→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.8] ■■■
[654]吉野小考
吉野は、秀吉が愛でた花見の地で有名で、役行者が櫻材の権現像を造ったとの開山由来譚もあって、"白山桜"の一大観光地である。それと共に、杉の経済林が広がる地でもある。「今昔物語集」から見ると、ここらは熊野に繋がる神仙的な異界が存在する地とされていたことがわかり、葛城山信仰が関係していた地なので、いかにも古代感が湧いてくる。しかし、これらはいずれも"山人の地"感覚であり、考古学的知見からすると、「古事記」の描く時代から、遥か後世の見方である可能性があろう。

宮滝(地形としては、滝ではなく激流)辺りの河岸段丘には縄文期の遺跡があり、「古事記」の初代天皇東征譚で触れられているように、鵜飼漁の地であるだけでなく、鉱山もすでに開発されており、経済基盤が整っていたと見てよさそう。これだけ見れば、隔絶された"山人の地"に映ってしまいかねないが、立派な邑が存在していたのだから、山の奥の孤立集落ではない。インターナショナルな交流もあったとの想定も確実視してかまわない。📖辰砂生産能力が覇権獲得の鍵
そして、地勢的にも交通の要衝である。
_____瀬戸海________奈良盆地
________________
吉野川←→紀伊水道←→紀ノ川←→ 吉野 ←→伊勢湾
________________
_____黒潮域________熊野灘

実際、この遺跡から、南海汽水域(砂泥干潟)に棲息する甲香へなたりが出土しており、その貝殻は土器に模様をつけるための道具であったことが判明している。この貝は、久米歌で詠まれている伊勢の海の細螺の類縁種とされていたと見て間違いなく、黒潮域の海神の宮の文化がここまで広がっていることがわかる。

小生は、東征は熊野灘でなく、紀ノ川から吉野に入ったと見ているが、熊は強力な敵対者であるが、吉野には天神御子歓待勢力が存在したと記載してあるし、人里を繋ぐ烏が迎え入れたのだから、そう考えるのが自然だからだ。南海の島嶼文化を考えると、こうした歓待は特別に驚くことではなく、遥か彼方から渡来してきた英雄王の威厳にひれ伏すのは当たり前という風土ともいえよう。

この地には、内陸産地にもかかわらず、東アジアの島嶼海人文化が引き継がれていたことになる。(何回か書いて来たが、吉野型社会とは、帝国型統率組織には全く馴染めない体質が特徴。生産力自体がフラグメントであることに対応した土着勢力の緩い連合からなる独立小国を旨とするしかない。帝王へ、絶対忠誠の"私兵"を提供することでその服属性を示し、その独立国的存在を特別に容認してもらうことになる。私兵は、武力で服属させても損得勘定から避けたくなるような勢力であることを誇示することになろう。)その様な地域に作られたのが吉野宮ということになろう。(右岸の段丘地にある宮滝遺構は、道教的雰囲気を醸している斉明、その後の天武・持統、聖武といった天皇代の重層した建造物らしい。長谷朝倉宮時代の吉野宮は、渡河が必要な左岸で、山が迫っている狭い河川敷がある地のように思える。)

と言っても、「古事記」の序文では、大海人皇子が皇位継承を自覚して吉野に。そこから、東国連合軍の組織化を果たすことで天武天皇としての地位を確立したとの、美麗に描いた漢文があり、吉野は蟬蛻≒道教的尸解仙人になった地であり、龍虎山的とも言えるとの内容だから、海人の流れを汲むと書いてある訳ではない。
ともあれ、天武天皇のこの様な事績があるため、「萬葉集」には吉野行幸歌も数多く収録されていると見てよさそう。

---「古事記」に登場する"吉野"---
≪序文[漢文] 要約段≫
~倭天皇經歷于秋津嶋 化熊出川 天劒獲於高倉 生尾遮徑 大烏導於吉野 列儛攘賊 聞歌伏仇
≪序文[漢文] 天武天皇段≫
然 天時未臻 蟬蛻於南山 人事共給 虎步於東国…南山≒吉野山
≪①天皇段≫
到吉野河之河尻時 作筌有取魚人 爾 天神御子問:「汝者誰也」 答曰:「僕者國神 名謂贄持之子<此者阿陀之鵜飼之祖>」
從其地幸行者 生尾人 自井出來 其井有光 爾 問:「汝誰也」 答曰:「僕者國神 名謂井氷鹿<此者 吉野首等祖也>」
即 入其山之 亦 遇生尾人 此人 押分巖而出來 爾 問:「汝者誰也」 答曰:「僕者國神 名謂石押分之子 今聞天神御子幸行 故參向耳<此者 吉野國巣之祖>」
自其地蹈穿越 幸宇陀 故曰宇陀之穿也

≪⑮天皇段≫
又 吉野之國主等 瞻大雀命之所佩御刀 歌曰[歌48]品陀の日の御子大雀📖
又 於吉野之白檮上 作横臼 而 於其横臼 釀大御酒 獻其大御酒之時 撃口鼓爲伎 而 歌曰[歌49]檮の生に横臼を作り📖
此歌者國主等 獻大贄之時時 恒至于今 詠之歌者也
≪㉑天皇段≫
天皇幸行吉野宮之時 吉野川之濱有童女 其形姿美麗 故 婚是童女 而 還坐於宮 後更亦幸行吉野之時 留其童女之所遇 於其處立大御呉床 而 坐其御呉床 彈御琴 令爲儛其孃子 爾 因其孃子之好儛 作御歌 其歌曰[歌96]胡坐居の神の御手もち📖

---「萬葉集」所収の"吉野"登場歌---
天武天皇[巻一#25〜27]  三吉野之 三芳野之 芳野吉見与
柿本人麻呂幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌:[巻一#36〜39]  吉野乃國之 吉野乃河之 芳野川 ー
n.a.[巻一#52]  吉野乃山者
文武天皇:大行天皇幸于吉野宮時歌[巻一#74]  見吉野乃
額田王:従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌[巻二#113]  三吉野乃
弓削皇子[巻二#119]  芳野河
弓削皇子:弓削皇子遊吉野時御歌[巻三#242〜244]  ー ー 三吉野之
土理宣令[巻三#313]  見吉野之
大伴旅人;暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌[巻三#315 316]  見吉野之芳野乃宮者 ー
釈通観[巻三#353]  見吉野之
湯原王:湯原王芳野作歌[巻三#375]  吉野尓有
柿本人麻呂:溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌[巻三#429 430]  吉野山 吉野川
笠金村:養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌[巻六#907〜912]  三芳野之蜻蛉乃宮者 三吉野乃 ー 三吉野乃 三芳野之 三吉野
車持千年[巻六#913〜916]  三芳野之 ー 三吉野川之 吉野之河乃
笠金村:神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌[巻六#920〜922]  芳野河之 三芳野乃 三吉野乃
山部赤人[巻六#923〜927]  芳野宮者 三吉野乃 ー 見吉野乃 ー
大伴旅人:帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首[巻六#960]  芳野之瀧尓
山部赤人:八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應詔作歌[巻六#1005 1006]  芳野宮者 芳野宮尓
n.a.[巻七#1103 1104 1105 1120]  三芳野之 三芳野河乎 吉野川 三芳野之
n.a.:芳野作[巻七#1130〜1134]  三芳野之 戀三芳野 ー ー 能野川
元仁[巻九#1720〜1722]  芳野之川乎 吉野川 吉野川
嶋足[巻九#1724]  吉野川
柿本人麻呂[巻九#1725]  吉野川原
n.a.[巻十#1868 2161]  吉野河之 三吉野乃
n.a.[巻十一#2837]  三吉野之
n.a.[巻十二#3065]  三吉野之
n.a.[巻十三#3230 3232 3233 3291 3293 3294]  吉野部登 三吉野乃 三芳野 三芳野之 三吉野之 吉野之高二
安倍子祖父[巻十六#3839]  吉野乃山尓
大伴家持:為幸行芳野離宮之時儲作歌[巻十八#4098〜4100]  美与之努能許乃於保美夜尓 余思努乃美夜乎 与之努河波

 (C) 2023 RandDManagement.com  →HOME