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2010年1月7日
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【古都散策方法 京都-その4】
比叡山に登る

比叡山登山の前に、少しでよいから歴史を勉強しておこう。
 前回は、西方浄土信仰という外来思考に沈潜した美の極地、鳳凰堂を眺めた。これからがいよいよ京都散歩の大本命、延暦寺である。

 延暦寺となると、たいていは根本中堂の拝観。鳳凰堂とは対極的な建築物である。実は、それこそが、素晴らしさの根源。国家安寧を目指した設計を貫いているからだ。
 ここを理解しないと、拝観しても面白くない。
  →「宗教建築の見方[続]」 (2008年12月18日)

 それなら予めガイドブックに目を通すかとなりがちだが、それはお勧めできない。この手の本は、 桂離宮をベタ褒めしたブルーノ・タウト流の解説が多いからだ。
 タウトの評論が一世風靡したのは、ゴテゴテ調の装飾的な建築設計を機能性重視に変えようという流れにのったから。それはそれで意義はあるのだが、日本文化の源流に触れたいという目的からすると、偏った見方になりかねまい。

 もったいぶった言い方だが、少し歴史を勉強してから比叡山を訪問した方が面白いというだけのこと。

 ただ、準備なしも、それはそれなりに得ることはある。小生の場合、秋の比叡山で感慨に浸ろうと根本中堂内に入ったことがあるが、余りの冷たさで足の感覚がなくなってしまった。「論湿寒貧」の世界の一部を実感させられたのである。
  →「延暦寺修行僧の食事を想って」 (2008年11月19日)

学ぶなら、比叡山の山の歴史から。
 何故、歴史を勉強することをお勧めしているかといえば、延暦寺の役割が、朧気ながらでも、見えてくるから。・・・少し勉強するだけで、日本人の信仰様式を形作ってきた宗教施設ということがわかってくる筈である。
 簡単に解説しておこう。

 先ず最初に見ておくべきは、比叡山の歴史。といっても、そんな年表があろう筈も無いから、自分の頭で考えるしかない。
 少なくとも、比叡山が平安京の鬼門と呼ばれる以前はどうだったのか、知っておく必要があろう。

■■■ 日吉大社ご祭神 ■■■ @大津■■■
【西本宮】 大己貴命[大神神社]
【東本宮】 大山咋神[比叡山]・・・“猿”
【摂社-樹下神社】 鴨玉依姫神[大山咋神妃神]
■■■ 春日大社ご祭神 ■■■ @奈良■■■
小さな社殿・拝殿無し 武甕槌命[鹿島神宮],3神・・・“鹿”
ご神体 御蓋山
■■■ 大神神社ご祭神 ■■■ @桜井■■■
無社殿・拝殿のみ 大己貴命[三輪山]・・・“蛇”
 と言うことで、右表を眺めてほしい。
 古くは、桜井の三輪山で、それが、奈良の御蓋山(三笠山)へ、さらに、京都の比叡山と山信仰を並べただけ。これだけで、なんとなく状況がわかるのでは。
 注意して欲しいのは、比叡山の拝殿が、琵琶湖に面する大津の日吉[ヒエ]大社という点。
 つまり、比叡山は「近江大津宮」 [667-672年]の山ということ。
(御蓋山は「平城京」 [710-784年]で、三輪山は「藤原京」[694-710年]やそれ以前。)
 そして、もっと大事なのは、古事記[編纂712年]に登場する山という点。
(古事記の記述は、「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し・・・」というもの。尚、近江大津宮が信仰した東の山は、琵琶湖対岸野洲の三上山だと思われる。)

 それほど由緒ある山にもかかわらず、日吉大社には、大己貴命が並存して祀られている。こちらは、三輪山の神だ。大神神社から勧請したことになる。
 つまり、比叡山は、もともとの神でなく、三輪山の神の山に変えられたのである。

 そんなことは、驚くことではない。奈良の御蓋山にしても、藤原氏の氏族神が勧請されているからだ。(もともとの土着神の名前は不明。)
 春日大社の社殿を眺めれば、神をお呼びした感覚が伝わってくる。伊勢神宮のように、社殿の柱を土に埋め込んだりせずに、土台上に乗せた造りだからだ。小振りだし、お神輿型建築様式と名付けたくなるほど。

 日吉大社の場合は、蛇神様の大己貴命を勧請したが、流石に、名門の土着神を消すことはできなかったということだろう。
 なにせ、大山咋神とは大いなる山の神という意味だし。

 もう少し解説しておこう。

 日本人は自然を愛しており、万物に霊を感じるので、八百万の神を信仰することになると、よく言われる。その通りだが、八百万の神が平和共存している訳ではない。
 多くの場合、霊は優しくはない。時として荒ぶ。そこで、これを抑えるためには、もっと力のある神をお呼びして(「勧請」)、押さえつけることになる。いわば、神v.s.神の力比べということ。

■■■今宮神社ご祭神■■■  (@京都・紫野)
【本社】 中御座
東御座
西御座
大己貴命[大神神社]
事代主命
奇稲田姫命
【摂社】 疫社 素盞鳴命
 “あぶり餅”で有名な今宮神社で考えてみようか。
 この神社、一時、疫病封じの御霊会のために、宮中の後ろ盾(朱雀大路の真北)である船岡山に移転し、又、戻ってきたという。その頃のご祭神は素盞鳴命だったとされる。
 しかし、今は、日吉大社同様、大神神社から大己貴命が勧請されていて、素盞鳴命は摂社扱い。その名称は「疫社」だ。
 そんなこともあって、社の名称が「今宮」になっているという。荒ぶる神で疫病を封じ込んだが、その神を抑え込むためには、さらに強い神をお呼びする必要があったということだろう。
 これが、日本の神の扱い方なのである。

少し考えると、最澄が日本教を作ったのではないかと思えてくる。
■■■比叡山ゆかりの僧■■■
-僧- -年代- -宗派-
【開祖】
最澄 767-822 天台宗
【加持祈祷系】
円仁 794-864 (3代座主)山門派
円珍 814-891 (5代座主)寺門派
良源(元三大師) 912-985 “厄除け大師”
【念仏系】
空也 903-972 “阿弥陀聖”
源信(恵心) 942-1017 “往生要集”
良忍 1072-1132 融通念仏宗
法然(源空) 1133-1212 浄土宗
親鸞 1173-1263 浄土真宗
真盛 1443-1495 天台真盛宗
【座禅系】
栄西 1141-1215 臨済宗
(道元) 1200-1253 曹洞宗
【唱題系】
日蓮 1222-1282 日蓮宗
■■■比叡山無修業や仏敵の僧■■■
空海 774-835 真言宗
一遍 1239-1289 時宗(踊り念仏)
蓮如 1415-1499 浄土真宗
: 大講堂に像
 最澄はこうしたことを十分に理解した上で、比叡山を仏教の拠点に選んだのだと思う。

 仏教も日本の古来からの八百万の神への信仰と違うところはなく、様々な仏があり、信仰対象も千差万別と見たのではないか。
 最澄作とされる三面大黒天像を祀る「大黒堂」、山内道中安全の「要の地蔵尊」、聖徳太子参拝記念の「椿堂」まで、様々な信仰が共存状態。秩序だった配置を考えたりしないことが歴然としている。
 どうせ、切磋琢磨されていくから、何でもアリということだろう。神仏習合というより、仏教の日本化と言った方が当たっていそうだ。
 すべての仏教が一つにまとまるという“一乗思想”を提起したとされるが、バラバラなものを研ぎ澄まされた原理で統一する思想ではなさそうである。どちらかと言えば、統一を拒否したように見える。

 見方によっては、雑炊状態を容認しただけ。だが、その混沌から新しい潮流が次々と生まれたのである。知の拠点作りに成功したのである。

 なんといっても凄いのは、ご本尊の仏像に決まりがなさそうな点。像はなんであれ、そこに仏様が宿ると考える訳だ。神の降臨という宗教観となんらかわらない。
 そして、草木や国土に至るすべてのものに仏性が宿るという思想に行き着く。すべてに霊を感じてきた古代の感覚が素直に仏教につながるようにしたと言えよう。土着の宗教観を、仏が溢れかえる曼荼羅の世界観に読み替えたとしか思えまい。
 そうなると、誰でもが悟りを開けると主張せざるを得なくなろう。エリートを出家させて、国を護るという奈良仏教と対立して当然。

 信長が、伽藍を火の海にしたのも、こうした融通無碍に映る姿勢が受け入れ難かったせいもあるかも。
 朝は唱題(釈迦如来)、夕は念仏(阿弥陀如来)といった最澄型行法は、整然たる秩序維持を狙う独裁者にとっては不快そのものでは。

 しかし、そんな流儀で僧を育てたからこそ、延暦寺が日本仏教の知の拠点となったのだと思う。
 右上の「比叡山ゆかりの僧」を見て頂けばわかるが、まさに綺羅星のように宗教指導者が並ぶ。
 この組織の象徴は、「不滅の法灯」だが、それは、新しい思想を生み出す力の象徴でもあったのだろう。
 それが現代にも生きているのか否かは、素人には知るよしもないが。

 ただ、この組織文化はそれほど意図的に作られたものではないかも。エリートの出家者が都会の大寺院で活動する平城京型を止めれば、大きな変化が生まれるのは自明かも。在家でも、大乗戒壇院で「戒」を授ければ十分ということは、現実に即した“軽い”戒律に変わることを意味する。それは、煩悩から脱することなど所詮無理と達観したということ。全身全霊を尽くして国のために祈る人を育てれば十分となった訳だ。

最澄は、できるだけ中国文化を入れようと苦心したのだと思う。
 最澄は、仏教の日本化に長けていたという話でまとめてみたが、それは、中国文化をできる限り導入したいという心根の裏返しでもある。
 ただ、朝廷は、宦官制度を取り入れようとはしなかったことに見られるように、文化的に合わないものは排除しており、国の指導層は、中国文化導入に当たっては伝統に適合するように工夫するのは当たり前と考えていたのだと思う。

 そうだとすれば、奈良の都市型仏教勢力を抑えたい朝廷が、山岳仏教の最澄を登用したとの見方は、結果論かも。

 平城京は大規模工事と活発な海外交流が続き、疾病が大流行していたようだ。これを鎮めるために、貴族を大量に出家させた筈。それは、エリートの政治からの逃避を招いただろうし、僧侶を統治機構に取りこまざるを得なくなる。混乱が発生して当然。
 これを解決するには、最澄が提唱した大乗戒壇制度しかあるまい。そして、エリート以外を僧として育てるのだから、昔から存在していた山岳修行型に移行せざるを得ない。それだけのこととも言える。

 それに、奈良仏教の実態は、華厳宗、三論宗、法相宗と僅かな密教だけ。それ以外の禅、天台、浄土も導入すべしという最澄の主張は、誰が聞いても正論だろう。

 そして、なによりも、朝廷の人々の琴線に触れたのは、「天台」という言葉だったと思う。天子(紫震星)を助けるのが、天台の本質であるということ。・・・ 「以其上慮台宿光輔紫震。故名天台。」[リンク先→ (唐)徐霊府:「天台山記」国会図書館蔵]
 完璧な中国文化だが、この思想の導入も図ったということである。
 宗章の「菊三諦章」は象徴的。(16花弁の菊花の中心に上台、中台、下台。台とは臺ではなく、 星のこと。宗章はお守り袋等でも見ることができる。)

 ひょっとすると、黄色の菊花を愛でるべしと、上奏したのは最澄かも。
 よく言われるように、万葉集(770年ごろ編纂とか)には仏教感覚はなさそうだし、様々な草花が歌われているのに、菊だけは登場しない。どころが、枕草子(996年発刊)では当たり前のようにでてくる。梅と桜に、中国文化の菊を加える動きは急速に盛り上がったことがわかる。
 と言うことは、神社における榊に対応するものとして、中国の仏前供花文化を導入したということでは。山で蓮花は難しいから、薬師如来に薬効顕著な菊という様式を打ち出したかも。最澄なら、そんなことができそうな気がする。

お勧めの歩き方は、“お気にめすまま”かな。
 さて、それでは具体的にどんな散策がお勧めかと言われても、かなり難しい。
 気になるところをお歩きになったらとか言いようがない。

−−−延暦寺の散策コース−−− (注意: 正確とは限りません.)
〜京都から比叡山へ〜〜横川へ〜
京阪 出町柳駅
   →叡山電鉄 八瀬比叡山口駅
 ↓
八瀬ケーブル
   →ロープウェイ 比叡山頂駅
 |  → [比叡山頂バス停留所]
 |  ⇔[四明ヶ嶽山頂]
 |ガーデンミュージアム比叡前
 |舗装道路[京都市街一望]
 ↓
延暦寺方面への道へ入り、道なりに進む。
 |山道と整備された道
 ↓
山王院の入口(奥比叡ドライブウェイ側)
横川バス停留所
 ↓
根本如法塔
横川中堂【聖観音菩薩】 →恵心院
 ↓
元三大師堂(四季講堂)
 |  →道元禅師得度の地
 ↓
比叡山行院
 ↓
定光院(日蓮上人修業の地)
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〜歩いて東塔へ〜〜歩いて西塔へ〜
 ↓
法華総持院
 | 阿弥陀堂【阿弥陀如来】
 | 灌頂堂
 | 東塔【胎蔵界大日如来】
 ↓
大乗戒壇院【釈迦如来】
 ↓
鐘楼
大講堂【大日如来,】→国宝殿
 |            ↓
 ↓     [延暦寺バスセンター]
大師堂
根本中堂【薬師如来[秘仏]】→前唐院
文殊楼[山門]【文殊菩薩】→蓮如堂
 ↓
萬拝堂【諸仏諸菩薩諸天善神(回峰行)
     -千手千眼観世音菩薩】
一隅を照らす会館(休憩所)
大書院、延暦寺会館
 ↓
法然堂(金勝院)
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 ↓
山王院
 ↓
浄土院【御廟】
 ↓
椿堂
 |  →親鸞聖人修業の地
 |  →[西塔バス停留所]
 ↓
荷い堂
 | 常行堂【阿弥陀如来】
 | 法華堂【普賢菩薩】
 ↓
釈迦堂(天法輪堂)【釈迦如来】
鐘楼
 |真っ直ぐ進めば居士林研修道場
 ↓
奥比叡ドライブウェイを越える。
 |
 ↓
瑠璃堂【薬師如来】
 |
 ↓
黒谷青龍寺【阿弥陀如来】
    [浄土宗の地名は元黒谷]
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〜歩いて無動寺谷へ〜
東塔バス停留所(坂本ケーブル口)
 ↓
西尊院堂
 ↓
坂本ケーブル延暦寺駅
 |
 ↓
無動寺谷(南山)
 閼伽井(井戸)
 弁財天堂建立院
 明王堂【不動明王】
 法曼院、護摩堂、鐘楼
 大乗院[親鸞上人修行の跡地]
 玉照院
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: 各宗派開祖像,他
: 僧に関係する地点
: 電 車・ケーブル・ロープウェイの駅
: 比叡山内バス停留所
 ただ、京都から、電車、ケーブル、ロープウェーを乗り継いで山に入ることをお勧めしたい。出発に当たっては、京阪出町柳駅ですぐに乗り換えず、駅の外にでて、比叡山を眺めよう。京都の鬼門を守ると意気込んだ僧の気分がわかるかも。
 それだけのことだが。

 あとは、配られる地図を見て、山を適当に歩こう。ここは街とは違うので、流石に地図無しは無理だ。右表はご参考。

 例えば、横川で見てみようか。
 恵心院とは源信が始めた念仏発祥の地。今でも、念仏三昧修行が続いていそうだ。
 「元三大師堂」は、別名四季講堂だから、議論百出の法華経勉強場ということか。ところで、元三大師は、“厄除け”で知られているが、それは魔除のお札(角大師)の発行によるところ大。そうそう、ここには、おみくじ発祥之碑もある。なにか気になることがある方には、お勧めの参拝場所かも。
 ただ、御神籤といっても、観光産業ではないことを心してかかる必要がある。おみくじとは、引いた結果をもとにして、僧から決断のアドバイスを受けるものなのだから。

 だが、そんな雰囲気のなかで、「正法眼蔵」の道元が学んだのである。小生は「一知半解」で終わったから、訪れる資格はなさそうだが。
 さらに驚かされるのは、法華経一筋の日蓮も、ここで修行したという点。
 横川とは、新時代を拓く僧を生み出す学問場だったのだ。そんな雰囲気に触れるには最適の地である。

 密教の雰囲気を感じとりたいなら、多宝塔を眺めるのはどうか。信仰対象としての仏舎利に立てた柱から始まった「塔」だが、次第に伽藍に聳え立つ装飾的な意味あいになり、それが密教では聳え立つ必然性も失ってしまう。塔といっても2層でしかない。
 新しい建物の横川如法堂か、法華総持院東塔を選ぶとよい。ただ、後者のフォルムは多宝塔的ではないが。
 それよりは根本中堂の構造を眺める方が本質に迫れるかも。伝統だった金堂が消え、在家信者が入れる拝殿と金堂が合体してしまった様子がよくわかる。

 建物より、修行そのものが気になる方なら、念仏三昧のお堂ではなく、千日回峰行で有名な無動寺谷の明王堂(不動明王)を訪れて、相應和尚石像を眺めるのもよいかも。
 あるいは、浄土院(御廟)辺りを歩いて、昼夜を分かたず伝教大師に仕える山籠り修行に励む姿をイメージしてみるのもよさげ。又、常行堂内で歩き続ける常行三昧や、法華堂内での座禅の常坐三昧を想像するのもありか。
 どれもこれも常人にはできかねる荒行である。

 このお寺は、お寺の建造物を眺めることで、それにまつわる凄まじい修行を想起することに意味があるのかも。

 そんな修行は、山の自然のただなかでこそと言われている。ところが、じっくり森林を見ると、自然林ではなく、手がかかったもの。修行で立派な僧をつくるために考え抜かれて作られた施設ということか。
 そんなところも感じとると面白いのではないか。

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