トップ頁へ>>> YOKOSO! JAPAN

2010年1月8日
「観光業を考える」の目次へ>>>
 


【古都散策方法 京都-その5】
四条通東端を訪れる

京都の“花”を感じてみよう。
 4回にわたって、京都の散策についてのご提案をしてきたが、どのような構成になっているかお分かりになっただろうか。

 右の概念図で場所を眺めれば、話の流れが見えてくるかも。
  (1) 「狸谷山から京の街を眺める」
  (2) 「哲学の道・吉田山・黒谷を歩く」
  (3) 「平等院の浄土庭園に浸る」
  (4) 「比叡山に登る」

 最初は、山に囲まれた水が豊富な京の街全体像を眺めた。都造りの出発点を想像した訳である。
 そして、開発が進んでいるとはいえ、まだまだ 静かな「一乗寺」辺りの感触を味わった。「詩仙堂」的な感覚で、知的な日常生活の一部としての散歩を楽しんだということ。図では“”の地帯。
 おそらく、こうした“住”感覚の発祥地は、今出川通東端の「銀閣寺」。このお寺にシュール感があって当然である。頭の遊びを好む層が集まる場所なのだから。
 地域が開発されて騒がしくなると、“住”地域は北へ移っていく。

 次の、「哲学の道」とは、「銀閣寺」から南の山沿いの疎水道。ここは「狸谷山」辺りから、伏見稲荷までずっと続く東山沿いの宗教”施設群の一部。
 面白いのは、そこに統一性がないこと。様々な“宗教”が、バラバラに存在するのである。吉田山や黒谷を歩けばそれを実感できる筈。宗教博覧会状態。

 しかし、実は、それこそが日本の特徴そのもの。バラバラに見えるが、実はたいした違いはないという思想が底に流れているのだと思う。その原点が、“”山にある。延暦寺を歩くことで、それをつかもうということ。

 そうくれば、次は「南禅寺」の南側かなと考えるのが普通。まあその通りだが、北から南へ順次眺めようという訳ではない。
 従って、その前に、「鳳凰堂」を見ておく必要がある。これは必須なのである。
 と言うのは、その地は気分転換を図る“別荘”地帯だから。都人であっても、余裕がある人は別な精神生活も追及したのである。“別荘”なら、紫野でもよいのだが、「鳳凰堂」の尖り方は尋常ではないからこちらを選んだということ。

 と言うことで、四条通の東端辺りの散策話になる。 ここの見所は“”。当たり前だが、植物の話ではなく歓楽の方。
 ここは北側とは違い、大衆文化が溢れかえる地。それを牽引したのは、四条東端の八坂神社。その雰囲気に触れてみようということ。
 “住”、“宗教”、“別荘”、“叡”の次は、“花”なのである。

先ずは、祇園祭を考えながら、八坂神社にお参り。
 さて、そういうことで四条通東端へ。突き当たりは、もちろん八坂神社。神社は南面なので、ここは正面ではなく、単なる西側の楼門だが、ここが一番よい。内に入れば、開けた感じの神社なので、どうも神社気分がでない。

 それは、名前がしっくりこないせいもありそうだ。やはり、「祇園社」と呼びたい。・・・言うまでもないが、山鉾巡行で知られる、京の町衆の夏祭り「祇園祭」の“神社”だからである。

 だが、古い神社にもかかわらず、その神は土着ではなく、渡来神の「牛頭天王」。牛ということは、印度発祥。
(ただ、八坂神社のご祭神は須佐男之神。習合させているのだ。馬を生贄のごとく扱った荒ぶ神だからか。もっとも、「テンノウ[天王]」という呼称に対応できそうなのはスサノウだけだが。素人的に言えば、疾病関係だから、一番合うのは薬師如来だが、廃仏の波に洗われたから、それは無理だったろう。)

 耳慣れない神だが、篤く祀った気持ちはよくわかる。
 大流行した死病の痘瘡(天然痘)は、海外からやってきたと知っていたに違いない。しかもこの病気は、牛痘(牛の世話をすると発症)そっくりだ。牛の霊の祟りと考えるのは当たり前。従って、「牛頭天王」をお祀りするのは極く自然な行為なと言える。

〜代表的な京都の御霊信仰の場〜
-御霊(怨霊)- -神社-
菅原道真公 北野天満宮
菅大臣神社
寛算石
数十の天満宮
早良親王 崇道神社
伊予親王 上桂御霊神社
橘逸勢公 下桂御霊神社
惟喬親王 小野御霊神社
崇徳天皇
淳仁天皇
白峯神社
(8柱) 上御霊神社
下御霊神社
 牛と言えば、菅原道真公を思い出すではないか。
 怨霊をお祀りするのは、京都の絶えることなき伝統なのだ。祟りを与える霊でも、お祓いを怠らなければ、ご利益を頂戴できるという思想は今でも健在である。
(話はとぶが、技術や文化をもたらす、新しい神や仏をお呼びするのは大歓迎だが、疾病はこまるということで、遣唐使廃止へと進んだのかも。)

 従って、「祇園」という名称も、“氏+祀+園”という普通名詞ではなく、固有名詞の印度の「祇園精舎」から来た言葉に違いない。「祇園精舎」の荒ぶ神が厄病を持ってきたから鎮めてもらわねばという気持ちが高まったというにすぎまい。問題が深刻なだけに、一大信仰が生まれたのだろう。
 特に、「牛頭天王」が、お世話になった一族だけは救ったという話は人々の琴線に触れたに違いない。そこで、「蘇民将来之子孫也」を示す護符と、茅をお守りにとなったのだろう。
(祇園祭のチマキは、神と共に食べる粽ではない。本来は笹ではなく、茅を巻いただけのものの筈だ。)

 いかにも日本的。経典を嫌うが、逸話を好む。そしてピンとくれば、たとえ馴染みのない海外の神だろうが、日本化して取り入れるのだ。クリスマスがお祭りとして定着したのと同じようなものでは。
 「牛頭天王」は、ひょっとすると経典仏教の伝来より古く、スサノウ神の時代の信仰対象だった可能性もあるのではないか。と言うのは、飛鳥の都では、蘇や醍醐といった牛乳製品が流通していたらしいし、邪気(風邪)を払うため、貴重な牛の胆石(牛黄)も用いられていたと思われるからだ。“牛神”信仰があっておかしくないのである。
 それが、痘瘡大流行で、突如、復活してきたということかも知れぬ。

 ちなみに、東京では「牛頭天王」という言葉はほとんど流布していない。ただ、天王洲アイルとしてテンノウの地名は残っている。おそらく、品川神社や荏原神社の夏祭りのご祭神だろう。
 それよりは、知る人ぞ知る、奥武蔵ハイキングコースで入り込むことがある「竹寺」の方がわかり易いか。雨のなか山道を歩いていたら、このお寺の料理を食べに行く人の車に乗せてもらったことがあるが、墓地は無いのだとか。護符は蘇民将来で、もちろん茅の輪がある。

 話が拡散してしまったが、早い話、祇園祭り感覚で祇園社を歩こうということ。しかし、実際にはそれは無理かも。山鉾館とは、シャッターが閉まっているガレージにすぎないからだ。
 そうそう、忘れてならないのは、摂社の「疫神社」。蘇民将来が祀られているとのことだから、気にならない人は参拝していこう。西門から入ればすぐ。夏越祓では、ここに茅の輪を作るのだろうか。

清水寺から青蓮院までの一大観光地にも立ち寄ろう。
 荒ぶる神、「牛頭天王」の 話ばかりしていると、それが“花”とどうかかわるかと言われそうだ。
 まあ、ここが面白いところ。四条通りの末端に祇園社があるから、この通りは参道とも言える。(西端は松尾大社である。)
 当然ながら、参拝者相手のビジネスが繁栄する訳だ。おそらくは江戸の成熟した社会で最高潮に達したと思われるが、ここは一大歓楽街と化したのである。
 冒頭の地図で示したが、さらに鴨川をわたり都側に入れば、そこは商業区域。さらに堀川まで行けば、染物業者が集まってくる訳で、堀川の上流は織物業の西陣となる。
 なかなかの都市計画。

 それはともかく、祇園社の辺りは、一般大衆が集まってくる地域と化した訳だ。

 ここで、もう少し、細かく、この地域を眺めてみようか。“花”ということでは、花街(祇園甲/乙、宮川町、先斗町)が健在だし、1603年発祥とされる四条河原の阿国歌舞伎も南座に受け継がれている。
 観光客としては、目的もなくお茶屋遊びでもなかろうし、歌舞伎の切符がとれる訳でもないから、歌舞練場で“都をどり”鑑賞というのがお勧めとなろう。

 ただ、祇園の町並みだけでは、観光にならないというのが、この地域の主張である。
 まあ、確かにその通り。
 日本の仏教中心地に対しての形容詞としては失礼千万だが、寺社参拝に関しても、この辺りはメッカに仕上げたのである。清水寺など、いつ行っても人出。
 これは自然にそうなった訳ではなく、お寺と商店街の努力の賜物。だいたい、拝観が朝6時から夕6時までの観光施設など聞いたことがなかろう。しかも、季節がよいと、受付終了は夜9時。それがお寺と聞かされれば仰天。
  →「清水寺から学ぶ」 (2005年6月16日)

 今や、清水寺周辺の道だけでなく、青蓮院までの、小路すべてを一大観光地にすべく動き始めているように見える。
 流石、京都。

 清水寺に行ったことのない人は稀だと想うが、敬意を払って、拝観するしかなかろう。
 もちろん、その後で、観光客の一員として小路を歩くことになる。

ここは宗教の競争の地でもあることを忘れずに。
 さて、その小路だが、どの案内パンフレットに記載されており、わかりにくいこともないのだが、思わず地図を見入ってしまう。
 東大路通から、清水寺に行く時は、五条坂か清水道を登ることになる。五条坂だと途中から脇道もあり、それが茶碗坂。まあ、好き好き。
 当たり前だが、名称からして、「清水道」が正式な参道だ。だが、それを五条側に無理矢理に変えようとした権力者がいたから、こうなったのだと思われる。その強引さは特筆もの。
 実は、“五条側に道を作った”というのは間違い。“新しく五条を作った”のである。それに合わせて新しく参道ができただけのこと。つまり、弁慶の五条大橋とは、上流側の橋なのである。

 それが誰の仕業かは、清水道から、北に行けばわかってくる。産寧坂、二年坂、と進まば、そこは高台寺前のねねの道。
 何故こんなところにと感じる筈。そして地図を見ると状況がわかってくる。
 清水寺などお参りせずに、先ずは方廣寺の大仏にと目論んだ為政者がいたのである。そのために、正面に繋がる専用道路まで作ったし、南北の道路も特別仕様。観光客にとっては、なんだかねといった感じ。

 一方、そんなところよりは、高台寺を大切と考えた為政者もいたということ。
 そうそう、七条通の突き当たりにある智積院がどんなお寺か見ておくのもよいかも。五条通を変更させた権力者に最後まで抵抗して潰された紀州根来山の勢力が復活を許されたお寺である。東京では余り馴染みがないが、京都における、川崎大師・成田山・高尾山といったところか。

 これでおわかりだと想うが、この地域は、一般の人々を取り込むべく、宗教が競争する場だったということ。
 浄土宗・浄土真宗はここら辺りで力をつけただろうし、栄西禅師が源氏の後押しで京にお寺を開くことに成功したのもここだ。そして、空也上人の活動拠点も存在する。鴨川の河川敷では、踊り念仏だったろうか。

 それを理解した上で、上記の地図を眺めれば、そのトンデモなさには言葉を失う。
 禅寺のお隣は花街。今は、馬券売り場までご近所に。
 都をあげて行う、怨霊封じの祈祷の場である宗教施設のすぐお隣には、美しい浄土庭園が維持されている。
 そして、崖にへばりつく密教寺院に、毎日大勢の観光客が拝みに訪れる。狭い観光小路は大混雑。お客さんと呼ぶのはどうかとは思うが、このお寺さんが京都一の集客力を発揮しているのは間違いない。
 宗教を花に喩えるのは不遜かも知れぬが、これぞまさしく百花繚乱。この地域の散策の目玉は、“花”の鑑賞なのである。

<<< 前回  次回 >>>


 「観光業を考える」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2010 RandDManagement.com