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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.8.7] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[28]
−鷲鷹類−

大伴家持と言えば、どうしても、花鳥風月的歌風のイメージが浮かんでしまう。越中国守時代は葦鴨を眺める湖岸遊覧を堪能したことで生まれた歌が「萬葉集」に収載されているのはよくわかる。
しかし、猛禽類は、そうした気分にはそぐわない感じがする。でも、鷹狩も大いに楽しんでいたから、歌に詠んでもおかしくはない。と言うことで、大作が生まれている。[→]

可愛がっていた鷹を勝手に持ちだされ、逃げられてしまい愕然。ところが夢でお告げがあり、戻ってきますヨ、といった内容である。がっかりしている筈だが、なんとなく愉し気でもあるのが面白い。
放逸せる鷹を思ひ、夢に見て感悦びよめる歌一首、また短歌 [巻十七#4011, #4012〜#4015]
大王の 遠の朝廷と 御雪降る 越と名に負へる 天ざかる 夷にしあれば 山高み 川透白し 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥多集けりと 大夫の 友誘ひて はしもあまたあれども矢形尾の 吾が大黒に [大黒ハ蒼ノ名ナリ] 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 免すことなく 手放も 還も可易き これをおきて または在り難し さ並べる は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて三島野を背向そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て 咳れ告ぐれ 招くよしの そこに無ければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息吐きあまり けだしくも 逢ふことありやと 足引の 彼面此面に 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 乞ひ祈みて 吾が待つ時に 少女らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つは 松田江の 浜ゆき暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛び徘徊り 葦鴨の 多集く舊江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のうちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとそ 夢に告げつる
 矢形尾の を手に据ゑ 三島野に 猟らぬ日まねく 月ぞ経にける
 二上の 彼面此面に 網さして 吾が待つ
を 夢に告げつも
 松反り しひにてあれかも さ山田の 翁がその日に 求めあはずけむ
 心には 緩ふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひわたりなむ


矢形尾が格別気にいっていたようである。鷹の羽は矢羽根に使われていたから、狩猟姿が美しく感じたのだろうか。
八日、白大鷹を詠める歌一首、また短歌 [巻十九#4154, #4155]
あしひきの 山坂越えて 往きかはる 年の緒長く しなざかる 越にし住めば 大王の 敷きます国は 都をも ここも同じと 心には 思ふものから 語り放け 見放くる人眼 乏しみと 思ひし繁し そこゆゑに 心なぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀬野に 馬だき行きて をちこちに 踏み立て 白塗りの 小鈴もゆらに あはせ遣り 振り放け見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ延べ 嬉しびながら 枕付く 妻屋のうちに 座結ひ 据えてぞ吾が飼ふ 真白斑の
 反し歌
矢形尾の 真白のを 宿に据ゑ 掻き撫で見つつ 飼はくしよしも

もちろん、個人的に鷹を特別好んでいた訳ではなく、貴族にとっては鷲には特別な意味あいがあった。武家の時代の尚武ということではなく。
越中国の歌四首 [巻十六#3882]
澁谿[@高岡の海岸]の 二上山に ぞ子産むといふ 翳にも 君の御為に ぞ子産といふ
(翳=刺羽[さしは]:貴人の顔を隠すために左右から翳す柄長団扇)

一般的には鷲鷹が好みそうな場所と言えば筑波山ではなかろうか。それが、自由恋愛的な歌垣にどうかかわるのかはよくわからないが。
筑波嶺に登りてかがひする日よめる歌一首、また短歌 [巻九#1759]
の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未娘子壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 吾も交らむ 吾が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 古よ 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
右の四首ようたは、下総しもつふさの国の歌。 [巻十四#3390]
筑波嶺に かか鳴くの 音のみをか 泣きわたりなむ 逢ふとはなしに

鷹狩は、大陸では上流階級の遊びであり、たしなみとせざるを得ない状況にあったようである。[→「酉陽雑俎」卷二十 肉攫部総覧[上]]

武士が力を持つようになると、狩りも実用性が要求されるようになったようである。稲穂を護るために、田圃に出かけるのが日課になってしまったりして。一般には、雌を飼うが、小柄な雄の方を好む武士も増えたであろう。
雲雀とる このり手に据ゑ 駒なべて 秋の刈田に いでぬ日ぞなき 源仲正[「夫木和歌抄」#5648]

ところが、刀狩りを経て、本格的な武家政権が発足すると、鷹狩は武家内の超特権支配層のみの行事となる。"タカ=大空の高"ということで、特別な思い入れがあったのだろうか。

その鷲鷹類だが、こんな風に見られていたのではなかろうか。生物学的分類とは異なるが、生活実感的にはわかり易かろう。

 《鷹タカ & ワシたか & わし 【】:中国名
●ハヤブサ系
 鶻/ハヤブサはやぶさ(晨風)
 長元坊チョウゲンボウ紅隼
 差羽/サシバ灰面鷲

 鳶トビK鳶 or 老鳶K翅鳶とび(飛)
 肩黒鳶カタグロトビ
●ワシ系
 大鷲オオワシ虎頭海雕
 尾白鷲オジロワシ白尾海雕
 犬鷲/狗鷲イヌワシ金雕

 赤腹鷹アカハラダカ赤腹鷹
 蜂熊/八角鷹ハチクマ鳳頭蜂鷹
●タカ系
 灰鷹/鷂ハイタカ雀鷹 or 鷂はしたか このり
 大鷹/蒼鷹オオタカ蒼鷹おほたか ♂小せう ♀大だい
 角鷹/熊鷹/Gクマタカ鷹G
 沢/中飛チュウヒ白腹鷂

 ノスリのせ(←野"せう")
 雀鷹/雀鷂ツミ日本松雀鷹

 鶚/雎/魚鷹/ミサゴみさご(水探)

尚、換羽による成鳥過程(幼羽⇒幼鳥羽⇒若鳥羽⇒初回(成鳥冬羽⇒成鳥夏羽)⇒第2回⇒第3回・・・)については、以下参照。 [→「酉陽雑俎」卷二十 肉攫部総覧[下]]
凡鷙撃等,一變為鴿,二變為,三變為正。自此已,後至累變,皆為正
  一曰黄鷹,二鷹,三曰青鷹。
[晉 郭義恭:「廣志」]
鷹の名所だった伊良子辺りでは、"はしたか"の雛から育てた一歳を"単鷹"、換羽したばかりを捕獲した場合は"山帰り"と呼んでいたようだ。
二つありける鷹の、伊良胡(志摩の対岸)渡りをすると申しけるが、一つの鷹は留まりて、木の末にかかりて侍ると申しけると聞きて、 西行法師[「山家衆」#1389, #1390]
単鷹渡る 伊良胡が崎を 疑いて 尚木に帰る 山帰りかな
灰鷹の 漫ろがさでも 古るさせて 据ゑたる人の 有り難の世や

西行の時代になると、鷹を育てて狩りを生業とする名人はすでに貴重な存在と化していたのだろうか。

要するに、古代のもっぱらの興味は鷹狩だったといえよう。

しかしながら、鷲鷹の仲間であっても、磯で見かける鶚ミサゴはいかにも「萬葉集」らしい恋歌ノテーマで登場する。随分と扱いが違う。おそらく、古代から、ホバリング姿と命を賭けたダイビング漁獲が知られており、恋にも全精力を費やす素敵な鳥というイメージが出来上がっていたと思われる。
現代では、ミサゴを知らない人だらけ。にもかかわらず、オスプレイという名称だけが有名といういびつな知識状況にあいなってしまい、まことに残念至極。
山部宿禰赤人が歌六首 [巻三#362, #363]
雎鳩居る 磯廻みに生ふる 名乗藻の 名は告してよ 親は知るとも
     或ル本ノ歌ニ曰ク

雎鳩居る 荒磯に生ふる 名乗藻の よし名は告らせ 親は知るとも
[巻十一#2739]
みさご居る 沖の荒磯に 寄する波 ゆくへも知らず 吾が恋ふらくは
譬喩 [巻十一#2831]
右の一首は、弓に寄せて思ひを喩ふ。
みさごゐる 洲に居る舟の 夕潮を 待つらむよりは 吾れこそ益さめ
[巻十二#3203]
みさご居る 洲に居る舟の 榜ぎ出なば うら恋ほしけむ 後は逢ひぬとも

(Wikisource 万葉集 鹿持雅澄訓訂 1891年)
[→鳥類分類で見る日本の鳥と古代名]

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