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■■■ 「古事記」解釈 [2022.2.28] ■■■
[423]「古事記」収録地名譚は面白い
地名の由来/所以譚の多くは後付けの創作だと思われるが、それだからこそ社会状況を踏まえた面白い話に仕上がっていたりする。ただ、それをどう読むかははなはだ難しいものがあろう。

「出雲風土記」はその点で出色。指示に律儀に従っており、必要なさそうな箇所まで由緒を記載している。
畿内七道諸國郡郷名好字
其郡内所生 銀銅彩色草木禽獸魚䖝等物 具録色目
及土地沃塉 山川原野名号所由 又
古老相傳舊聞異事
載于史籍言上  [@「続日本紀」和銅6年[713年]条⇒<解>]

郡名は以下のような記載だが、すべてがこの調子。もちろん力が入っている箇所もあり、物語として仕上げられていたりする。・・・
≪出雲国≫所以号【出雲】 八束水臣津野命詔八雲立詔之 故云【八雲立】
≪意宇郡≫所以号【意宇】 国引坐八束水臣津野命詔八雲立
 e.g.  【安来】郷・・・神須佐乃烏命 天壁立廻 坐之
         爾 時 来坐此処而詔:「吾御心者 安平成」詔 故云【安来】也

≪島根郡≫所以号【島根】 国引坐八束水臣津野命之詔而 負給名 故云【島根】
≪秋鹿郡≫所以号【秋鹿】 郡家正北 秋鹿日女命坐 故云【秋鹿】矣
≪楯縫郡≫所以号【楯縫】 神魂命詔 五十足天日檜宮之縦黄御量 千尋𣑥繩持而 百結結 八十結結下而 此天御量持而 所造天下大神之宮造奉詔而 御子天御鳥命 楯部為而 天下給之 爾時退下来坐而 大神宮御装束楯 造始給所 是也 仍至今 楯桙造而 奉於皇神等 故云【楯縫】
≪出雲郡≫所以号【出雲】 説名如国也
 "郷"でないが、  先所以号宇夜里者・・・  改所以号健部者・・・
≪神門郡≫所以号【神門】 神門臣伊加曽然之時 神門貢之 故云【神門】
≪飯石郡≫所以号【飯石】 飯石郷中 伊毘志都幣命坐 故云【飯石】
≪仁多郡≫所以号【仁多】 所造天下大神 大穴持命詔 此国者 非大非小 川上者 木穂刺加布 川下者 阿志婆布這度之 是者爾多志枳小国在詔 故云【仁多】
≪大原郡≫所以号【大原】 ・・・平原也 故号曰【大原】・・・号大原今有郡家処号云斐伊村
下賤な言葉で言えば、先に手をつけているから、これからもシマとして取り仕切って行くとの主張の正当/正統性を、公的文書記録にしておこうという取り組みでもあるから、手抜きはできないということだろう。
例えば、以下の様に、それぞれの郷毎に、祖が決まっているということ。
大草郷・・・須佐乎命御子 青幡佐久佐日古命坐 故云大草
山口郷・・・須佐能烏命御子 都留支日子命詔 吾敷坐山口処在詔而 故山口負給
方結郷・・・須佐能烏命御子 国忍別命詔 吾敷坐地者 国形宜者 故云方結
滑狭郷・・・須佐能袁命御子 和加須世理比売命坐之 爾時 所造天下大神命 娶而通坐時 彼社之前 有磐石 其上甚滑之 即詔 滑磐石哉詔 故云南佐神亀三年改字滑狭
須佐郷・・・神須佐能袁命詔 此国者雖小国 国処在 故我御名者 非者木石詔而 即己命之御魂 鎮置給之 然即 大須佐田小須佐田定給 故云須佐
佐世郷・・・古老伝云 須佐能袁命 佐世乃木葉頭刺而 踊躍為時 所刺佐世木葉墮地 故云佐世


ただ風土記でも、播磨国は外部に開かれた文化の地だったようで、移住者譚が多いし、支配勢力間の争いの話も持ち込まれていて、風土が全く異なる。
→"「播磨国風土記」は参考になる"📖 📖 📖 📖 📖 📖
これが常陸になると、使っている地名をママ記録するだけの姿勢が強そうで、由来譚関心は薄そう。それよりは土蜘蛛対応に目がいっているようだ。
3者3様といったところ。

「古事記」にも、地名の由来は少なくないが、風土記の編纂者のような関心はほとんど無いだろうから、どういう気分で収録に踏み切ったのか大いに気になるところだ。
リスト化すると以下のようになる。・・・

≪速須佐之男命≫
到坐"須賀"地 而 詔之 吾來此地 我御心 須賀須賀斯 而 其地 作宮坐
故 其地者 於今云【須賀】
㊥①
≪~倭伊波禮毘古命≫
登美能那賀須泥毘古 興軍待向以戰 爾 取所入御船之楯 而 下立
故 號其地謂【楯津】 於今者云【日下之蓼津】
≪五瀬命≫
期而自南方廻幸之時 到血沼海洗其御手之血
故 謂【血沼海】
從其地廻幸到紀國男之水門而詔 負賤奴之手乎死 男建而崩
故 號其水門謂【男水門】
≪大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人≫
即握横刀之手上弟由氣 矢刺 而 追入之時 乃 己所作押見打而死 爾即控出斬散
故 其地謂【宇陀之血原】
≪伊須氣余理比賣命之家≫
於是其伊須氣余理比賣命之家 在狹井河之上 天皇幸行其伊須氣余理比賣之許 一宿御寢坐也
<其河謂佐韋河由者 於其河邊山由理草多在

故 取其山由理草之名號【佐韋河】
山由理草之本名云"佐韋"也>
㊥⑩
≪活玉依毘賣≫
是以其父母欲知其人 誨其女曰 以赤土散床前以"閇蘇"紡麻貫針刺其衣襴 故 如教而旦時見者 所著針麻者自戸之鉤穴控通 而 出 唯遺麻者三勾耳 爾 即知自鉤穴出之状 而 從糸尋行者 至美和山而留~社 故 知其~子
故 因其麻之三勾遺 而 名其地謂【美和】
≪大毘古命+丸邇臣之祖日子國夫玖命 v.s. 建波邇安王興軍≫
於是到山代之和訶羅河時 其建波邇安王興軍待遮 各中挾河 而 對立相挑
故 號其地謂【伊杼美】 <今謂【伊豆美】也>
 :
爾 追迫其逃軍到久須婆之度時 皆被迫窘而屎出懸於褌

故 號其地謂【屎褌】 <今者謂【久須婆】
又 遮其逃軍 以斬者如鵜浮於河
故 號其河謂【鵜河】
亦斬波布理其軍士
故 號其地謂【波布理曾能】
≪建沼河別+[父]大毘古命≫
如此平訖 參上覆奏 故 大毘古命者隨先命 而 罷行高志國 爾 自東方所遣建沼河別與其父大毘古共往遇于相津
故其地謂【相津】
㊥⑪
≪山邊之大鶙≫
遂追到高志國而於和那美之水門張網 取其鳥而持上獻
故 號其水門謂【和那美之水門】
≪圓野比賣≫
於是圓野比賣慚言 同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚 而 到山代國之相樂時取懸樹枝而欲死
故 號其地謂【懸木】 今云【相樂】
又 到弟國之時遂墮峻淵而死
故 號其地謂【墮國】 今云【弟國】
㊥⑫
≪倭建命≫
於是先以其御刀苅撥草 以其火打而打出火著向火而燒退還出 皆切滅其國造等 即著火燒
故 於今謂【燒遺】
 :
故 登立其坂三歎詔云 "阿豆麻波夜"

故 號其國謂【阿豆麻】
 :
故 還下坐之到玉倉部之C泉 以息坐之時御心稍寤
故 號其C泉謂【居寤C泉】
自其處發到當藝野上之時 詔者 吾心恒念自虛翔行 然今吾足不得歩成"當藝當藝斯形"
故 號其地謂【當藝】
自其地差少幸行 因甚疲衝御杖稍歩
故 號其地謂【杖衝坂】
 :
自其地幸到三重村之時 亦詔之吾足如三重勾而甚疲

故 號其地謂【三重】
㊥⑭
≪大后息長帶日賣命御子≫
故其政未竟之間 其懷妊臨産 即爲鎭御腹取石以纒御裳之腰 而 渡筑紫國其御子者"阿禮"坐
故 號其御子生地謂【宇美】
≪伊奢沙和氣大~之命≫
故其旦幸行于濱之時 毀鼻入鹿魚既依一浦 於是 御子令白于~云於我給御食之魚
故 亦稱其御名 號【御食津大~】 故 於今謂【氣比大~】
亦其入鹿魚之鼻血臰
故 號其浦謂【血浦】 今謂【都奴賀】
㊥⑮
≪大山守命≫
於是伏隱河邊之兵 彼廂此廂 一時共興 矢刺而流 故到"訶和羅"之前 而 沈入 故以鉤探其沈處者 繋其衣中甲 而 訶和羅鳴
故號其地謂【訶和羅前】
㊦⑯
≪大后 石之日賣命≫
於是太后大恨怒 載其御船之御綱柏者悉投棄於海
故 號其地謂【御津前】
㊦⑰
≪伊呂弟 水齒別命≫
爾 取出置席下之劒 斬其隼人之頸 乃明日上幸
故 號其地謂【近飛鳥】
上到于倭詔之 今日留此間爲祓禊 而 明日參出將拜~宮
故 號其地謂【遠飛鳥】
㊦㉑
≪大長谷若建命≫
爾 𧉫咋御腕 即蜻蛉來咋其𧉫而飛 <訓蜻蛉云阿岐豆也> 於是作御歌 其歌曰「・・・」
故 自其時號其野謂【阿岐豆野】
 :
幸行于春日之時媛女逢道 即見幸行而逃隱岡邊 故作御歌 其歌曰「・・・」

故 號其岡謂【金鉏岡】
㊦㉓
≪袁祁之石巢別命≫
是以至今其子孫上於倭之日必自跛也 故 能見"志米岐"其老所在
故 其地謂【志米須】
・・・これらは、風土記や国史のような目的で収録している訳ではないから、結構面白い。少し眺めてみたくなった。

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