表的唐詩人。
段成式[803-863年]
どうも、世に残そうと徹底的に推敲するより、サロン的雰囲気のなかで連句を作ることを愛した人のようである。すでに、そういうご時世だったこともあろう。
こんな具合。・・・
辭。僧房連句:
 古畫思匡嶺,上方疑傅巖。蝶閑移忍草, 曉掲高杉(柯古)。
 香字消芝印,金經發ぇ函。井通松底脈,書拆洞中緘(善繼)。
哭小小寫真連句:
 如生小小真,猶自未棲塵(夢復)。
 プ袂將離壁,斜柯欲近人(柯古)。
 昔時知出衆,情寵占陳(善繼)。
 不遣遊張巷,豈教窺宋鄰(夢復)。
 樓吹笛裂,弘閣賞歌新(柯古)。
 怯折腰歩,蛾驚半額顰(善繼)。
 圖形誰有術,買笑辭貧(柯古)。
 復隴迷村徑,重泉隔漢津(夢復)。
 同心知作羽,比目定為鱗(善繼)。
 殘月巫山夕,余霞洛浦晨(柯古)。
  [續集卷五 寺塔記]

(参考邦訳)
段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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