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■ 分類の考え方 2015.3.24 ■


生物5界論否定こそが現代の進化論[続]

生物5界論は、反科学思想とか思えない。現代の天動説と言っても過言ではない。
   「生物5界論を嫌う理由」 [2015.3.14]
   「生物5界論否定こそが現代の進化論」 [2015.3.11]

浅学故、論旨がお分かりいただけるか自信はないが、話を続けよう。

例えば、このような分類区分に意味があるだろうか。・・・
 微生物 v.s. それよりはサイズが大きい生物
 可食生物 v.s. それ以外の生物
言うまでもないが、研究課題の対象を絞るという意味では意義がある。実践的、あるいは実用上では、こうした「ものの見方」をせざるを得まい。
しかし、生物の分類はそんな話とは訳が違う。
そのようなものとして、一般に流布している見方は、以下の3分類である。境は曖昧だが、それは専門家が決める話。
 動く生物・・・素人的な定義の「動物」
 動かない生物・・・素人的な定義の「植物」
 どちらとも言えない生物・・・「その他」

つまらない話をするが、生物5界論とは、上記の分類思想を土台としている。実態は通俗的な見方だが、専門家が科学風色付けを施すので、いかにももっともらしく見える。

「可食」か否かで分類すべしといったら、皆、大笑いするだろう。しかし、生物5界論の概念はそれとたいして変わらない。なんとなれば、「動物」と「植物」の間に、「菌」を加えるからだ。茸、麹、黴の生態を観察し、これらの生物は動くか動かないか考えれば、おそらく「菌」は動かない方に近かろう。それは拙いなら、独立させることになる。あるいは、特別な「植物」とするかだ。おわかりだろう。これは「食」の観点からの分類。
 栄養分を生産する生物・・・植物
 生物の死体等を分解する生物・・・菌
 他の生物を捕食する生物・・・動物
素人からすれば、それなら、昆布は植物なのかネとなる。それなら、ここらも別区分という具合にならざるを得ない。実に恣意的な分類であることがよくわかる。
動物とも植物とも言えそうにない、微生物にも、この思想が適用されていそう。
 植物性プランクトン
 醗酵細菌
 動物性プランクトン
とは言え、これはこれで、研究対象としての分類としては極めて自然な分類である。環境を考える時代だからだ。
だが、こと、進化を考えようとなれば、こういった分類は思考の障害以外の何物でもなかろう。

特に、どうしようもないのが「原生生物」である。明らかに、この用語は、「原生植物+原生菌+原生動物+その他原生動物」のゴッタ煮概念。おわかりだと思うが、冒頭の「微生物」分類の概念と五十歩百歩。該当先不明なら、そう名付けるべきだろう。

従って、この思考方法は最悪である。「藻」の概念と似たようなもの。
   「「藻」だらけなので生物分類は難物」 [2015.3.5]
   「「菌」類のゴチャゴチャ感の凄さ」 [2015.3.9]
スピルリナや青粉、毬藻やアオサ、浅草海苔、昆布や若布、珪藻、はては緑虫とか金魚藻(水棲植物)迄すべてを一族としてまとめる訳にはいかないのである。陸上生育の植物類(苔、羊歯を含む)を除く光合成(酸素発生)生物というもの。「原生生物」同様のゴッタ煮概念。

ただ、逆説的だが、「藻」や「原生生物」の研究者の知恵が生物の進化を考える上で重要になったということでもある。どうして、そして、どのようにして、こんな滅茶苦茶な進化が発生しているのか、頭を使うには絶好の題材だからだ。
しかし、それを進化の「分類」用語にされてはこまる。

その一方で、ほとんどの細胞に含まれるミトコンドリアや、葉緑体は細菌由来であることは間違いないという姿勢。なんの解説もできないのに、突然、全く系統が違う生物が細胞内に同居した結果であるとする。ゴッタ煮概念に加え、なんの論証も無しに、突然、生物はキメラ化するものと言っているに等しい。
論理が滅茶苦茶である。キメラが発生すると言いながら、種は互いに独立な生物と見なすのだから。

原核生物(無核)と真核生物の区分けも、これは誰でもわかる大きな違いだから当然の分類と言うだけで、そこにはなんの理屈も無い。
おわかりだろうか。この分類には何のストーリー性もないのである。「藻」を特別視して一族と見なす姿勢となんら変わりはない。
原核生物であるから「藍藻」と呼ばず、シアノバクテリアとせよという話ではない。そもそも、生活者の視点で見れば、特殊な生物には見えないし、どう見ても「藻」だからだ。(そんなことより、「藍藻」の全体像の解説でもしてもらった方がましである。)

こんなことを問題視するのは、折角、進化のストーリーが創出されつつあるのに、それを恣意的に無視し続けているとしか思えないからだ。ともかく決めたことを暗記せよと言うだけ。創造性を喚起する絶好の機会が訪れたというのに、そうはさせじという方々だらけなのはまことに残念至極。

生物は、真正細菌と古細菌で2分すべしと考えるのはまとも。そこにはストーリー性があるからだ。一番正しそうとか、古細菌は真核生物に近いようだから、真性細菌と一緒にした原核生物(無核)という分類はよくないと言っている訳ではない。ここを間違えてはこまる。

素人の感覚からすれば、真正細菌 v.s. 古細菌でなくてもよいのである。他の細胞を取り込む体制を作ったところが最重要分岐と見なすなら、違う見方があっても当たり前。つまり、ストーリーの根幹に、「膜の違い」があるということ。
物理化学的な違いを生み出すのはDNAではなく、膜ということでもある。ここで、極めて本質的な分岐が生じたように映る訳である。
核に膜ができるのは、あくまでも、他の細胞を取り込んだ結果としか思えないからだ。そんなことができるようになった根拠こそが根源的な分岐なのは当たり前ではないかと思うが。

もっとも、突然変異でDNAに膜ができたと考えるべしというのなら別である。

つまり、こういうこと、・・・。
┌──真正細菌のうちグラム陰性
↑強固な膜
─★ここが最重要分岐という気にさせる。
│┌─真正細菌のうちグラム陽性
└★ここでも良いが。
┼┼↓柔軟な膜
┼┼│┌古細菌
┼┼││----↑原核生物(無核)----
┼┼└☆上記と比べれば本質的ではない。
┼┼┼└真核生物(有核)

何故かといえば、素人でもわかるような、単純なシナリオが登場しているからだ。
原始の熱い海で膜が形成され、膜表面で酵素反応が始まったとすれば、・・・。
┼┼┌─┐縄状核酸鎖
┌┴─┴──────┐薄袋状の膜
└─────────┘
┼┼┼┼↓袋内膜構造補強(分裂複製基盤)
┼┼┌─┐
┌┴─┴──────┐
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
└─────────┘
┼┼┼┼↓核酸鎖複製域整備
┼┼┼┼┌──────┐
┼┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼└────┐
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┌─┐─┐↑膜が核酸鎖を引っ張り複製支援
┌─┴─┴─┴─┘
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
└─────────┘
┼┼┼┼↓複製領域内胞化(2重膜構造)
┌─────────┐ [貫通超微細穴1ヶ所有型]
┼┼┼┼┼┼┼┼┼ [トポロジー的裏返し型]
┌─────┐
┼┼┼┼┼
┌─┐┼┼│ 細胞の誕生
└┴─┴─┴┘   内胞により形態安定化
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
└─────────┘
┼┼┼┼↓核酸鎖の環化(分裂時のみ膜付着)
┌─────────┐
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┌─────┐
┌┐┼┼┼ 閉鎖環境化で安定代謝可能に
└┘┼┼┼
└─────┘
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
└─────────┘
┼┼┼┼↓核酸鎖に無関係な外膜喪失(1枚膜構造)
┌─────────┐
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┌┐┼┼┼┼┼│ 他細胞取り込み型
┼┼└┘┼┼┼┼┼ あるいは
┼┼┼┼┼┼┼┼┼│ 他細胞内侵入型
┼┼┼┼┼┼┼┼┼
└─────────┘

もちろん、これが正しいか否かはわからない。しかし、様々なシナリオが生まれ、斬新な「ものの見方」が生まれるからこその「科学」である。
再掲するが、以下の見方も変わってもおかしくない。
 栄養分を生産する生物・・・植物
 生物の死体等を分解する生物・・・菌
 他の生物を捕食する生物・・・動物
ミトコンドリアや葉緑体の取り込みとは捕食とどこが違って、どこが同じなのか。捕食が取り込みになる可能性はあるのか。
言ってみれば、共生と寄生の違いでもある。このような概念は曖昧そのもの。結果の勝手な解釈でしかなく、プロセスが同じようなものなら、両者は紙一重と見るべきだろう。状況が変われば、昨日の友は今日の敵である。藍藻にしても、糸状「藻」形成のための物質をだしているからこその群生。それが現在の条件ではプラスに働くからにすぎず、環境変化でマイナスに変わることもあろう。それに対応するために、粘着物質は他の機能を発揮するということになろう。
(古細菌も、今は珍しいとされているが、そのうち、至るところで発見されてもおかしくなかろう。ただ、とんでもないニッチ的な棲息環境であろうが。極限状況下で見つかるのは他の生物が死滅しているから発見し易いにすぎまい。古細胞が他細胞を「食う」とか、侵入している現象も見つかっておかしくないと思うが。要するに大成功したのが、ミトコンドリアと葉緑体だっただけのこと。)

言いたいことは単純。
異なる種のDNAを取り込み、共存できた理由と、それがどのような過程を経たのかという話こそが、分類の焦点。それに障害となるような分類を暗記させることは止めて欲しいものである。それは、自由な議論を封殺する姿勢だからだ。

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