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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.29] ■■■
[273] 拘薩羅国波斯匿王
陀国については阿闍世王[→]の話でとりあげたが、釈迦族を支配していた拘薩羅Kosala国も見ておこう。

言うまでもないが、波斯匿王は釈尊のパトロンであり、祇園精舎があったのは首都 舎衛城/Shravasti
そして、摩陀国阿闍世王と戦乱が繰り広げられ、毘琉璃王の時代に王朝は倒され併合された。釈迦族も滅亡してしまう。[→釈迦族出自]
出自は太陽神祭祀種族。そのなかには、釈迦族も含まれるようだ。
--- 拘薩羅Kosala王朝史 ---
┼┼○毘婆斯婆多/Vaivasvata ManuShraddhadeva Manu/Satyavrata…現世人類始祖
┼┼├・・・
┼┼○大茅草王/王仙
┼┼└→射殺出血→植物甘蔗→善生・善賢→釈迦王@雪山南→‖→釈尊父
┼┼[闍那崛多:「佛本行集経」卷五賢劫王種品下]
  【伊克什瓦庫Ikshvaku王朝】
┼┼○伊克什瓦庫/Ikshvaku/甘蔗…太陽神[Surya]族/Suryavansha/日種
┼┼├─‖──○羅摩/Rama
┼┼├────○(釈迦族)
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《列国期》
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┼┼○梵授王Mahakosala
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┼┼波斯匿勝光/Pasenadi/Prasenajit[前6世紀]
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┼┼○毘琉璃/Virudhaka/Vidudabha

波斯匿王が飛び抜けた位置にあるようで、後継者の世代で国が消滅したせいもあり、その歴史は不透明である。
ただ、民衆に人気があるラーマ王子の出自の国家らしいから、その地位は高かったのは間違いなさそう。
当然、「今昔物語集」にもかなり登場してくる。
  【天竺部】巻一天竺(釈迦降誕〜出家)
  [巻一#38]舎衛国五百群賊語 [→五百羅漢]
  【天竺部】巻二天竺(釈迦の説法)
  [巻二#15]須達長者蘇曼女十卵語 [→男児が孵る卵]
  ⇒慧覺[訳]:「賢愚經」卷第十三蘇曼女十子品第五十八
  [巻二#28]流離王殺釈種語 [→釈迦族出自]
  [巻二#29]舎衛国群賊殺迦留陀夷語 [→五百羅漢]
  [巻二#30]波斯匿王舎離卅二子語 [→男児が孵る卵]
  ⇒慧覺[訳]:「賢愚經」卷第七梨耆彌七子品第三十二
  【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)
  [巻四#_7]優婆崛多会波斯匿王妹語 [→優波崛多]

  [巻四#_2]波斯匿王請羅羅語
  ⇒玄奘:「大唐西域記」@646年 六拘屍那羅國クシナガラ
 釈尊の涅槃後、波斯匿王は羅羅を招いて、豪華な食事を供応。
 大王と后は自ら手に取って食べさせた。
 すると、一箸食べ、幼児のように涙を流して泣いてしまった。
 心を込め供養しているのに怪しく感じた百官はその理由を尋ねた。
 すると、
 「まだ、涅槃後時間はたいして経っていないのですが、
  御馳走の味が全く変わってしまい、不味いのです。
  そうなると、末世の衆生は、何を食べることになるのでしょう。
  考えるに、悲しくなりまして、泣いてしまいました。」
 と答えて泣き続けるのであった。
 大王がその様子をご覧になっていると、
 羅羅は腕を伸ばし、地中から一粒のご飯を取り出した。
 そして、
 「これこそ仏陀在世の時のご飯でございます。
  断惑の聖人の飯ですが、今の供養の飯と、食べ比べて下さい。」と。
 大王が食すと驚くほど美味。
 比較すれば、今の供養飯は毒で、こちらは甘露と云ったところ。
 どこで、
 「聖人が皆無の世で、
  誰の供養に、この食物を地上に留めて置いたらよいのか。」
 「堅牢地神の大地から生ずる食物として、
  五百由旬の地の底に埋めるべきだな。」
 と語ったので、
 大王は尋ねた。
 「そうなると、何時、その食物が役に立つのでしょう?」と。
 羅羅はそれに答えたのである。
「末世、仁王経講開催地に必ず食物がある筈。」

ご教訓としては、
 "末世の衆生の為には、仁王講、尤も要須の善根也"
とされている。

この「仁王経」だが、釈尊が、舎衛国の波斯匿王と問答しながら、国王のあり方について説いた教典。その眼目は国家護持のようだ。(梵語原書・チベット語訳書が無いため、天竺発祥ではないとの解説が多い。天竺を訪れた玄奘が、この経典名を記載していないからだとも。)

鳩摩羅什[訳]:「仏説仁王般若波羅蜜経」の十六大国では当然ながら、イの一番にでてくる。(薩羅国Kosala 舎衛国Shravasti 摩竭提国Magadha 波羅国 迦夷羅衛国 鳩尸那国 鳩彌国 鳩留国 𦋺賓国 彌提国 伽羅乾国 乾陀衛国 沙陀国 僧伽陀国 拏掘闍国 波提国)

玄奘:「大唐西域記」@646年 六拘屍那羅國クシナガラ 三、大邑聚及羅怙羅神亦傳説
分舍利堵波西南行二百餘里,至大邑聚。有婆羅門,豪右巨富,確乎不雜,學究五明,崇敬三寶。接其居側,建立僧坊,窮諸資用,備盡珍飾。或有衆僧往來中路。殷勤請留,心供養,或止一宿,乃至七日。其後設賞迦王毀壞佛法,衆僧絶侶,歳月驟淹,而婆羅門毎懷懇惻。經行之次,見一沙門,眉皓發,杖錫而來。婆羅門馳往迎逆,問所從至,請入僧坊,備諸供養,旦以淳乳,煮粥進焉。沙門受已,才一;齒,便即置,沈吟長息。婆羅門持食,跪而問曰:「大コ惠利隨縁,幸見臨顧,為夕不安耶?為粥不味乎?」沙門然告曰:「吾悲衆生福祐漸薄,斯言且置,食已方説。」沙門食訖,攝衣即路。婆羅門曰:「向許有説,今何無言?」沙門告曰:「吾非忘也,談不容易,事或致疑。必欲得聞,今當略説。吾向所嘆,非薄汝粥。自數百年,不嘗此味。昔如來在世,我時預從,在王舍城竹林精舍,俯清流而滌器,或以澡嗽,或以盥沐。嗟乎!今之純乳,不及古之淡水,此乃人天福減使之然也。」婆羅門曰:「然則大コ乃親見佛耶?」沙門曰:「然。汝豈不聞佛子羅怙羅者,我身是也。為護正法,未入寂滅。」説是語已,忽然不見。婆羅門遂以所宿之房,塗香灑掃,像設肅然,其敬如在。


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