表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2017.8.20 ■■■ 思惟樹受難史「卷十八 廣動植之三 木篇」に菩提樹の受難の記録が収載されている。ここらは「大唐西域記」や「法顕伝/仏国記」が詳しいが。・・・菩提樹,出摩伽陀國,在摩訶菩提寺,蓋釋迦如來成道時樹,一名思惟樹。 莖幹黄白,枝葉青翠,經冬不雕。 至佛入滅日,變色雕落,過已還生。 至此日,國王人民大作佛事,收葉而歸,以為瑞也。 樹高四百尺,已下有銀塔周回繞之。 彼國人四時常焚香散花,繞樹作禮。 唐貞觀中,頻遣使往,於寺設供並施袈裟。 至顯慶五年,於寺立碑以紀聖コ。 此樹梵名有二,一曰賓發梨力叉,二曰阿濕曷他婆力叉。 《西域記》謂之卑缽羅,以佛於其下成道,即以道為稱,故號菩提。婆力叉,漢翻為樹。 昔中天無憂王剪伐之,令事火婆羅門積薪焚焉。 熾焰中忽生兩樹,無憂王因懺悔,號灰菩提樹,遂周以石垣。 至賞設迦至復掘之,至泉,其根不絶。 坑火焚之,溉以甘蔗汁,欲其焦爛。 後摩竭陀國滿曹王,無憂之曾孫也,乃以千牛乳澆之,信宿,樹生故舊。更攝ホ垣,高二丈四尺。 玄奘至西域,見樹出垣上二丈余。 ガンジス川下流にあったマガダ国[B.C.1200-B.C.322年:B.C.4世紀にはインドを統一。]は仏教発祥地。 菩提樹は、その地が発祥で、摩訶菩提寺@ブッダガヤに生えている。釈尊が悟りを開いた場所にあった樹木である。そのため、思惟樹とも呼ばれている。 茎と幹は黄白色、枝や葉は青翠色である。冬を経ても落葉することはない。 しかし、仏陀入滅の日には、葉は黄変し枯干凋落した。 ところが、それを過ぎると葉は元のように生えてきたという。 その日には、国王、人民は一大仏事を挙行。 葉を収めて帰ったという。それを瑞兆と見なしたからである。 樹高は四百尺にのぼり、その下には銀の塔が周回を巡っていた。 彼の国の人々は、四六時中、常に香を焚き、散華を行い、その樹木を巡って礼をつくした。 貞観期[627-649年]、唐朝は頻繁に使節を往復させ、このお寺にお供え物と袈裟の布施を行った。 顕慶5年[660年]には、寺内に碑を立てることでその聖コを紀念した。 この樹木の梵名は2つあり、1つは"賓發"梨力叉で、もう1つが"阿濕曷他"婆力叉である。 「西域記」では、これを"卑缽羅"と記している。ただ、釈尊がこの樹の下で悟りをひらいたから、語意上で「道」とも称しており、それ故に、その梵語の"菩提"と号したのである。"婆力叉"を漢語に翻訳すれば、"樹"である。 昔、天竺中央で力をふるったアショーカ王[阿育]/無憂王[B.C.304-B.C.232年]がこの木を伐採し,(仏教では外道苦行者とされている、火天信奉者たる)事火婆羅門に命じて、薪を積んで焚やさせた。 その薪の燃えさしの中から、忽然として、2本の樹木が生えてきた。このため、無憂王は懺悔。 それを"灰菩提樹"と号し、周囲に石垣を建造した。 その後、設賞迦王の時代となり、再び伐採し、根こそぎ掘り、泉が湧くほどに。しかし、根は絶えることがなかった。そこで、坑を掘って焚火を行い、さらに甘藷の汁を注ぎ込み、焼け爛れた状態にしようとした。 またまた、その後のこと。マガダ地域(Gupta朝の後のVarman朝か?)はアショーカ王の曾孫である滿曹王/満冑王[by 玄奘]が治めるようになったが、ここでもご難。 (不在の時の、外道信者の王妃の仕業。600年頃か。) しかし、1,000頭分の牛乳を澆ぎ込んで、一晩あかして様子を見ると、樹木は元のように生えていた。そこで、更に、石垣を積み増したので、その高さは2丈4尺に。 玄奘三蔵が西域に入り、この地に着いた時[@637年]、この樹木は石垣を2丈も越えていたという。 以上、おそらく、成式は仏教徒として、淡々と書いただけだろう。 当然ながら、植物学的な樹木への関心などゼロ。 そこらは、こちらで、・・・。 → 「印度瞑想樹」[2015.7.15] 「白色乳液を出す聖なる樹木」[2014.9.1] このような歴史を知りながら、つまらぬ中華思想的な動きが、菩提樹にあるので、流石の成式も見ていられなかったようである。 話題は、印度発祥のヤシの葉写本から入る。・・・ 貝多,出摩伽陀國,長六七丈,經冬不雕。 此樹有三種, 一者多羅娑力叉貝多, 二者多梨婆力叉貝多, 三者部闍婆力叉多羅梨。 並書其葉,部闍一色取其皮書之。 貝多是梵語,漢翻為葉。 貝多婆力叉者,漢言葉樹也。 西域經書用此三種皮葉,若能保護,亦得五六百年。 仏典写経に用いられている"貝多"[貝多羅葉が正式名称で、葉を加工した筆記媒体]はマガダ国産。 樹高6〜7丈で、冬を越しても落葉しない。 樹木としては3種。 1つ目は、"多羅" 娑力叉 貝多。 2つ目は、"多梨" 婆力叉 貝多。 3つ目は、"部闍" 婆力叉 多羅梨。 (貝葉用樹木はパルミラ椰子とコリハ椰子。) "多羅" と"多梨" の2つは、葉に書くが、 "部闍" は、別扱いで、その皮に書く。 "貝多"は梵語であって、漢語に翻訳すれば"葉"。 従って、 "貝多婆力叉"は、漢語では"葉樹"となる。 西域では、経書用にこの3種の植物の皮と葉を用いる。しっかりと保護しておけば、500〜600年の耐久性がある。 大量生産される紙より長持ちしそうで、両面使用可能だから、優れものと言ってよいだろう。 (参考) 安江明夫:「ヤシの葉写本研究ノート」研究年報@学習院大学 57, 2010年 これを踏まえて、3つの話が続く。 1つ目は、五岳の1つ嵩山@河南登封の嵩高等に"思惟樹"があり、それを"貝多"と呼んでいるというのである。・・・ 《嵩山記》稱嵩高等中有思惟樹,即貝多也。 創建は496年の少林寺が存在した場所であり、初祖達磨大師の面壁の地。その後は受難で途絶えた。 (今の姿は、現代的に復活させた観光宗教の地。) 2つ目。 釈尊が思惟を巡らしたのは菩提樹ではなく、椰子系の貝多樹の下だという説を広げる人が居るのである。・・・ 釋氏有貝多樹下《思惟經》, 3つ目は、椰子の葉である貝多葉は枇杷に似ているというもの。・・・ 顧徽《廣州記》稱貝多葉似枇杷, 言うまでもないが、酷いものばかり。 これが中華帝国の風土そのもの。・・・ 並謬。 ただ、昔は、インドから輸入しかなかったが、貝多樹の枝なら、交趾@ベトナムから調達もできると。彈力性ピカ一の材。・・・ 交趾近出貝多枝,彈材中第一。 ついでながら、紙材用樹木の状況を示す一文も、再掲しておこう。[→] 商業経済が発展すると、手がかかる農産物より、半分ほったらかしても現金収入になる手工業用原料栽培の方が魅力的になってくることを指摘しているとも言えよう。・・・ 【楮】 <構,穀田久廢,必生構。葉有辦曰楮,五曰構 [卷十八 廣動植之三 木篇] 構とか、楮は、紙の原料として知られる、カジ、コウゾであるのは誰でもわかるが、意外と、桑と同類の樹木ということは知られていない。 これが、実は重要で、田圃をほったらかしにしておくとこれらが生えてくるということでもある。(実際は半栽培という意味である。)これら3種は別種とされてはいるものの、葉の形を見れば、どう考えても滅茶苦茶交雑しているとしか思えない。従って、現実的には区別したところでたいした意味は無かろう。唐代はまだそこまで行ってはいなかったと思うが。 → 「カミの木」[2012.9.12] (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 「酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2017 RandDManagement.com |