表紙 目次 | 2014.6.3 中国の料理文化圏中国の4大菜の一つとされる四川料理の話をした。 [→] 天邪鬼にも、料理圏として考えるなら、四川は力不足との要旨。 花椒の「痺れる感」重視はユニークだが、それで官能を麻痺させて大辛を食べようというのだから、そうそう広がりを見せるものでもなかろう。 一方、唐辛子ベースの「辣」での洗練度を眺めると、唐辛子自体の旨みを理解している湖南や貴州が上手と言わざるを得まい。これらを、四川料理類と見なすのは間違っていると思う。 要するに、大衆料理としてよく知られている料理が多いので、4大菜に選ばれているにすぎまい。 それならそれでもよいが、歴史が浅すぎる。 と言うことで、中国の4大料理として、「辣」の食文化圏を設定したいなら、小生は、四川でなく雲南料理を推したい。3大菜よりは影響力は小さいとはいえ、それだけの価値がある食文化と見る。 従って、4大料理圏はこうなる。 (1)<北方民族料理圏> [→] 北京(京)料理 (2)<江南料理圏> [→] 上海(滬)料理 (3)<亜熱帯モンスーン料理圏> [→] [→] [→] 香港(港)料理 (4)<雲貴高原料理圏> 雲南(少数民族)料理 山東(魯)料理と四川(川)料理は選外とする。 ざっと、この4つを眺めると、いかにも風変りな選定に映るかも。しかし、少しお考え頂ければその裏にある論理が見えてこよう。・・・ (1 北方民族料理圏)は、陸のシルクロードを介して互いに影響を与えながら広がった食文化を指す。 現代、それを一番感じさせる菜単が残っているのは北京では。ただ北方民族から見れば、その地名は南京になるが。ともあれ、広大な帝国を治めるには北京が要石だった訳である。 底流はあくまでも、北方民族食文化である。そもそも、チャイナドレスと称する衣類にしても、誰が見ても、それは満州服なのだから当然だろう。食文化の土台だけが漢民族な訳がないのである。認めたくないだろうが。 (2 江南料理圏)は、揚子江下流の水郷地帯。 長江をさかのぼれば重慶で、そのすぐ先が四川の成都だ。中華帝国のほぼ中央を流れる揚子江を介した東西交通の起点は江南なのである。さらに、杭州から北京まで、運河と河川でつなぐ南北交通の起点でもある。 漢民族料理の魅力的に映る部分をあちらこちらから集めてきて、流行に仕立ててきた場所と考えて間違いなかろう。 (3 亜熱帯モンスーン料理圏)は、中国の南大門。海のシルクロードの出発点であり、華僑を送り出した一大基地である。 沿岸地域である上に、亜熱帯モンスーン気候だから、食材豊富とくる。北側から見れば垂涎の食文化だったろう。 (4 雲貴高原料理圏)は、東南アジア・南アジアとの文化交流の地。(ベトナム・タイ・ビルマ経由インド・チベット)そのため、非漢民族(少数民族)の様々な食文化が入り乱れている。従って、雲南料理と言う名称がついているものの、それが何を指すかは人によって異なる。 しかし、全般的に見れば、この土地だからこその特殊な素材だらけだと、誰もが認める。それは他地域から見れば、薬の産地ということでもある。仙人の食材イメージが被さっていると見てもよいだろう。言い方を替えれば、漢民族の儒教発想の医食同源発想の薬膳の流れを支えたのは雲貴高原となろうか。もっとも、南の仙人発想だと食味養生ということになるが。 有名な熟語をご存知なら、漢民族から垂涎の眼で見つめられていた地であることは自明である。まあ、煙草のみも、この地なしには生きてはいけないから、中華帝国の急所的存在かも。 「人口衆多、地大物博。」 中国は広大な国土があり、資源豊富な強大国で、人口が膨大であり、美国など張り子の虎でしかないと教え込むのが毛沢東の方針だった。雲貴高原なかりせば入手が難しいものは少なくないから、ここはなんとしても漢民族の支配下におかねばならない訳である。しかしながら、そこは山がちで、簡単に入植できる土地ではない。それでも、人口圧がかかっているから、漢民族は進出するしかないのである。 こうした漢民族はもちろんのこと、他民族と、世界観を共有することはほとんど考えられない。そんなバラバラの地が雲南なのだ。 後述するが、ここで忘れてならないのは、中国では、この地域だけが、米の古代的食形態を留めているという点。言うまでもないが、粘るタイプのご飯愛好文化一色の話。(流石に寒冷高地だけは稲作は無理だが。)しかも、陸稲でも。 ということで、<雲貴高原料理圏>の代表たる【雲南(少数民族)料理】についてまとめておこう。 と言っても、この地をひとまとめに語るのは難しい。 実態のほどは定かではないが、雲南省には25の少数民族が公認されていて、うち16は省内だけの存在。 地勢的にも、その変化はただなるものがある。山がちとはいえ、紅河(ベトナムへ)の国境沿いは僅かの海抜78m。一方で、シャングリアで思いださせる高山(梅里雪山)は6,740mもある。当然ながら、山奥は超寒冷地だ。その一方で、西双版納(シーサンパンナ)は象や類人猿(テナガザル系で猿ではない。)が棲息する熱帯雨林域となる。 ただ、この両極端を除くと、高低差はあるとはいえ、比較的似た環境にあると考えることも可能である。それは、西側の高山帯を源流とする川が深い峡谷をつくっている地域だからでもある。この川沿いに狭い平地というか小盆地がところどころにできるし、山中にも小さな窪地がそこかしこに生まれている。そこらがどうやら人が住める場所なのである。例外は、四川盆地を小規模にしたような、昆明と大理。ここだけは都市化しやすい地だ。 従って、四川から屯田兵が大挙して進出した訳である。ソリャ、四川料理らしきものだらけになって当然だ。しかし、農耕地開発余地は限られており、他地域とは違い混血による漢民族化は一向に進まなかったようだ。宗教上の風習の違いの壁が高すぎて、それをのりこえられなかったとも言えるが、もともと、非支配者化を嫌ってこの地に移り住んだ人達だからそうなって当たり前。毛沢東はその辺りの状況をしっかりと把握していたようで、舞踏と衣装を「民族自決」の証として喧伝することに熱心だった。それと同時に、漢語化と豚/米/豆/キャベツ食化を一気に進めることで文化統一を図った訳である。 こうした政治潮流もさることながら、なんといっても、地形の影響がとてつもなく大きい。 船での交通ができないほどの川だらけであり、その両岸は切り立つ崖が多い。周囲は深い山だらけとくる。気候的には熱帯域に近いので、動植物は多種多様性を示すことになる。そこでこの地形とくれば、ガラパゴス的に進化しておかしくない。ここは世界でも稀な品種の王国と言ってよかろう。 それは動植物だけでなく、部族にも当てはまるのかも知れぬ。 しかし、トンデモ僻地だからといって、疾病リスクを除けば、決して住環境が悪い訳ではない。山がちの地形における小さな盆地状の平地に住むことになるからだ。夏場、高温に晒されることはないし、冬となれば、緯度が低い上に川に沿って南からの暖気流が入ってくるから寒くはならない。常春型である。従って、人口圧さえなければ、自給自足は、それほど難しくなさそう。もっとも、金銭的収入という指標では、とてつもない貧困状況に当たる訳だが。 そして、もう一つ注目しておくべきは、辺鄙なのは確かだが、決して孤立した地域ではないという点。これがなにより重要。 言語族的分布を見ても、周囲との文化的連続性が見て取れる。頻繁な交流がずっと続いていた訳ではないが、連関は途切れがなかったと見てよさそう。 具体的にそれを見てみよう。 雲南での川は交通を分断する厄介なものだが、以下の流れを見ればココが文化流通の回廊というか十字路であることが一目瞭然である。 <三江併流>・・・チベットから流入 (ビルマ側)イラワジ川 怒江→サルウィン川(ビルマ) 瀾滄江→メコン川 金沙江→長江 <長江支流> 雅礱江 (四川側)大渡川 <源流> 馬雄山:北盤江―↓ 烏雄山:南盤江→西江→珠江 与巍山:紅河→ソンホイ川(ベトナム) 書きかえれば、こうなる。 【北】四川 【東北〜東】貴州、広西(→広東) 【東南】ベトナム 【南】ラオス 【西南〜西】ミャンマー(→インド圏) 【西北】チベット 人民中国の独裁者にとっては、大いに気になる国境だが、部族は両側に跨って存在していた訳で状況次第でどちらにでも移るという時代が長く続いていたということだろう。アフガニスタンもそうだが、各部族に国家観があろう筈がないのだから。 俯瞰的に民族分布を眺めると、北側には、古代の漢族系あるいは、それに押し出された部族が多そう。 一方、南は当然ながら、-クメール系主流。東南アジア諸国の山岳部族の中国版である。どちらが本流ということもなさそうである。 ミャンマーからインドへ繋がる流れも見てとれる。コ宏傣族景颇族自治州の、景颇族はインド-アッサム州やミャンマー-カチン州の部族と言語が共通なのだから。 タイ族[傣]は一寸毛色が違うようで、華南から押し出されて、ここら辺りを経て、ラオスからタイへと入った模様。 3本の国際河川は源流がチベットであるから、雲南での上流域は当然ながらチベット系部族だらけ。 このような状況を見ると、雲南の地政学的な位置付けが見えてこよう。海のシルクロードどころか、北の陸のシルクロードよりずっと古い絹の道が雲南を走っていたのは間違いなさそうである。そして大陸の為政者によって引き起こされた何度とない混沌。 その結果、食文化の坩堝状態というか、雑炊的混交が生まれたと見てよかろう。一見、バラバラの多種多様な食文化が並立して存在しているだけに映るが、その実、見えない糸ですべてがつながっているということ。 なかでも、前述したように、文化の共通性がはっきりと見えるのが、米に対する姿勢。 稲作が気候的に無理な地に住む民族を除けば、雲南の人々は原則的に米食である。北方民族が好む餃子はほとんど食べないと見てよかろう。わざわざそんな手のかかる小麦モノを食べてどうするといったところか。(雲南スイーツは小麦ベースだったりするから小麦が入っていない訳でもない。) 山地だらけだから、各地の僅かな耕作地での稲作が行われていることになろうが、好まれるのは糯性の米。たとえ収量的に優位性がなくとも、コレに限るということのようだ。しかも、陸稲だろうが、水稲だろうが関係なし。粘りなきお米はこの地では嫌われるのだ。中国では主流の、ネバ感を除去するような炊飯方法はとらないことになる。 そんなこともあって、雲南を日本の食文化の原点と見なす説が横行するのだろうが、小生はその説は信用しかねる。揚子江下流の古代遺跡でジャポニカ種が出土した点からみて、大陸では糯性も好まれていた可能性が高いと考えるしかないからだ。その古代の好みが雲南に残ったままということだろう。つまり、北方食文化の流入で粳食に転換したということ。これはよくわかる。 そう思うのは、脂がきつい部位や内臓煮込みが中心の食事だと、ネバるご飯より、サラリとしたご飯の方が合うからだ。ネバつく米や、糯米で炒飯を作る気にならないから、これは自明では。 糯性の米は敬遠されただけでなく、炊き方もネバ成分が含まれる湯を捨てる方式になったと考えるべきだろう。 ただ、肉を多食しない地域だと、ご飯を発酵調味料だけで食べたりする。それより豊かな食卓といっても、脂分を欠く野菜料理だらけになったりする訳で、その場合はパラパラご飯だとえらくつらかろう。それだけのことでは。 なにせ、インディカ米食の人達も、餅そのものは美味しいと感じるらしい。糯性の食感が嫌いな訳ではないと思われる。 要するに、雲南は、一番古い米食文化をそのまま残しているにすぎまい。実際、米の種類は豊富。日本では、それらは紛れも無き古代米品種であり、ほんの僅かを趣味的に復活させている状況。ところが、雲南ではバリバリの現役とくる。ここまでの拘りには恐れ入る。 雲南は地域の環境が、あまりにバラバラだから、品種改良のインセンティブがさっぱり働かなかったのだと思われる。最初から最北端栽培への挑戦だったに違いない日本の状況とはまるっきり違う訳である。 と言うことで、米料理も華やかだし、それが観光業のウリになっている。 【米の生麺や春巻】 過橋米線 スープ・麺・具が別 蒙自[ベトナム門的地域]が発祥 小鍋米線 鍋焼きタイプ 涼米線 冷やしタイプ 紹子米線 越南小巻粉 ベトナム系米粉豚春巻 【米加工品】 禄豊香酢 もち米 甜白酒 米の甘酒 【独自的食材】 茸類 薬草類 [苦疏菜]苦瓜,炒苦菜,苦良包,龍爪菜[ワラビ],黄花菜 [虫]ヤゴ,竹虫,蜂の子 【茶】 [黒茶系]普洱茶,沱茶 [緑茶-毛峰系]摩崖銀毫茶 [塩系]チベット碾茶(バター茶),烤塩茶 もちろん、他地域からの文化受け入れも吝かではない人達も存在する。 【火鍋】・・・重慶的長時間スチーム料理 気鍋鶏 菌子火鍋 【名物ハム】・・・高度な料理には不可欠 雲南火腿 【唐辛子】 湖南系だと思う。(除:四川からの進攻漢族) 【北方食文化】 蒙古烤鴨 @玉渓-興蒙 乳扇[チーズ] @大理 北方民族料理までもが残っているのは、部族棲み分けという微妙なパワーバランス感覚ができあがっているからだろう。言うまでもないが、豚肉禁忌の回教系北方部族もそこかしこにバラけて存在している。南からではなく、北からはるばるここまで来訪したようだ。 当然ながら、門戸開放後に英仏の宗教も入っており、菓子にはその影響が見てとれる。 こうして見ていけば、4大料理として推挙したくならざるを得ないのである。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 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