↑ トップ頁へ

2003.2.8
 
 


科学研究費問題(5:インフラ)…

 「新しい動き」は長期的に見れば問題多い施策だが、現在の主流派に属するキー研究者に重点的に資源が与えられるから、短期的には一部のテーマではアウトプットが出易くなったのは間違いない。(ポスドク対策費でもある。)
 動くのが遅い日本のシステムからいえば、この程度でも、改革と呼ばざるを得ないのだろう。次ぎのステップに進めるかが、正念場と見るしかあるまい。

 しかし、「新しい動き」が次ぎのステップに進めない部分を含んでいる点については十分注意を払う必要があろう。

 キー研究者を結集させる拠点研究機関設置問題である。

 といっても、拠点作りの意義を理解せず動いた、という意味ではないし、重点化そのものの議論が少なかった訳でもない。
 実際、比較的自由度が高そうで、成果実現にシビアな感覚を持つ機関に、キー研究者を集め、徹底的な重点化を図っている。これだけ見れば、妥当な方針だ。

 ところが、これが禍根を残す施策になってしまった。集中化/拠点化の方向はよくても、そのプロセスを不透明にしたからだ。これでは、拠点選択の指針は誰にもわからない。社会主義国が採用する集中化政策と類似の動きといえる。歴史から教訓を学べば、このような施策は没落の危険を孕む。

 何故、社会主義的な拠点作りがまずいかといえば、拠点に決まると変更しにくいからである。もちろん拠点指名の競争はあるが、その後は研究機関間の競争は生まれにくい。拠点化すると資金が集まり、そのため優秀な研究者も集まる、という循環ができる。拠点は固定化してしまう。
 拠点が固定化すれば、斬新なインフラを考案し、先端研究者を引きつける必要などない。拠点のイノベーション創出能力は急激に落ちる可能性がある。技術の流れが見えていた70年代なら、こうした仕組みでも効果があるが、技術進歩が早い時代には逆に足かせとなる。
 拠点作りの競争を阻害する仕組みは最悪だ。

 「新しい動き」は、インフラ作りについて、こうした考慮が全くなされていない。
 おそらく、米国の拠点化成功を表面的に真似たのだろうが、これでは上手くいくまい。

 米国の拠点化策が奏効しているのは、テーマが採択されると、なんらかの形でインフラ側にも別途資金が提供される仕組みが存在するせいだ。
 研究費が承認されると、それに対応したインフラ費用が研究機関側に別途流入する。研究機関はこうした費用を集め、所属している研究者に対して最高のインフラを提供すべく努力する。例えば、素晴らしい独自の共同施設を新たに作ることもできるし、サポートサービスを増やすこともできる。魅力度向上の独自施策を考えるのだ。
 従って、研究費を沢山集める研究者を多数抱える研究機関はインフラ予算も潤沢になる。当然、魅力度も急速に高まる。その結果、仕事がし易そうなので、優れた研究者がさらに集まる、という好循環が生まれる。その結果が拠点化である。
 従って、研究機関は優れた研究者を集めるための努力を怠らない。

 一方、日本の仕組みは、全く逆だ。潤沢な資金を投下する研究機関をまず設定する。その後、機関側が優秀な研究者を選択的に「招聘」する。
 研究者側には、機関選定の権利を一切認めない仕組みである。
 このような状況は、自然科学では独創性喪失に繋がりかねない。自律性を失った研究者に独創性は期待できないからである。

   過去記載の
   ・「科学研究費問題(1:流用)」へ (20030204)
   ・「科学研究費問題(2:人件費)」へ (20030205)
   ・「科学研究費問題(3:新制度)」へ (20030206)
   ・「科学研究費問題(4:異端排除)」へ (20030207)


 教育の危機の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2004 RandDManagement.com