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2009年12月9日
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【古都散策方法 奈良-その3】
東大寺伽藍から、斑鳩の里へ…

奈良で遊ぶならこうされるのも一興との、ご提案をしてみたくなった。
 → 「雑感: 奈良観光」 [2009.11.26]
ご参考にされ、ご自分なりのテーマで散策されたら如何。

[コース]
東大寺→‖→法隆寺→中宮寺−→法起寺−→法輪寺
平城京東北の東大寺伽藍と、遠く離れた斑鳩の里を一気に回る。
一言で言えば、「建造物拝観コース」。健脚前提。尚、斑鳩はサイクリング好適地。
仏像拝観中心ではなく、塔や建物を眺めることで、平城京の宗教感に浸ろうとの企画なのでそのおつもりで。

[テーマ設定のヒント]
   ■■■伽藍構成■■■
先ず、基本の確認。
本格的な寺院は塀で囲われており、正門は南大門で、各所に門が設置される。その中に、回廊を兼ねた建物で囲われた一画があり、その入り口が中門。
仏域なのだろう。ここには、仏塔と本尊を祀ったお堂(金堂)が設置される。さらに、お勤めに必要なものとして、道場としての講堂、経典を収める図書収納倉(経堂)が、回廊外か回廊に組み込まれる形で付属する。
そして、この仏域から離れてはいるが、すぐ近くに僧侶の生活空間である僧堂と食堂が設置される。これらはすべて重要施設として拝観者に情報が開示されているのが普通。
しかし、平城京の時代のお寺で、井戸、禊場、風呂場、炊事場、便所といった水周り施設がどうなっているのかは、解説がないのでよくわからない。理由はわからないが、宗教施設としては重要で無いとみなしているのだろう。(後世の禅宗ではすべてが重視される。禅寺の東福寺では大規模便所施設も重要な拝観場所である。東大寺にも大湯屋が地図に記載されているが非公開。つまらないことだが、何を重視するかこそ、時代感覚と思想性そのもの。)

〜伽藍の配置〜


− 回廊
□ 講堂
■ 金堂
★ 塔
‖ 中門
‥ 南大門
【四天王寺】
縦並び





【飛 鳥 寺】
3金堂



■★■

【法 隆 寺】
横並び



★■

【薬 師 寺】
内2塔



★ ☆

【元 興 寺】
外2塔




★ ☆
【東 大 寺】
外2塔




★ ☆
【西 大 寺】
外2塔




★ ☆
要するに、平城京の頃のお寺の設計は、中門、仏塔(仏舎利)、金堂(仏殿)、講堂(道場)、回廊(囲い)の伽藍配置が第一義的とされているということ。それが「仏・法・僧」の思想と合致するのか多少の疑問は感じるが。
色々と議論はあるようだが、素人的に見れば配置は単純そののもの。原型は「聖域」と「仏舎利」(塔)だと見ているからだ。従って、回廊で囲まれた広場に塔が立ち、これを正面から見る形で門が設定されるのは当然。
これに新たに「仏像」が加わる。塔の後に「仏殿」(金堂)となるのが当たり前。「中門-塔-金堂」の一直線構造から始まっているのには納得感が湧く。
仏像信仰が進めば、様々な仏様への信仰が生まれるので、仏殿一つでは収まりが悪くなる。3金堂構造はそれを示したものだろう。

この系譜から見ると異質な感じがするのが法隆寺である。塔と金堂が横並びだからだ。ここだけ見れば、“法隆寺の謎”となるが、二塔型があるのだから、伽藍配置の過渡期的な並びにすぎないことがわかる。塔は分割されたのだから、象徴的なものに変わったということ。
東大寺は典型。塔は現存しないが、礎石位置から、回廊の外にある。聖域から外れており、重要な信仰対象ではなく、聖域の存在を知らしめる建造物にすぎまい。薬師寺では聖域内だが、中門の正面は金堂。信仰の中心はあくまでも仏像なのである。
法隆寺は、「仏舎利」(塔)と「仏像」を等しく扱っているだけのこと。したがって、中門の構造も中央に柱がくる。重視したい方から入ればよいのである。“法隆寺の謎”としたり、鎮魂とか、はたまたキリスト教の影響という訳のわからぬ説まであるが、素直に考えればどうということはない。

ただ、注意すべきは、確かに、法隆寺だけは異質である点。配置の原則はおそらく左右対称だが、塔と金堂が横並びなので、これが崩されているからだ。日本文化は非対象を好む傾向があるから、違和感を覚えないが、とんでもない設定かも。平城京の寺院が対称型の東西両塔にしたのは、世界に合わせたということでもあろう。
尚、講堂が聖域内部にあるのは、学究型のお寺ということでは。道場が閉鎖的ということは、セクト的な思想に陥り易いかも。
ちなみに、法隆寺のこのセンスを考えると、塔は「仏舎利」ではあるが、神が降臨する「御柱」的な意味も兼ねていた可能性も否定できない。
こんな想像を深めれば、薬師寺にしても、東西両塔のどちらに「仏舎利」の意味を与えたかは結構重要かも。藤原京にあった消滅した本薬師寺と、再興が進む白鳳伽藍の薬師寺では、考え方が異なっている筈だ。

おわかりだと思うが、斑鳩の里の塔には古い信仰が残っているのである。東大寺の塔は礎石だけだが、位置づけが全く違うということ。

   ■■■創建当時の東大寺を物語るもの■■■
-大仏殿の歴史-
747年
752年
起工
竣工
1180年

1190年
焼失
[平重衡]
再興
1567年

1709年
焼失
[三好・松永]
再興
平城京の頃から続くお寺とされているが、このお寺も戦火に見舞われたから、再建された建物だらけである。どこまで原型に忠実だったかは疑問。大仏殿は2度も再建されているし、本尊も再鋳による修理が行われたのだから、元の雰囲気を伝えているといえるのか、なんともいえまい。
不思議なのは、講堂、僧坊、食堂は再建されなかったこと。大きな建物であるが、これらにはたいした意味はないとされた訳である。一塔だけは一度再建されたらしいが、巨木が必要だからそれ以上は諦めたということか。

ほぼ平城京時代そのままと考えてよさそうなものは少ない。
先ずは門だが、これは西側の転害門のみ。注連縄がかかっていることでわかるが、寺門というより、神社の門である。そのためかわからぬが、独特の不に気を醸し出す。これは、南大門と正反対で高さを低く抑えているからだ。にもかかわらず、柱は随分と太い。それなら重そうな大屋根にしてもよさそうだが、逆で、結構薄い印象。バランス感覚が全く違うのである。お祭りの際に飾りものをつけるためだろうか。
次が、大仏殿前の広い庭の中心に設置されている金銅八角燈籠。献燈の意義を示す経文と、楽器(横笛、縦笛[尺八]、笙、銅製楽器)を奏でる姿を見ることができる。ガイドさんの話を耳にしただけだが、石張りも見ものだそうだ。そこは、天竺、中国、朝鮮を表現しているとか。言われてみれば、違う石である。本当に輸入石材だとしたらたいしたものである。
鐘楼の梵鐘は、752年製。夜八時に撞くそうだから、その音色を聞くのは難しいが。上る坂道“ねこ段”は変わっていなのでは。
そして、校倉作りの正倉院宝庫。倉庫建築は、他にも本坊経庫と手向山八幡神社の宝庫(法華堂経庫)があるが、国宝だろうが、重文だろうが、いかんせん倉庫は倉庫である。
そうそう、三月堂(法華堂)の仏殿も。だが、別な建物と融合させられており、なにがなんだか。

まあ、変わっていないのは、若草山と三笠山(春日山)か。もっとも、それは位置だけで、眺めは相当違う。樹木が余りに育ちすぎ、三笠山はよく見えないのである。

   ■■■斑鳩三塔■■■
斑鳩三塔とは、法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔(706年)、法輪寺の三重塔のこと。法輪寺の塔は1944年に焼失し、1975年再建だが、元の姿を忠実に再現した模様。3つまとめて眺めてみると、この時代の塔の感覚がつかめる。こればかりは、写真でなく、実物を見ないと。
それにしても、年代がそれほど離れていない薬師寺の塔と、どうしてここまで違うのか不思議である。

[ポイント]
■東大寺■
東大寺は、海外からのお客様には奈良一番の観光スポットである。そのため、何回もおつきあいしたという人も少なくないかも。
様々な言語が飛び交い平城京時代のインターナショナル性を彷彿させるお寺と言いたいところだが、観光客だらけで雑踏感を味わうことになるというのが実態だろう。ただ敷地が広いので、混雑度には波があるが。
厳冬期なら静寂感満喫だが、そこまで踏み切るのは難しいが、早朝ならまあそこそこ。寒くなればほぼ無人。当たり前か。

□転害門・手向山八幡神社□
鎮守様の宇佐八幡宮を勧請した手向山八幡神社の御祭礼用門である。尚、注連縄は地元住民が担当するらしい。神社は別法人だろうから事情は複雑なのかも知れぬ。
もともと、この門だけが残ったのは、仏教施設には徹底的に焼き討ちをかけたが、ここは避けたということだろうから、昔から特別扱いではあったろう。
もっとも神社だけ別扱いにしたともいえないかも。平氏による焼き討ちで、大仏殿前の鏡池にあった神社は焼失したそうだから。池は仏殿用ではなく、神社のためだった可能性もある。現在は、神社は東の山側に移転して、その南側には若草山が源流の白蛇川。森らしさがある場所にしたということか。神社だが、僧のお姿の八幡神像が本尊だそうである。
□焼門(中御門)/西大門跡/南大門□
転害門から南に下ると、焼失した中御門。その礎石がある。ここが戒壇院の門。ここで受戒しないと、大仏殿内には入れなかったということか。
さらに南に下れば、西門跡。表示の石のみ。
南大門は巨大そのもの。建築構造の見本のような感じがしないでもない。
□戒壇院□
戒壇院は再建。従って、そこにある、顔の写真で有名な塑造四天王立像はもとからあったものではないようだ。直接拝するより、写真の方が精神的なものを感じるかも。入江作品の凄さがよくわかる。創建時は回廊があったそうだから、上っていく石段も昔とは違うかも。
□二月堂□
二月の修二会(お水取り)の仏殿である。実忠和尚が大仏開眼時に開始した行事だという。以来絶えることなく続くのだから、東大寺の最重要祭祀と見なされているのである。実態から言えば、大仏殿は時に行われる国家的法要のための金堂で、ここが宗教活動としては正金堂ということだろう。本尊は秘仏の十一面観音(2体)。
この建物は崖のような場所に建っており、どう見てもお水取り儀式に合わせて設計されたもの。舞台型であり、この形態は清水寺(本尊は千手観音)に受け継がれている。ここは、まごうかたなき山岳密教的寺院だ。
う〜む。これが平城京の頃の信仰だったということか。
□三月堂(法華堂)□
三月の法華会の仏殿である。一番古いお堂と、鎌倉期のお堂の二軒合体型でその真意は図りかねる。ただ、狭いお堂に仏様がぎゅうぎゅう詰めだから、素人的には想像はつく。拝礼場所が必要だが改築して広くする訳にもいかないから、別な建物をもってきたということにすぎまい。あとは繋げ方を工夫しただけ。お陰で、当初のお堂の感覚は全く味わうことができない。もっとも、それがよいという人が多いが。
尚、このお寺は、本当は東大寺ではないそうだ。前身のお寺を併合したという。国分寺クラスのお寺らしいが、釈迦如来が祀られそうなものだが、どういう訳か、本尊は不空羂索観音。にもかかわらず脇待は“伝”日光・月光菩薩。どこから来たものだろうか。このお堂は、仏像だらけだが、思想的統一性は感じられない。
ところが、個々の仏像は素晴らしいものだらけ。まさに、ありすぎ。
素晴らしい仏像を新しいお堂に入れるなどもっての他感があり、結果的にこのお堂に集まってしまったということかな。
このように書くと、重要性が他より低いように受け取られかねないが、おそらく逆で、東大寺の実質的なご本尊はこの不空羂索観音では。
□四月堂(三昧堂)□
四月の普賢三昧会の仏殿である。本尊の千手観音に脇待が阿弥陀/薬師如来と理解不能。
□金堂(大仏殿)□
巨大さに心を奪われてしまうが、膨大な工事犠牲者なくして、大仏造営は無理である。施薬院や悲田院創設とはそういった性格のものと考えた方がよい。そこまでしても、鎮護国家を実現したかったということである

□真言院/本坊経蔵□
大仏殿手前の東側は池だが、その反対側には真言院がある。密教寺院である。西大寺が密教で再興に成功したが、東大寺も密教とは無縁ではいられなかったということだろう。
南大門入ってすぐ東側は寺務所。そのため本坊経蔵は観覧できない。致し方なかろう。そんなことより、注目すべきはこの名称。ここは「本坊」なのだ。それに気付いて地図をよく見ると寺務所とは、旧 東南院なのである。(平安時代に古代の「三論」の拠点として創設)古代仏教がわかる経典を収めた貴重な倉庫は焼き討ちの対象にするなと言われていたということかな。もっとも、こんな場所に経蔵があるのは不自然だから、もともとは辺鄙な場所にあっただけで邪推かも。

■法隆寺■
西院の伽藍形式は全体が分り易い。建物は古いものばかりだが、どれも よく手入れされており、年代を全く感じさせない。驚異的。
東院は聖徳太子の住居跡の寺院のようだ。
一番古い時代の伽藍の要が揃っている。仏様もわかり易い。
      -中門
      -五重塔
      -金堂[釈迦三尊、薬師如来、阿弥陀如来、四天王像]
      -回廊
そして、その周囲に平城京の頃の建物が並ぶ。
      -東大門・・・東大寺転害門と比較するのが面白い。
      -食堂
      -経蔵
      -東院伽藍 伝法堂[阿弥陀三尊、等]・・・橘夫人住居とか。
      -東院伽藍 夢殿(八角円堂)[救世観音]
再建されたものは、南大門、鐘楼、大講堂、西円堂[薬師如来]。
有名な玉虫厨子、百済観音、夢違観音、百万小塔、等は寺宝として大宝蔵院に展示されている。
聖徳太子発願のお寺だが、死後再建されたとすれば、上記の状況は納得がいく。古い時代のものは、聖徳太子を偲ぶためのもの。ところが、平城京が仏教中心の大都市として発展し始めたから、その役割が変えられたということ。平城京のお寺と比べれば小さい規模だが、学問寺として、国家の活動の一翼と担うようになったのである。
そこで、その活動に必要な建物が継ぎ足された。従って、太子を偲ぶための施設は別途構築せざるを得なくなった訳だ。それが東院伽藍。伽藍といっても、塔はないし、どのような考えで作った施設かわかににくい。南門はあるようだが、正面は礼堂で中門は無い。門から入る必要が無いということか。回廊が巡らされており、その聖域に夢殿だけが設置されている。夢殿は仏殿と塔が合体していると考えるしかなかろう。塔なら、太子の一生の物語が内部に入るとわかるようになっていたということになろう。ただ、塔の変わりに、舎利殿があるが。
独特の建築様式であることは間違いない。
思うに、こんなことが可能だったのは、聖徳太子の時代の仏教には、宗派的なものがまだ形成されていなかったのだと思う。平城京になると、そうもいかなくなってくるということ。

■中宮寺■
もともとは、近くに四天王寺形式の伽藍があったらしい。天寿国繍帳で有名である。

■法起寺■ 斑鳩町岡本
本尊は十一面観音。創建時の伽藍は、法隆寺と塔と金堂が左右逆だったという。今も残る建造物は塔のみ。

■法起寺■ 斑鳩町三井
本尊は薬師如来。創建時の伽藍は、法隆寺と同じ形式とか。塔は残念なことにした。

[順路]
(1) 開門7:30(冬は8:00)前にタクシーで東大寺転害門へ。(バス停は手貝町)
      -本当は、ここから入って、大仏殿裏側の道を歩くのが散策には最高である。
      -気分はのらないが、車道を南に歩いて、交差点で曲がり南大門へ。
      -“転害門→焼門(中御門)→西大門跡→南大門”
(2) 南大門からまっすぐに大仏殿の中門へ。
      -南大門はなんといっても、下からのんびり見上げるに限る。
      -巨大な大仏殿に近づいていく迫力がなんともいえない。
      -中門から、回廊、灯籠、大仏殿の観相窓を眺めよう。東の山の風景も。
      -これこそが東大寺の情景。観光客が少ない時に限るが。
      -大仏殿には入場せずに、左側から大仏殿の裏側へ。
(3) 大仏池(二ツ池)へ進み、以外を正倉院から回ろう。
      -大仏殿の北西に池があり、その北は宝蔵・正倉院。
      -西北の池からの大仏殿の眺めはなかなかのもの。
      -正倉院は平日なら小道から入って建物外観が見える。
      -“正倉院→講堂跡→二月堂→三月堂→四月堂→鐘楼→ねこ段→大仏殿中門”
      -二月堂の舞台から境内を見下ろそう。
      -ここら辺りには情緒ある散歩道があるが、まあ好き好き。
      -時間の余裕があるなら、大仏殿拝観も。
(4) 東大寺からJR奈良駅に出て、関西本線で法隆寺駅下車。(奈良交通バスでも。)
      -以後、食事や休憩をどうするか、予め考えておいた方がよい。
      -駅から法隆寺まで約1Km。道はわかり易い。
      -レンタサイクルを使う手もある。
      -法隆寺駅北口から行けば、都市化の波が一目瞭然。
(5) 法隆寺・(中宮寺)拝観。
      -西院伽藍を時間を気にせずゆっくり回りたいものである。
      -外塀周囲の道は情緒が無くなってしまった。
(6) 東大門前の道路を北に道なりに1Km弱行けば法輪寺。
(7) 寺前の道路を東に200mほど行くと広い道路で、それを北東方向に行けば法起寺。
      -この辺りには里らしさが残っている。
      -サイクリング道路は美麗だが、・・・。
      -お帰りは御随意に。
(8) もしも時間があったら、奈良の中心に戻り、興福寺辺りを散歩するか。
  正直なところ、余りのらないが。

□興福寺□
興福寺拝観からというのが定番の奈良観光コース。平城京の頃は大伽藍を擁し、私寺にもかかわらず、絶大な力を誇ってきた上、奈良市の中心に位置するのだから当然だろう。
にもかかわらず、本稿では、興福寺拝観を取り上げなかった。3回続けてお読みいただいた方なら、その理由もおわかりかも。
興福寺の一番の特徴は、塀や門が一切無いこと。もちろん、辻の地蔵堂や村のお寺なら驚きではないが、ここは大本山。にもかかわらず、南大門も中門も跡だけのまま。代替施設も無い。
このため、どうしても建物公園や、神社付属施設的な雰囲気が出てしまう。参拝者に改まった気持ちに切り替えてもらうためにも、なんらかの門だけは不可欠と思うが。この状態に違和感を覚えない人が多いのには驚くばかりだ。
言い換えれば、現在の興福寺の一番の見所は仏像ということ。
しかし、それは創建時の「阿修羅像」ではない。といって、他の仏像でもない。「阿修羅像」の素晴らしさは、「八部衆」あってのものだと思うからだ。そして、「八部衆」の良さは、本尊釈迦如来を取り巻く総勢が揃えばさらに引き立つ筈。28体が並んだ仏殿を想像すればわかると思うが、それこそ壮観の一言につきよう。(他は、薬王・薬上菩薩、梵天・帝釈天、十大弟子、金剛力士、四天王。)
これこそ興福寺西金堂の再現そのもの。
京都の東寺の、密教曼荼羅の仏像群に比類すべき、一大傑作と言えよう。「阿修羅像」の一点鑑賞は博物館での話。

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