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「我的漢語」
2015年12月21日

蟋蟀児叫

太陽暦10月中旬の寒露-末候の日本版は中国語的表現の"蟋蟀在戸"。(中国宣明暦では"菊有黄華"。小暑-次候が"蟋蟀居壁")この日本語古文で登場する蟋蟀だが、コオロギではなく、キリギリスを指すそうな。
どちらも、前肢をすり合わせて音を出す虫だから、両方を含む概念にしてしまったことが原因の混乱発生か。

詩経國風【風】「七月」[→]には、"十月蟋蟀入我牀下"とあり、七月在野→八月在宇(軒下)→九月在戸と引き続いており、寒さをしのぐためについに家の中にまで入ってくる訳だ。こちらは間違いなくコオロギである。(毛詩草木鳥獸蟲魚疏)

詩経には、【唐風】にそのままズバリのタイトルの詩が収載されている。勝手に翻訳を試みておこう。
なんとなく、白楽天のずっと下で働く小役人的風情の詩にしかおもえず、どのような意義があって、このような詩が継承されているのかはなはだ理解に苦しむ。
こんな超々古代に、現代の巨大官僚機構で真面目に働く役人達の心情の原点があるということなのだろうか。

多少の誇張用語と改変を加えないとナンダカネなので、勝手に翻訳の精神で試訳。

  「蟋蟀」
 蟋蟀在堂,聿其莫。今我不樂,日月其除。
 無已大康,職思其居。好樂無荒,良士瞿瞿。

 蟋蟀在堂,聿其逝。今我不樂,日月其邁。
 無已大康,職思其外。好樂無荒,良士蹶蹶。

 蟋蟀在堂,役車其休。今我不樂,日月其
 無已大康,職思其憂。好樂無荒,良士休休。


  蟋蟀堂に在り。
    歳其々に暮れん。
  今、我愉しまざらば、
    日月は其れ去るのみ。
  己、大康を考えず、
    小職としてその居を思う。
  悦楽追求に荒れもせず、
    良士として緊張し熟考あるのみ。

  蟋蟀堂に在り。
    歳其々に逝く。
  今、我愉しまざらば、
    日月は其れ行くのみ。
  己、大康を考えず、
    小職としてその外を思う。
  悦楽追求に荒れもせず、
    良士として精励し勤勉あるのみ。

  蟋蟀堂にあり、
    役車は其れ休めり。
  今、我愉しまざらば、
    日月其れ尽きるのみ。
  己、大康を考えず、
    小職としてその憂を思う。
  悦楽追求に荒れもせず、
    良士としてただただ安閑あるのみ。

【私註】
莫:暮れる.
除:去る.
邁:行ってしまう.
:尽きる.
大康:平安で安寧
職:小職
瞿瞿:ひきしまっている様
蹶蹶:すばやく動いている様

<蟋蟀在堂@毛詩草木鳥獸蟲魚疏>
蟋蟀,似蝗而小,正K,有光澤如漆,有角翅,一名蛩,一名蜻,楚人謂之王孫,幽州人謂之趣織,督促之言也。裏語曰“趨織鳴,懶婦驚”是也。

  <当サイトの詩經-國風詩の頁>
今回は【唐風】 「蟋蟀」・・・蟋蟀児叫
【周南風】 「關雎」・・・ミサゴの番鳴く[→]  [→「桃夭」]
【召南風】 「鵲巣」・・・鵲と鳩の巣作り[→]
【齊風】 「鳴」・・・鳴暁を告げる[→]
【曹風】 「蜉蝣」・・・蜉蝣と私憂[→]
風】  「七月」・・・漢詩読解力レベルの検討[→]

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