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■■■ 古事記の歴史観 [2018.11.11] ■■■
葛城〜金剛〜巨勢時代

「古事記」の宮の記述に焦点を合わせて、"プレ古代"ということで、6つに時代を区分してみたが、義務教育で習う時代区分では"古墳時代"であり、細かく言うためには前期、中期、後記(場合によっては末期が加わる。)という言い方がなされるのが普通。
概ね、大王の時代という解釈がなされているようだ。

これに比べると、「古事記」は歴史書として格段に優れていることがわかる。6つの時代毎にインプリケーションとして、まとめておこう。
【前期】中巻
 葛城〜金剛〜巨勢時代 [→]
 山の辺の道三輪山〜巻向山〜柳本時代 [→]
 筑紫本営時代 [→]
【後期】下巻
 摂津〜河内〜和泉時代 [→]
 初瀬川時代 [→]
 桜井時代

くどいが、極めて重要なので、繰り返し述べておこう。

「古事記」中・下巻には、奈良盆地で"治天下"を実現した初代から、律令国家化に踏み切った(「古代」の黎明期"飛鳥"時代)天皇迄の、宮地・御陵・系譜が記載されている。もちろん、律令国家的事績や仏教に係る話は一切書かれていない。
こう書くと、年代暗記用に時間軸に沿ってポイントを並べ、ところどころに逸話を入れ込んだ書物に映ってしまいがち。
しかし、全編に目を通せば、これはどう見ても「神権政治」を苦労して続けて来た人々の叙事詩である。律令国家の「国史」とは根本的に相容れぬ思想がベース。
実際、事績の中身にしても、皇位継承の血みどろの闘争だらけで、現代のセンスで見れば残虐非道な暴威と、狡猾な偽計が満載で、とても、天皇賛美とは言い難い。
収載の中心はどう見ても、ドラマチックなストーリーを感じさせる逸話で、現代から見ても素晴らしい文芸作品に仕上がっている。ところが、どれを見ても、天皇の政治的威信を高めるようなものとは言い難い書き方。
その一方で、そ事績の一欠けらもなく、淡々と系譜上に存在したことだけしか記載されていない天皇も少なくない。しかも、大陸の史書との整合性を図った痕跡も皆無であり、叙事詩としては無意味どころか、えらく格調を落としているように感じさせたりする。叙事詩とは場に合わせて歌うものだから、祖先がどうかかわっているのかを示す系譜がことの他重要だったということか。そんなこともあってか、この部分があるからこそ、歴史観が読み取れるのである。

さて、この葛城時代だが、所謂、欠史として解説も欠落しているのが普通。

「古事記」にしても、初代の皇后との"歌垣+通婚"的事績以外、系譜しか収録されていない。しかし、この部分こそ編纂者の白眉たる所以と言ってもよい箇所。

部族連合的国家だったから、各部族バラバラであることを意味するのである。初代天皇はそれをまとめる方向で動いたことになる。
女系社会なので、歌垣を通じて部族交流はあった訳だが、それぞれ部族単位でまとまっていたにすぎず、連合体とは名ばかりでそれぞれの都合で勝手に動いていただけ。
当然、伝承はバラバラで、消滅した話も多く、この時代の逸話を記載しないのはまともな姿勢。

九州南部の風俗を抱えた初代の勢力は、この社会風とにに一風をもたらしたことは間違いない。
その象徴が畝傍山と言ってよいだろう。海人から見れば、ここは奈良盆地の中心である。湖に浮かんだ島のようなものでいかにも象徴的な地。
ここは、一番の低地であり、防衛しにくいから、軍事的優位でないと居付けないがあえてその地を拠点にしたのである。極めて戦略的と言ってよいだろう。

言うまでもないが、前方後円墳出現前のこと。
そもそも、死者を尊ぶような信仰が存在している事をほのめかす記述は「古事記」上巻には無い。死は穢れであり、そこからの復活を願う信仰のみ。前方後円墳出現とは、コペルニクス的転回があったことを意味しよう。
例えば、この時代最期に当たる9代の御陵に前方後円墳が比定されているが、これは後代の古墳ということ。近辺に古墳が無いからいわば代理である。小生は比定地はその程度で十分だと思う。
この時代の思想から見て墓守が存在する筈がなく、真の御陵はとうの昔に消滅していたと見るべきだろう。少なくとも平城京が造営された時にはなくなっていたに違いない。この時代の御陵は皆そんなものである。

九州南部の海人風俗は、おそらく除邪用貝加工装飾品で知られていた筈だが、新たに鏡信仰を持ち込んだ点が特筆モノ。銅製品の中心を銅鐸や銅鉾でなく銅鏡としたのである。初代皇后の力が効いたということだろう。

前方後円墳出現前の、バラバラ部族だった頃の社会に標準祭祀が取り入れられたことを意味しよう。(副葬品の出土鏡は、被埋葬者が生前祭祀として使っていた1枚以外は、香典的な僻邪用鏡と見た方がよいと思う。)鏡信仰を通じた婚姻を進め、初代からの系譜に部族祖を組み込んでいったと見てよいのでは。

「古事記」の記述から想定すれば、この時代は三輪地区の宮・御陵時代にそのまま繋がっており、「葛城王朝」から「三輪王朝」という見方は外れていると考える。

この時代は、あくまでも奈良盆地内平定時代。紐帯造りが進んだということ。奈良盆地内の部族間抗争は劇的に減少したのは間違いないと思う。
葛城地区勢力が強力だったという点に注目すべきではなく、小部族乱立だった地区がまとまりを見せるようになったという点が重要だと思う。葛下川沿いの水利に便な丘陵の谷間の土地毎に集団が形成され、抗争上優位な高地集落とその下流の環濠集落という構造が、生産性が高い山麓経済へと変ったのだと見たらよかろう。水利権争いを権力者が治め、部族抗争を勃発させると両者共に消滅の憂き目という仕組みが出来上がったのだと思われる。
そのような仕組みを支えるためには、交通路としての奈良盆地西部は決定的に重要だったというにすぎまい。東征で敗戦を被ったことでわかるように、瀬戸海との交通ルートを抑えていたのが葛城勢力だったというにすぎまい。(時代は鉄器。インゴットは国際通貨そのもので、入手こそが権力維持の要件。)
河川の自然的条件を考えると、交流拠点として一番魅力的だった点も大きかろう。

葛城地区は農地的には潜在的生産力不足。大型古墳を作る筋合いでは無い地。
西側で広大な耕地を開発できそうなのは、若干内側の"馬見"や"御所"だ。そこらの勢力が力を持つようになるのは後代のこと。
(西側の高地性集落としては、王子の舟戸・西岡。大型古墳時代に入っても、香芝辺りには古墳もなかなかできない。葛城〜金剛〜巨勢では、小さな古墳が群集した場所と、小規模円墳の存在が目立つ。)

この時代の流れはよくわかる。

湖だった奈良盆地の中央小島のような畝傍山が最初の拠点。
継いで、瀬戸海との交流力を発揮できる葛城地区で采配を振るう。
そして、大和川の盆地出口の王子で海運一切を取り仕切る体制に。
その上で、盆地とそこから東国伊勢にも繋がる陸路の交差点たる橿原 軽へ。
その〆は、大和川の北部支流の地であり、盆地の北半分に当たる地も平定。

「古事記」はこの間の事跡を何一つ記載しない。戦乱や揉め事はなにもなかったかのよう。
その通りである。隠している訳でもなければ、書くことが無いのでもない。重要なことは系譜に書いてある。
歌垣以外に、なんの紐帯もなく、利害関係だけの都合主義に基づく部族連合ではなくなり、婚姻関係に基づく紐帯ができあがり"奈良盆地人"としてのアイデンティティが生まれたということ。その核になるのが天皇である。
ここが崩れると統治の仕組みは一気に崩れる。

単純に見えるが、二重構造統治を前提にしている点が重要である。律令政治が始まるまでは、この体制が維持されたのである。
今上天皇の勢力と、豪族と称される勢力がある意味拮抗したりすることもあったのだろうが、それは日本全土で見るから。第一義的な権力維持は、あくまでも奈良盆地"内"(一部瀬戸海沿岸含む)。"外"勢力は、婚姻連携している"内"勢力を通してしか力を発揮できないということ。いかに繁栄する勢力があろうと、"外"勢力は直接的に権力を奪うことはできない仕組みが生まれた訳だ。
そんなことができたのは、奈良盆地が日本全土のヒト・モノ交流の中心だったからだろう。
この時代に、初めて、中央と地方の線引きが確立したのである。
初代が東征で係って来た地も、中央での影響力を失えば衰退の道を歩むしかなくなる訳だ。

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