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■■■ 「古事記」解釈 [2021.1.13] ■■■
[12] 葦船・鳥船・石船・楠船記載の意味
小生は、太安万侶はピカ一の知識人と見ている理由の一つが船の記載である。
歴史的に最初に登場する船を"葦船"としている点には正直脱帽である。

日本の土壌や気候を考えるとに"葦船"時代の存在を示す出土品や伝承があるとは思っていなこともあるが、社会や技術の見方が鋭いことに気付かされたからである。
今でこそ、"葦船"などあって当たり前と思う人が多いが、マスコミが色々と取り上げてきたからのこと。以前は、そんなことを口にすると、カルト関係者にされかねなかったほど無知だったのである。しかし、間違ってこまるが、理解が進んでいる訳ではない。今でも、筏や丸木舟が簡単に作れると考える人だらけだからだ。そこに存在する桎梏とは、道具や材の問題ではないことに気付いていないのだ。
いかに簡単そうに見えても、"船"造りである限り、コンセプトに従った総合技術が不可欠なのである。そこらが中途半端だと実用性皆無のお遊び用品しかできあがらない。それこそ、操船できない状況に遭遇し、即遭難なのである。

と言うことで、太安万侶がどうして"葦船"を知ったのか不思議に思っていたが、鹿島等の地域に、"葦船神輿"神事が残存しているようだ。(日吉八幡神社@秋田にもあるが、近世の、近鹿島系の人々の移動と見た。)

とは言え、「古事記」の古代船と言えば、"天鳥船神/鳥之石楠船神"。
わかったような、わからないような名称だが、船材としては楠が最高ということだけはすぐにわかる。
  📖クスノキを眺めて…  📖楠@「酉陽雑俎」の面白さ  📖古代の船材木

しかし、太安万侶の時代は楠の良材は僅少。成長が遅いし。伐採し易い場所に生えていることが多い樹木だから致し方ない。
(「伊豆國風土記(逸文)」造船:高速船を造ったが、その船材は日金山の楠。これが、本朝の大船の初め、と。)
おそらく、既に、杉が主流になっていたのである。
(「相模國風土記(逸文)」足輕山:船材をこの山の杉材にしたところ脚が軽いと、と。)
そこで、海人のルーツを語るなら、"楠"抜きでは語れませんゾということで記載したのであろう。国家一丸となった樟脳輸出政策が徹底され、神社の杜で徹底伐採が行われるようになることを見越しているようにも思えてくる。
そんなことで、この神への信仰は抹消されたと思っていたが、香取神宮系で引き継がれているようだ。(地域的には、利根川下流域から常陸国那珂郡辺り。)渡来神を乗せて、黒潮でやってきた偉大な神というイメージは残っていたようだ。
  石船神社@東茨城城里岩船宮山
  息栖神社@神栖息栖
  神崎神社@香取神崎本宿
  ((阿波)大杉神社のご祭神も該当するが、社名が杉であり、異なる系統と見なした。)

この神社名でも見えるが、"石船"という表現が重要ポイント。
この言葉、日本列島の精神風土を示すことになっており、秀逸。「古事記」で言いだしているのではなく、一般用語でもあるが、その意味を考えさせるために"鳥之石楠船神"としたのだと思う。
もちろん、もっとよくわかる表現としては磐船がある。この石とは、神が降臨する磐座の意味であることをはっきり示したい時の表現なのだろう。
いかしながら、石製の船など船形土偶のような地上のモニュメント以外に考えられず、トンデモない用語であるのは間違いない。そのため、信仰に関係するイメージの言葉と見なすことになりがち。

その典型が、"石船"とは、石棺を意味するとの主張。確かに、船は死出の旅路につきものだし、海人は海の彼方にある常世の世界を信じていたからそう考えてもよかろう。船形石棺は存在しているし、木造船形も出土している、遺骸を船で海の彼方の異界に送り届けるという観念があったのは間違いない。とは言うものの、読み続けていると、上巻の焦点は海人の初期の歴史にありそうだから、ここは外洋渡来をとりあげていると見た方がよいのである。📖墓制と「古事記」
それに、"石船"でなく"石楠船"である。棺用材はもっぱら高野槇で、楠は使わない。

従って、太安万侶の"石船"の見立てとしては、"斎奇船"であろう。奇し御霊が渡来する船ということである。
南島を含め、黒潮圏では超人的渡来者を神として迎える風土があり、行幸とは楠船で神人が地域を巡り行くことだったと書いているようなもの。
神代の頃の"石船"という用語は、行幸を寿ぐ表現だったことになろう。内陸部の陸路ができてしまうと、そのような観念は消えて行くことになろうが、歌や一部の神社にはその感覚が残っていそう。
  石船神社@村上岩船三日市、京田辺高船里
  (これとは異なるタイプもあり、峻別は難しい。…<河内>⛩磐船神社@交野私市天野川はご祭神が饒速日命[物部氏遠祖神]でもともとが船形巨岩信仰地。)
もっとも船行幸由来でない神社もありそう。・・・
(攝)津國風土記に云、難波高津は天雅彦天降りし時、天雅彦に屬て下れる~、天の探女、磐船に乘て爰に至る。天磐船の泊る故を以て、高津と號すと云々。[「續歌林良材集 上」(疑義「攝津国風土記(逸文)」高津)]
  (岩波版の引用だが、天磐船は石棺との註がある。御陵の地なのだろうか。

楠船と石船をざっくり見たので、"天鳥船神/鳥之石楠船神"のもう一つの言葉、鳥船について見ておこう。

登場シーンからすると、船で指揮をとる首長が威厳を示すために身に飾っているお印が鳥で、船首シンボルにも鳥が飾ってある戦船というイメージが妥当な感じがせる。この辺りはセンスの問題ではあるが。
もともと、中国南部には、東方の海の彼方の島に生えている扶桑の高木に懸っている太陽の1ツを毎日烏が運ぶという観念があり、鳥の威力への尊崇は定着していたから尚更。但し、黒潮系海人のトーテムは水棲動物のことも多いだろうから、一概には言えないとは思うが。
それよりは、黒潮外洋航海で、鳥が重要な役割を担っていたと見た方がよいかも。陸地の視覚航海が全くできない以上、陸地発見の決め手は渡り鳥や留鳥の動きなのは、世界中どこでも知られていることだから。そのために、仲間として鳥を同行させていた可能性もありそう。
揚子江での川鵜飼民は、繋ぎ紐無しで鳥と兄妹として共同生活し、双胴船漁を行っていたと見られており、外洋航海者も同様だったかも知れないのである。鳥が船首に止まっていて、陸地や魚を捜すことになる。
ただ、日本では鳥飼いの習慣は定着しなかったようだ。ずいぶんと後世になり、鳥飼いが始まったようである。それを伝える話が下巻に収録されている。・・・
本牟智和気命の母は、兄の狭穂彦王の叛乱で自殺。火中から救出されたが、成人しても言葉を発しなかった。ところが、船遊び中、空高く飛ぶ鵠(ハクチョウ)の鳴き声を聞き、初めて片言を発した。喜んだ、父親の垂仁天皇は、山辺之大鶙に追跡させた。・・・
木国/紀伊・針間国/播磨・稲羽国/因幡・丹波国・旦波国/丹波・多遅摩国/但馬・近淡海国/近江・三野国/美濃・尾張国・科野国/信濃・高志国/越と巡って、和那美の水門で捕獲。
その後、出雲大神参詣で、色々あるが、結局のところ、天皇は、鳥取部等を定めると共に、出雲に神宮を造らせた。

この話はなかなか示唆に富んでいる。追跡者はどう見ても山野での鷹狩的な鳥類狩猟者。水鳥の生け捕りなど眼中にないのに、任務を仰せつかっているからだ。

出雲大神がどうして祟るのかよくわからないところだが、"国譲り"で、出雲から出ないことを約束し、それを遵守したのに、大社建造がなされていないということだろうか。17代続く系譜の最後の2柱の男神は木次の地にとどまっているようだし、大国主神の直系の筆頭は、六番目の妻 鳥取神(八島牟遅能神の娘)から生まれた御子が鳥鳴海神とされているから、気になる訳だが。
それに、誓約での八坂瓊五百津御統珠の5男神のうち、長男天之忍穂耳命は天孫の祖だが、次男天之菩卑能命は、<因幡><出雲 東><出雲 西>でそれぞれ祀られており、その御子は鳥神。言うまでもないが、こちらは出雲建子命の祖。
ちなみに、三男天津日子根命は黒潮系の地域で祀られていたりする。

下巻に係わる話をしたので、高速船"枯野"にも触れておこう。
とんでもない巡航速度である。難波⇔淡路航路が数時間なのだから。
  是船 旦夕酌淡道嶋之寒泉 献大御水
(「播磨國風土記(逸文)」では"速鳥"。)
パワーボートでも結構難儀であり、2艘就航させないと、とてもできそうにない。
そんな超高速船の表記をなにも"枯野"(カラノ/加良努)としなくてもよさそうなものだ。使われていた俗称文字が"軽野"だったりしたので、駄洒落か。
輕野(@神栖の寒田沼辺り)より東の大海の濱邊(@鹿島灘)に、流れ着ける大船あり。長さ一十五丈、濶さ一丈餘、朽ち摧れて砂に埋まり、今に猶遺れり。淡海のみ世(天智天皇代)、國覔ぎに遣はさむとして、陸奥の國石城の船造に令して、大船を作らしめ、此に至りて岸に着き、卽[即]て破れきと謂ふ。[「常陸国風土記」香取郡]
考えてみれば、船材が焼け残ったのだから、丸木の底に十分水分を浸透させたことになる。そうだとすると、流線型のカタマランか。帆があれば、超高速もあり得よう。そこまでいかなくても、櫂の形状と漕ぎ手訓練で、潮の流れが合う頃を見図れば実現可能かも。
海人は、もともとスピードレース好きなこともあり、漕ぎ手はオリンピック優勝者クラスの能力があってもおかしくないからだ。現代の神事にも、そんな名残を見つけることができる。・・・
"諸手船神事"@美保神社は典型。「日本書紀」であるが、事代主神に派遣された稲背脛命が使用した船を指すという。熊野速玉大社にも、熊野諸手船/天鴿船の"御船(諸手船)祭り"があるが、呼び方が異なり、"爬竜(ハーリー)船走(ハーレー)競漕@琉球糸満の音に似ている。
"枯野"は黒潮系海人の伊豆諸手船ということか。
(「伊予國風土記(逸文)」熊野岑:熊野と云う船が石となり野間郡に有る、と。)

<誓約>[玉(八坂瓊五百津御統珠)]五男神】
○第1子:天之忍穂耳命…天津日高日子番能邇邇芸命の父
○第2子:天之菩卑能命…建比良鳥命[=勇猛な、異郷への境界を飛ぶ鳥の神]の父 伊佐我命と出雲建子命の祖父
祖神:出雲國造、天邪志國造、上・下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直、遠江國造、等々。
<因幡>
  天穗日命神社@鳥取福井(湖山池西)
  天日名鳥命神社/天鷺宮@鳥取大畑森崎(湖山池南西)
  大江神社@八頭
<出雲 東>
  能義神社@安来能義(=意宇郡野城駅)
<出雲 西>
  比那神社@出雲神門 比那鳥命
○第3子:天津日子根命
祖神:凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造、等々。
  室津神社@土佐室戸船久保
  王子宮@土佐安芸芸西(和食川沿)
  王子神社@阿波徳島八万町向寺山
  多度大社@伊勢桑名多度山

【十七世神】
●伊邪那岐命
│└┬▲伊邪那美命
└──・・・○大山津見神・・・
<禊>@筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原
├□綿津見三神、□住吉三神
三貴神
├───▲天照大御神、□月読命
┼┼┼<誓約>[玉(八坂瓊五百津御統珠)]5男神
┼┼┼┼天之忍穂耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命
●建速須佐之男命
├───<誓約>[剣]宗像三女神
├┬△神大市比売(大山津見神の娘)
│└─○大年神、○宇迦之御魂神/稲荷神
└┬△櫛名田比売(足名椎の娘)
┌─┘
〇八島士奴美神
└┬△木花知流比売(大山津見神の娘)
┌─┘
〇布波能母遅久奴須奴神
└┬△日河比売(淤加美神の娘)
┌─┘
〇深淵之水夜礼花神
└┬△天之都度閇知泥神
┌─┘
〇淤美豆奴神
└┬△布帝耳神(布怒豆怒神の娘)
┌─┘
〇天之冬衣神(≒天之葺根神…須佐之男命の子)
└┬△刺国若比売(刺国大神の娘)
┌─┴─大穴牟遅神異母兄弟八十神
●大国主神/大穴牟遅神…子は180柱。
├┬─▲須勢理毘売命(須佐之男命の娘)
│└──
├┬─△多紀理毘売命(宗像三女神長女@奥都島)
│├──○阿遅鉏高日子根神/阿遅志貴高日子根神/阿治志貴高日子根神
│└──△下照比売/高比売命
├┬─△神屋楯比売命
│├──○事代主神
│└──△高照光姫大神命…御歳神社
├┬─△八上神
│└──○木俣神/御井神
├┬─△沼河比売@高志国
│└──○建御名方神
└┬─△鳥取神(八島牟遅能神の娘)
└──●鳥鳴海神
┼┼┼┼└┬△(日名照額田毘道男)伊許知邇神
┌────┘
〇国忍富神…富神社@出雲斐川
└┬△葦那陀迦神/八河江比売…矢川神社@近江甲賀甲南森尻
┌─┘
〇速甕之多気佐波夜遅奴美神
└┬△前玉比売(天之甕主神の娘)
┌─┘
〇甕主日子神
└┬△比那良志毘売(淤加美神の娘)
┌─┘
〇多比理岐志麻流美神
└┬△活玉前玉比売神(比比羅木之其花麻豆美神の娘)
┌─┘
〇美呂浪神
└┬△青沼馬沼押比売(敷山主神の娘)
┌─┘
〇布忍富鳥鳴海神
└┬△若尽女神
┌─┘
〇天日腹大科度美神
…日原神社@出雲大原郡[雲南]大東) or 大森神社@[雲南]木次日登海潮中屋)
└┬△遠津待根神(天之狭霧神の娘)
┌─┘
〇遠津山岬多良斯神…山岬神社[日原神社境内社]

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