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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.2.15] ■■■
蜘蛛を滅茶苦茶嫌った人々

「蜘蛛をこよなく愛した人々」を書いたので[→], [→続]、その対語。

害虫でもないのに、一般的には蜘蛛は嫌われ者扱い。
このことは、聖書の民の感覚が、古くから東洋にまで伝播したことを物語っていそう。

蜘蛛の巣で追手から逃れることができた幸運を授かったからといって、それは神のご加護にすぎないという見方以上ではない。無益な存在で邪魔者とされていた状況が、この逸話で変わった訳ではなく、蜘蛛が単に神の指示で動いた結果と見なされる。
もちろん、蜘蛛の巣自体を美しいものと見なすこともない。
ここだけ見れば、蜘蛛に対して特段嫌悪感を持っていないと勘違いしてしまうが、聖書で、蜘蛛の巣を比喩的に使っている箇所を読むと、神を信仰しない不逞の輩達の仕草とされている。そこらが聖書の民の基本姿勢と見てよさそう。・・・
 あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、
  あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、
  ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。
  彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。
  彼らはまむしの卵をかえし、

 くもの巣を織る。
  その卵を食べる者は死ぬ。卵が踏まれると破れて毒蛇を出す。
 その織る物は着物とならない。
 その造る物をもって身をおおうことができない。
 彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。

   [イザヤ書59-3〜6]

蜘蛛の巣には、血で汚れた者どもの造作区物イメージが形成されていると言ってよいだろう。蜘蛛とはそういう生物と決めつけているようなもの。
蟷螂、蜘蛛、蜻蛉、蛙と近しくおつきあいし、共に豊作を喜ぶ体質だった民には違和感を与えかねない箇所といえよう。
そこには、ほのかではあるものの、東洋(蜀)の絹織物への羨望感と、それを作る民への怨嗟感が宿っている訳だし。

ともあれ、聖書に記載されている以上、蜘蛛の巣とは、罪深き輩による、バベルの塔ならぬ、技巧を凝らして織った造形物と見なされているのは間違いない。

だが、聖書のこうした記述に、アラクノフォビアに結びつくほど強い嫌悪感があるとは思えない。
その根源は、ご存知、ギリシャ神話アラクネ(Άράχνη)と考えるしかなかろう。(美人の染物屋の機で織娘上手。腕前自慢が高じ、傲慢にも機織りの女神アテナに挑戦し、神々を嘲笑する作品を仕上げる。その結果をどう読むかは別にして、娘は自殺。蜘蛛に代えられてしまう。)
言うまでもないが、女神の名前が蜘蛛の巣の呼び名になった訳ではなく逆。蜘蛛の巣がえらく嫌われていたのである。

その手の嫌悪感が、牽牛織女の地にも定着するに至ったのは、かなり遅くのことかも。多分、「西遊記」の大ヒット。
中華帝国のインテリ層が蜘蛛を嫌う道理がないからである。(蔵書保管には蜘蛛が不可欠なのを知らない訳がかろう。)
 蜘蛛は三蔵法師御一行を襲う恐ろしい妖怪の1つ。(武器:毒,眼光)
  ・盤糸嶺盤糸洞の七姉妹
  ・その兄の百眼魔君


糸で絡めて捉え、中身を吸い尽くし、後に残るのは殻だけという、蜘蛛の所業が遍く知られていたことがわかる内容である。これが悪行非道の振舞いにに映ったのだ。中華帝国の政治社会では、これに優るとも劣らない残酷な仕打ちが珍しくもなかったから、その象徴として語られているとも言えるが。

もちろん、唐代の書「酉陽雑俎」には、そんな通念に基づく恐ろしい話が収録されているが、同時に蜘蛛の巣に顕著な薬効ありの話も忘れていない。[→]
流石、仏教徒だけのことはある。

と言っても、仏教的に蜘蛛がどういう位置付けなのかはよくわからない。
不空羂索菩薩の武器は蜘蛛の糸かも知れないと思わぬでもないが、そのような話は耳にしないし。[→]

その辺りの不透明さを、童話の世界で表現したのが芥川龍之介といえないでもない。
モトネタをフィクションに仕上げたのだが、事実を収載しただけの「酉陽雑俎」の段成式と同様、読者は勝手に考えよと尽き放つ姿勢が秀逸。

仏教説的ではあるが、蜘蛛が嫌われる根源たる"恐ろしき"糸がヒトを救うこともできるというモチーフは必ずしも仏教的とも言えない。
どこかヘンテコに仕上げてあるのが肝。
そもそも地獄に居るのは、刑罰決定裁判の結果に基づく。悪行ポイントから善行ポイントを引いた残りでの判定。勝手に覆せるものではなく、娑婆の人々の切なる願いや、当人が仏教に帰依したとか、金剛経読んだといった、信仰活動が評価されて罪を軽くしてもらえる仕組み。
本来的には、地蔵菩薩を通して救いの手が差し伸べられる筈である。

にもかかわらず、唐突にも、蜘蛛の糸が差し伸べられる。しかも、その対象が悪行の塊の輩とくる。しかも、地獄に落とされて改心した訳でもなかろう。仏に帰依したことなど皆無で、仏法に触れもせずである。唯一、蜘蛛を踏みつぶさなかったという、善行らしきものがあったにすぎない。
「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」かネ。

マ、悪行の塊と自負する輩も、自分こそは善人と自惚れている御仁も、欲は棄てられないから、五十歩百歩と読んでもらえると踏んだのではないか。ヒトは所詮はアラクネだと。
それを薄々知っているので、蜘蛛を見ると、"生理的に"不快感を覚えるのでは。まともな生活を送っていると自負する人ほど、嫌悪感情が持ち上がってくるのかも。
この反応、いかにも西洋的だ。そんな対応が格好良いと思い込んでいる可能性も捨てきれず。
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