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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.7] ■■■
[653]記紀枯野譚の違い
🚣半島の国家に関係していそうということで、雁卵譚に触れたが 📖、その後に続いて収録されているのが老朽化した高速船"枯野からの"焼却譚。そして、天皇崩御の一行記載でこの段は完となる。
筋はわかり易い。・・・
<伝説の巨木⇒超高速船造船⇒名水朝夕運搬船⇒老朽化解体⇒製塩用燃料⇒焼け残り材で琴作成⇒響き渡る名琴>
【古事記】 ≪⑯天皇段≫
茲 船破壞以燒鹽 取其燒遺木 作琴 其音響七里
[歌75]枯野を塩に焼き其が余り琴に作り掻き弾くや由良の門の門中の海石に触れ立つ水浸の木のさやさや 📖
  📖高速船"枯野"の記載遊び 📖淡道国特別視の理由 巨木が希少になり、最後の大型丸木船(アウトリガーかカタマラン型で10名以上の漕ぎ手なら超高速航行可能)だろう。

「日本書紀」所収歌も同じであるから、多少の差異はあっても(異なる天皇段収録である訳で)、ほぼ同様なストーリーと考えがちだが、全く異なっている。折角だから、ここらについて、書いておこうと思う。

ここで、「うざったい」だろうが、一貫して主張している2点について一言述べておきたい。・・・一つは、「記紀」読みは避けるべし。もう一つは分析思考でなく、概念思考で行こう。
「記紀」比較をしていても、「記紀」読みをしている訳ではないし、類似性や異なる叙述を検討しているからと言って、分析して何らかの結論を得ようとしている訳ではない。申し訳ないがこれ以上の説明をする気は無い。


実は、書く気になったのは、たまたま目を通してみると、国史プロジェクトは編纂にはさんざ苦労した様子が垣間見られ、息抜き的註も挿入するなど、それなりに面白いからである。
ともあれ、両者は記載天皇段が異なるから、おそらく様々な分析がなされていると思料するが、小生の印象からすれば、両者が異なるのはどちらかが作為的に行っているということではなく、どちらも、on a best effort basisで決定したに過ぎないということになる。
国史の筋はよく見ると、「古事記」とはほとんど別モノだからだ。・・・
<伊豆国に官船の建造命⇒軽便高速船なので枯野からのと命名⇒老朽化解体⇒製塩用燃料⇒焼塩諸国配布/各国新造船⇒集船@武庫水門>
<新羅調使船停泊@武庫水門⇒失火・集船延焼⇒新羅人責任論⇒新羅王 匠者献上>
<枯野船が燃え残り"怪"⇒天皇命作琴⇒響き渡る名琴>

【国史】 ≪応神天皇≫
五年・・・冬十月 科伊豆國令造船 長十丈 船既成之 試浮于海 便輕泛疾行如馳 故 名其船曰枯野<由船輕疾名枯野 是義違焉 若謂輕野 後人訛歟>

卅一年秋八月 詔群卿曰:
「官船名枯野者 伊豆国所貢之船也 是朽之不堪用 然久爲官用 功不可忘 何其船名勿絶 而 得傳後葉焉」
群卿便被詔 以令有司取其船材爲薪 而 燒鹽 於是 得五百籠鹽 則施之周賜諸国
因令造船 是以 諸国一時貢上五百船 悉集於武庫水門
當是時 新羅調使共宿武庫 爰於新羅停 忽失火 卽 引之及于聚船而多船見焚 由是責新羅人 新羅王聞之讋然大驚 乃 貢能匠者 是猪名部等之始祖也
初枯野船爲鹽薪燒之日 有餘燼 則 奇其不燒 而 獻之 天皇異以令作琴 其音鏗鏘 而 遠聆 是時 天皇歌之曰:

[歌41]枯野を鹽に燒き其が餘琴に造り掻き弾くや由良の門の門中の海石に觸れ立つなづの木のさやさや
卅七年春二月戊午朔 遣阿知使主・都加使主於吳 令求縫工女
爰阿知使主等 渡高麗国 欲達于吳 則 至高麗 更不知道路 乞知道者於高麗
高麗王 乃 副久禮波・久禮志二人爲導者 由是得通吳 吳王 於是 與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女


要するに、歌が同じではあるものの、どちらの天皇段も正しいと見ても構わぬということ。
そう言えばすぐにおわかりになると思うが、「古事記」譚は大阪湾での巨木船伝承譚であり、国史は伊豆半島製高速船伝承譚であるに過ぎない。前者であれば、難波の⑯天皇代が似つかわしいだろうし、後者であれば母親の頃からの水軍を率いる頭領イメージが濃厚な応神天皇が伊豆に命じたというストーリーに適合する訳で。
要は、そんなことはどうでもよいことで、この歌は超有名で、船名が"からの"だった点だけははっきりしていたと云うにすぎまい。・・・はてさて、どう編纂するか悩ましいものがあろう。

太安万侶は流石超一流頭脳の持ち主であり、"枯野からの"とした。国史プロジェクト・メンバーはピカ一人材だが、真面目なだけに、この手の当て字の意味がさっぱり解らない。高速船ならかるの筈だし、海を走るのに"野"でもなかろうとの優等生的反応になる。註は、苦笑しながらの挿入だろう。

尚、櫓で長く使い込んだ部分は、長期に渡る水締めで繊維が金属的な密状態になっており、表面が焦げると中は極めて燃えにくくなる。燃え残りは"怪"現象ではない。(江戸期だが、両舷に多数の櫂を付けた、和の構造船は荒波を越える力量があり、櫂の取り付け部は頑丈で燃えにくい材である。北斎が描いている。)
「古事記」としては、そのような次元を超えており、<高木信仰⇒聖なる丸太⇒霊的な高速船⇒超能力材製琴>という倭人の信仰流れが見てとれると主張していることになる。(「今昔物語集」からすれば、よくある観念。)倭の発祥の地にそれが色濃く残っていたと記述した訳である。

国史では新羅の話が加わっているし、枯野譚の後続に、呉・高麗国の話が置かれているが、編年体の強みで、この頃に一気に様々な渡来技術が入って来たことを記載していることになる。官船の世界では、枯野の時代は終わりを告げ、新羅の造船匠が指導するようになったと指摘していることになる。

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