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■ 孤島国JAPAN ■ 2009.10.1 |
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和食の不可思議さ…〜 スシ・テンプラ・スキヤキを代表的な和食とは呼べまい。 〜スシは海外で大人気。これぞ“Japanese Cuisine”とされ、今や、都会ならどこにでもスシレストランがあるらしい。もっとも、その料理は鮨とは違うようだが。 →[参考] 「SUSHI料理を試してみる」(2009.9.2) だが、寿司は日本の代表的な食べ物と言えるものかな。 “握り”は、江戸町民のファーストフード文化として生まれた新しいもの。現代に入って、出前が風靡したが、家庭で普段食べる料理ではなかった。歓待を示すために、寿司か鰻重というのが基本パターンだったのである。 もちろん主流は出前ではなく、理不尽なほど高価格なカウンターサービス料理とされていた。それが、低温流通でネタが安価となり、コンビニ弁当にまで進出したという代物。 この手の料理が和食の代表とは思えまい。 それなら、テンプラかネ。こちらは、スシとは違い、現代日本の家庭料理であるのは間違いないが。 だが、良く似た料理は世界中にある。その違いも、僅か。“Fritter”は衣がフワフワだが、“天麩羅”はパリパリという程度では。あとは、せいぜいが、胡麻油を使って風味をつける位だろうが、それが日本での標準とも言えまい。 だいたい、コレ、正直言って、胡散臭い料理だ。もともとは、野菜を揚げた精進料理だったのと思われる。それを、魚介に拡張したくなり、言葉をポルトガル語にして、違う料理と解釈し直したのでは。もっとも、こんな方策は、日本の十八番的対応ではある。肉マンを、儀式に使うため、小豆餡饅頭化したのと逆を行ったにすぎない。 スキヤキに至っては、なにをかいわんや。どこに伝統があるのかさっぱりわからぬ。 ただ、致しかたない点はある。米国市場で日本の企業戦士として苦闘していたビジネスマンは、“醤油とご飯”を渇望したに違いないからだ。手っ取り早く行き着く料理といえば、牛鍋。それを見ていた人達が、スキヤキを和食と考えるのは当然。だからこそ、SUKIYAKI songが登場したのだろう。 〜 ラーメンはそんな食より余程日本的だ。 〜 それでは、日本で、皆が一応に好む食とはなにか。外食で見ると、圧倒的にラーメンではないか。どんなところだろうが、看板が掲げられているし、古代を売り物にする観光地にまでのぼり旗が乱立するのだから、まさに異様としか言いようがない。 だが、ラーメンは、名称は中華料理臭いが、“沖縄ソバ”同様、見かけは似ていても、中国で食べられている麺料理とはかなり違う。基本は、“中華風”外食細麺の汁丼料理ということかな。 →[参考] 「脱サラ ラーメン店の話」 (2003.2.16) このラーメン好き体質が、即席ラーメンを生み出し、世界を席巻しているのだから面白いものだ。これぞ和食の極意とも言えそうだが、ラーメンを和食と呼びたくはなかろう。 どうしてラーメンにこだわるかといえば、それは中国本土での食を味わった人が大勢いたからだと思う。多分、味付けは合わなかったが、それなりに食べたのである。中国の家庭食が持ち込まれたということ。 しかし、そのまま持ち込むことはないのだ。必ず、改良してしまう。当然ながら、ラーメンだけで留まらない。餃子や炒飯など、ラーメン以上の熱意を感じる。 最近は、棒形の焼餃子を出す中国風の店があるが、焼くとしたら、そんなもの。だが、それは中国餃子の主流ではなかろう。基本は水餃子だからだ。日本の餃子を中国で探してもなかなか見つかるまい。 →[参考] 「餃子モドキで紹興酒を楽しむ」 (2008.7.9) しかし、圧巻は、なんと言っても、炒飯である。どういう訳か知らぬが、コース料理の最後に登場してくる。小生は食べられなくなることが多いが、たいていの人は喜んで腹に入れる。ご飯でしめるのが流儀なのだろう。 こんなことは、中国では有り得まい。そもそも、中国人が、本格的な料理店で炒飯を注文するものか、疑問が湧く。常識で考えれば分かるが、こんな料理は、惣菜の余りものと、冷えたご飯を使った、適当なものにきまっている。おそらく、そんな食べ物に馴らされて、中国から帰国したに違いない。だが、日本で、そんな手抜き料理などもっての他となる。徹底的に、炒飯の美味しさを追求したに違いない。 おわかりかと思うが、スキヤキと、ラーメン・餃子・チャーハンは本質的にたいして変わらない。スキヤキが日本料理なら、こちらもそう呼ぶべきものだ。 〜 国民食のカレーライスが現代の家庭版和食と言えそうだ。 〜 ラーメンをあげたら、カレーライスをあげない訳にはいくまい。これは何かといわれると、結構説明が難しい。“印度風”複合香辛料で野菜を煮込んでトロミをつけた、かけご飯料理といったところか。 ともかく、これは歴史が浅い食べ物。しかも、ビジネスマンが工夫して作ったものである。 優れたアイデアの「食」と見なせば、一世風靡というのが日本の特徴と言えそうだ。もっとも、日本人嫌いは、付和雷同の輩のすることには、とてもついていけぬとなろう。 →[参考] 「カレー記念日に想う」 (2004.6.2) まあ、確かに、尋常ではないところもある。100倍の辛さをウリにしたカレーが喜ばれたりするのだから。 辛味を効かせれば、薄味の旨みが感じなくなる訳で、和風とは逆の流れだが、韓国型料理が好きな人の割合が増えたということか。そのうち、冷静になり、飽きてくると見ているが。 と言うのは、日本では、もともと、食材や香辛料のバラエティと質の良さを愉しむ習慣が根強いからだ。 韓国型は、これとは逆だと思われる。朝鮮半島北部は土地が肥えていたから、同じような文化が育ってもおかしくないが、ココは漢族や北方民族の苛烈 な支配が続いた。その状態で、独特な食文化が持続できたとは思えない。おそらく、漢族が好む薬膳につかえそうな食材が残っているだけだろう。 一方、南部は痩せた土地で、照葉樹林もほんの一部だ。しかも、そこで内部分裂状態ばかり。しかも、覇権を握ると、徹底的伝統破壊を行なう。 どうみても、南部が繁栄できのは、中華帝国と、豊かな緑の島国との間で、上手く立ち回れた僅かな時期だけ。 そんな状態で、豊かな食文化が育まれるとは思えない。特徴からいえば、偏狭な独自性主張と言えるかも。それこそ他山の石である。 話が脱線したが、新鮮な多種の野菜を豊富に使える嬉しさが、日本流カレーだと思う。豆のみとか、ホウレンソウだけのものは、エスニックとなろう。 ただ、日本流とはいえ、スプーンで食べるしかないから、これを日本食とは呼びたい人はいない。 〜 箸で食べることもできる洋食はまぎれもなき日本食だ。 〜 国民食という概念が妥当かはわからぬが、ラーメン、カレー並に当たり前のように食べるものがある。それは、洋食。和食ではないが、食卓にしばしば登場する。 本格的洋食屋だと、お値段もはるが、定食屋だと廉価だし、社員食堂なら補助もあるから超安価。お馴染みランチメニューといえよう。 “洋”と呼ぶから、安直な物真似料理と見なしがちだが、どうしてどうして、かなりのモノなのである。 例えば、ハンバーグ。これが又、色々と種類があるのだ。一番わかり易いのが「和風」と称する、大根おろし付き。洋食屋になると、これまた独自のソースがかかって出てくる。一体これはなんなのかと疑問を呈する人はいない。 欧米の料理はこうした点では、極めて雑と言わざるを得ない。つけあわせのチョイスはあるが、ほぼ決まったパターンだ。基本を変えるのには抵抗感があるのだろう。日本と違って、結構保守的なのである。 もっと面白いのはコロッケだ。どう見ても、Croquetteとは違う代物。 海外のことはよくわからぬが、日本の基本は薩摩揚げで御馴染みの小判形。その中味はほとんどがポテト。極く一部、クリームが入った俵型があるといったところ。 何故、こうなるかは、想像がつく。 薩摩揚げをパクつく姿を考えればよい。コロッケも同じで、揚げたての立ち食いスタイルを前提にしたに違いない。フライドポテトやフライドチキン、あるいはフィッシュ・アンド・チップスに近いカテゴリーでもある。早くから、それに気付いていたのだ。 それに、揚げ油のこだわりもある。この点で、家庭の自家製は今一歩。肉屋で買いたくなって当然。本格的なコロッケは、新鮮なラードを使うものだからだ。こんな繊細なことに気遣うのが洋食。 これほど五月蝿い日本人の要求に合わせ、冷凍食品を開発するのだから、開発者の苦労はいくばかりか。それも、高級冷凍食品ではなく、お弁当や惣菜レベルで実現すべく頑張らねば、買ってもらえないのである。TVディナーのレベルでは、安くしても売れないということ。 〜 刺身文化は、日本だけと見るのは正しい。 〜 こうした食品に対するこだわり方は尋常ではない。 その最たるものが、刺身である。生魚を食べるという点では、東アジア一帯の漁村では決して珍しいものではない。しかし、日本の本当の刺身とはそれとは全く違うもの。 刺身用は、活き〆して、血抜きをし、捌き方も魚によって違えたのである。さらに、魚に合わせた包丁があるように、神経をつかって料理していたことがわかる。 ここまでスキルを高めたのは日本位では。 焼魚料理が海外では少ないのは当たり前だ。低温流通がなかった時代、いい加減な運び方をすれば、生魚は臭くてたまらない。魚を分類し、それぞれにあった運び方と食べ方を考えて提供するような状況にならない限り、美味しく食べれる筈がないのである。 これは実は刺身に限らない。矢鱈にバラエティに富むのが日本料理の特徴なのである。 →[参考] 「日仏魚料理の違い」 (2007.5.23) 〜 これほど食メニューの引き出し豊富な国も珍しいのではないか。 〜 どうも、日本人は、プロの職人でなくても、些細なことにこだわるのが好きなようである。それなら伝統食にこだわり続けてもよさそうに思うが、新しもの好きなのは明らか。つい、なんでも試して見たくなるようだ。 世界的にみれば、インターナショナルになりがちな、都会的文化に近い。実態は、ガイジンと日本人を峻別する文化だから外に開けているようには思えないのに、実に不思議。 ともかく、先ずは、良さげなら飛びつくようだ。これはいたって貪欲。従って、巧妙な宣伝にはえらく弱そうである。そして気にいれば、しばらくは凝る。それなら、伝統は捨てるのかと思いきや、そうでもない。新しいものに、古いものを組み入れたりすることも多い。そのため、渡来料理とはかなり違ったものになったりするが、どうなろうとたいして気に留めない。 まあ、どこの国でも、多かれ少なかれ、そんな傾向はあると思うが、日本はこれが極端だ。 それ以外にも、得意とする芸当がある。 それは、最終的に新潮流に完全に乗り換えても、伝統を消し去るようなことはしない点。そのため、どこかで細々と続いていた伝統食が復活してきたり、痕跡を辿って昔のものを掘り起こしたりする動きがでてくる。 料理のレシピの引き出しがとてつもなく豊富だから、こんなことができるのだろう。要するに、日本料理は、様々なものをゴチャゴチャと入れ込んでいるのである。 従って、それぞれの料理の起源を単純に考えると間違う可能性はかなり高い。純粋性がありそうに見える料理も、おそらくは見てくれだけ。 「孤島国JAPAN」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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