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■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.6] ■■■
[652]雁卵譚収載に当たっての思案
🥚百済国の遺跡は、前方後円墳であり、棺材も日本から輸入するしかない高野槇であるところから見て、倭との深い関係ができあがっていたのは間違いないが、漢籍からその状況を探ることは難しい。文化的に、倭は相当に隔たっていると見られていておかしくないからだ。
しかし、百済・新羅の王族は皇統譜上で繋がりがあり、「古事記」で取り上げることになる。📖…百済・新羅は、漢籍から見るに、日光感精産卵神話を掲げて来た国であり、遊牧民のツングース(高句麗〜女真/満州系)だから確実に男系で、女系文化が色濃く海人創成譚の倭の風土とは本来的に相容れない筈。
そんな話をしたので、半島に於ける以下の日光感精産卵神話を太安万侶がどう扱っているかを眺めておくことにした。
【「魏書」巻一百 列傳88】 高句麗者 出於夫餘 自言先祖朱蒙  朱蒙母河伯女 為夫餘王閉於室中 為日所照 引身避之 日影又逐 既而有孕 生一卵 大如五升 夫餘王棄之與犬 犬不食・・・

「古事記」序文は陰陽の創世を意味する漢文だが、これが倭祖が卵から生まれた話に繋がるとは思えない。本文になると、海面を漂う水母的イメージの創世紀記述になっており、半島の感覚とは相いれないように見える。
ところが、国史は全く違っていて、陰陽の前段は鶏卵的な状況との記載。こちらは、"小異はあるものの、大意としては、半島と倭国の創世神話の元は同じかも。"、との印象を与える書き方。
【古事記】 ≪序文[漢文] 冒頭≫
夫混元既 凝氣象未效 無名無爲 誰知其形 然 乾坤初分 二靈爲群品之祖
【古事記】 ≪本文 別天神段≫
次 國稚如浮脂 而 "久羅下くらげ那州多陀用幣琉"之時 如葦牙因萌騰之物
【国史】 ≪神代上 冒頭≫
古天地未剖 陰陽不分 渾沌如鶏子 溟A而含牙

鶏子が原初と意識されているとすれば、両書でほぼ同一とも言えそうな連続歌2首が収録されている<鴈生卵譚>の位置付けも、大きく変わって来ておかしくなかろう。
・・・国史では、半島神話の倭展開に映るように記載されるだろうが、「古事記」ではそれは欠片も感じさせない記載になる訳だ。

実は、2首が似ていると言っても、国史は2首のみだが、「古事記」は3首ある。天皇から賜った琴を奏して詠む、寿ことほ-ぎ(本岐歌)の五七七歌(片歌)が付属しているからだ。国史編纂者からすれば、この片歌が存在すると、単なる瑞祥でしかないことが歴然としてしまうので、非収録とするしかない。勿論、笑い話としての解釈など以ての外。📖鴈産卵の戯歌も収載
【古事記】 ≪⑯天皇段≫
亦 一時天皇爲將豐樂 而
幸行日女嶋之時 於其嶋鴈生卵

[歌72]たまきはる内の朝臣汝こそは世の長人そらみつ倭の国に雁卵產と聞くや📖
[歌73]高光る日の御子諾こそ問ひ給へ真こそに問ひ給へ吾こそは世の長人そらみつ倭の国に雁卵生と未だ聞かず📖
[歌74]汝が御子や遂に知らむと雁は卵産むらし📖
<此者 本岐歌之片歌也>
【国史】≪仁徳天皇≫
[歌62]たまきはる内の朝臣汝こそは世の遠人汝こそは國の長人明つ鳥倭の國に雁子產と汝は聞かすや
[歌63]やすみしし我が大君はうべなうべな我を問はすな明つ鳥倭の國に雁子產と我は聞かず

地文を見ると、大きな違いも。産卵地が異なるのである。と言っても、「記紀」読みの人であれば、地名が異なるが同一地と見なすべきとなるのだろうが。

「古事記」では行幸先は<女嶋>。普通に推定すれば、この島は、国生みの瀬戸内海西端国東の姫島だろうと。天皇は、"淡島・オノゴロ島見ゆ"と感興に浸りながら、淡路島から吉備までの島々を通って行ったのだから、その先もあろうと考えるのが自然だ。他の瀬戸内海の島々にも思い入れがある筈と考えずにはいられまい。
【古事記】 ≪国生み段≫
女嶋 亦名謂天一根 📖古事記「国生み」は意味深

ところが、国史は<女嶋>ではなく、<茨田堤>。極めて現実的な地名。
【国史】 ≪仁徳天皇≫
五十年春三月壬辰朔丙申 河內人奏言:「於茨田堤 鴈産之」

この場所は土木工事で出来上がった場所であり、よく知られていた様で「古事記」にも事績として記載されている。半島からの渡来人担当ということもあり、注目を浴びたのだろう。
【国史】 ≪仁徳天皇≫
十一年・・・又將防北河之澇 以築茨田堤・・・是歲 新羅人朝貢 則勞於是役
【古事記】 ≪⑯天皇段 冒頭箇所≫
又 役秦人 作茨田堤 及 茨田三宅 又 作丸邇池 依網池 又 掘難波之堀江 而 通海 又 掘小椅江 又 定墨江之津

ここで驚かされるのは、<茨田堤>≒<女嶋>という地名が残っていること。
つまり、「古事記」の行幸先は、瀬戸内海西端ではなく、難波津に近い<茨田堤>である可能性が一気に浮上することに。それに、編年体記録書でもある国史には、国東半島沖への行幸記録は無いのだ。
しかし、堤を建造した傍に島が存在していたと見てよいものか、疑問も感じさせる訳だが。

ともあれ、そんなことを考慮せずに素直に読んで、別の地と考えると、両書の違いがスッキリと見えてくる。・・・瀬戸内海の、淡路島辺りの島々-吉備近隣の島々-西端の島、という国生みを振り返るような行幸を暗示させる「古事記」に対し、国史は、半島との関係強化を図る行幸ということになるからだ。

国史は、単なる事績の記録ではなく、各天皇の性情と評価をも下すことにもえらく熱心だから、この様な政治的動きに対応するかの如き記述になっているのは極く自然と言えよう。
一方、歌を核とした叙事の文字記録に難しさに呻吟する太安万侶からすれば、女嶋/天一根に想いする天皇イメージなくしては、意味の薄い叙事になりかねず、3首目捨象などあり得まい。

---残存地名"姫島"---
   国東半島沖 6.79Km2…女嶋/天一根 黒曜石産地
   唐津湾近傍糸島地区 0.75Km2
   五島列島福江島の北 0.46Km2
   西淀川(現在は陸地で地名のみ)…茨田堤辺り
   三河湾田原片浜地区
   宿毛

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