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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.19] ■■■
[476] 星占
ようやくにして、「今昔物語集」編纂者の見方がおぼろげながらわかって来た気がする。
すでに取り上げた星見譚だが、思った以上に問題意識の塊であると気付いたので、書いておこう。
  [巻二十#43]依勘文左右大将可慎枇杷大臣不慎語📖枇杷殿
  [巻二十八#22]忠輔中納言付異名語📖綽名
前者で登場するのは、左右の大臣と法蔵で、後者は、"仰ぎ中納言"であり、読む方はふ〜んで終わるが、両者ともに占星術をたいして重く見ていないことが特徴。

一方、占いということでは、陰陽師の話が色々と掲載されている。ただ、「今昔物語集」では、官扱いしていない点に注意を払う必要があろう。📖陰陽師
(中務省陰陽寮には4部門あり、唯一の殿上人の頭と博士等の官で編成されていた。…陰陽(五行) 天文 暦+漏刻(尅))
言うまでもないことだが、暦法と方位に基づく占いは大流行であり、その根拠を見せているかのような話が多いが、余り好意的ではなさそうである。
シンパシーの対象は法蔵のように見える。
言うまでもないが、僧の場合は、密教の宿曜であって、道教(五行+陰陽二元)の陰陽師とは全く違うのだが、かちあうのである。ところが、宿曜の方に関しては語らずなのだ。

だからこその南都の有名人法蔵の登場。北嶺が論破した相手として必ず引いてくる名前。
つまり、宿曜は南都の独壇場だったのである。暦法は、哲学や信仰とは違い、論理学的算術に熟達しないと深められず、人材の層の厚みが違っていたということだろう。(法事設定の暦法上の根拠を示す方法論を専門にする僧が重視されていたと言うことに成ろう。)

ともあれ、暦に言及したくないようなので、どういう事情があるのか一寸調べてみたのである。

本朝は「古事記」で明らかなように、星への信仰はほとんど感じられない。山がちでそこらじゅう森だらけの国土で、河川は大陸から見れば奥山の急流のようなもの。しかも、島国なので、あえて海での夜間航海の必然性も薄い。それを考えれば、当然の姿勢かも。それに、季節感を植物生育から得ることに長けていたから、あとは天皇代の見方さえあればそれで十分という風土だったとも言えそう。(ちなみに、天竺は夏雨冬の季節感はあるが、長期時間軸観念は無い。)
ところが、そこに中華帝国の皇帝+官僚制度を導入して統治することにしたので、そうもいかなくなったと考えることもできよう。

一方、中華帝国には土着の占星術はあったものの、仏教が渡来し、圧倒的に優れた理論が同時に入って来てしまい、その波に洗われたというのが実情だろう。・・・
《ベーダ的占星術》
〇「ナクシャトラ/納沙特拉(二十七宿)…根幹は、相当に古代の可能性が高い。
《ギリシア渡来占星術》
〇「ヤヴァナジャータカ/希臘人的一本(出生)書149-150年
《震旦》…すべて出自わからずの書。
不空[譯]:文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経」759年
     …空海・円仁・円珍が請来。

 【註】唐では、上記の不空譯を理解できる人はほとんどいなかったようだが、(不空の説明が分かる震旦翻訳補助僧がいないから訳書は当然そうなる。)桁違いの思考能力を持つ密教僧(一行[683-727年])が活用することができたようだ。ただ、それには暦法も不可欠で、大衍暦を造暦。そこで、この宿曜経が仏教の占星術基本テキスト化したようだ。
曹士:「符天暦」(暦法書)782年頃
 【状況】「符天暦」は唐朝では使われなかった。
   暦法があれば、占星術は発展するものだが、この後の組織的展開はみられない。
 【註】「符天暦」の正確な天体運行位置計算方式と1年の時間設定方法は、欧州にまで勢力圏を伸ばした元朝「授時暦」に組み込まれた。この天体軌道論(幾何学)は「アルマゲスト/天文学大成」に依拠していると言われており、ペルシア〜天竺での占星術の基本概念となっていた。
竺法護[譯]:舍頭諫太子二十八宿経/虎耳経310年頃
〇「都利聿斯経」二巻、「陣輔聿斯四門経」一巻
   @「唐芸文志」(李弥乾請来790年頃)

【石田幹之助仮説】「都利聿斯経」「聿斯四門経」は宗叡請来でインド起源。
【藪内清仮説】「聿斯四門経」=「テトラビブロス(占星四書/影響)]
【矢野道雄仮説@「密教占星術」】"都利聿斯"=クラウディオス/克勞狄烏斯・プトレマイオス/托勒密[83-168年]@エジプト アレクサンドリア
《本朝》
〇俗称"星曼荼羅"/北斗曼荼羅(ホロスコープ)
   …一字金輪北斗七星供養修法で用いられた図絵だが儀典書は不詳。
      週報は、例えば実運:「玄秘抄」北斗法。
      外金剛部院には、200を越える尊像が配置されている。📖胎蔵曼荼羅[12]帝釈天
      七曜-十二宮-四方七宿-特別な星-十二天八方-十二天天地日月-帝釈四王天---
結局のところ、本朝の暦法はこのようになる。・・・
   553年[百済]暦博士渡来
   602年[百済僧]観勒渡来暦本献上
   604年暦開始(推古朝)
   674年占星台
   ___ 中務省陰陽寮設置(天武天皇期)…頭のみが殿上人 4分野:陰陽・天文・暦+漏刻
   690年元嘉暦+儀鳳暦
   697年儀鳳暦
   763年大衍暦
   861年宣明暦(以後何百年も変わらず。)


これを眺めると、「今昔物語集」編纂者が宿曜に興味を持っていなかったとはとても思えないし、触れてしかるべきだと思う。「酉陽雑俎」にも、宿の解説がされているし。📖星祭り
それに、上記の、一行[683-727年]は玄宗の命で大衍暦を編纂したというだけでなく、本朝でも、真言宗の系譜で祖として扱われているのだ。
【一行遊学】📖一行禪師伝
一行は"大衍"暦法を極めたので、師を探し求めて旅することに。数千里をものともせず。
しかして、たまたま辿り着いたのが天台の国清寺。そこの一院を見ると、古松が數十歩にわたり生えており、門前には水が流れていた。門屏の間に立っていると、院の中庭で僧が算の最中。その音が笛の音のように聞こえてきた。
生徒に言う声が、
「今日は、我が算法を求めて弟子が来ることになっている。既に門に到着しているかも。誰もいないのか?」と。
すぐに、一算を除いて、言う。
「門前の水は西に向かって流れていてもおかしくない。弟子もついに到着した頃合いだろう。」と。
一行は承服し中に入り、深々と稽首し法の教授を請う。そして、その術を習得。すると、今迄東向きだった門前の水流が、西向きの流れに忽然と変わったのである。
───名門の天台山国清寺でも研鑽。免許皆伝。
【一行造大衍暦】
算木を使う占術に長けていた和璞は、"博学,尤通老子書"とされる道挙官僚の尹惜に言ったそうだ。
「一行は聖人なのか?
漢の洛下が"大衍暦"を造った時に、800年後に誤差が1日生まれるが、それを聖人が登場して定めるだろうと。
今年がまさにそれに当たる。
しかして、一行は"大衍暦"を造ったのだ。正に、その誤差が生じた時である。
洛下の言ったことは、当たっている。」と。
───星の宗教でもある道教の視点では、一行の科学的天文学は驚異的。道士も感服せざるをえなかったろう。複雑で理解し難い"算"の本質をたちどころに見抜いたのだと思われる。


そこで冒頭譚で登場する法蔵の名前が俄然光ってくるのである。法蔵こそ、本朝の宿曜法の祖だと思われるからだ。
そして、その重要性を見抜き、注力したのは南都の僧達。反天台勢力である。
[天台]日延…953年渡呉越 957年「符天暦」請来⇒比叡〜京には残らず。
「符天暦」に対応できる僧は当初限られていたと思われる。
[法相]法蔵[905-969年]@東大寺実相院…963年v.s.[陰陽道]賀茂保憲
└〇[宿曜]仁祚
└〇忠允

〇義蔵@東大寺

[938-1016年]@東大寺…入宋 棲霞寺(清涼寺)開基(嵯峨院の地)
└〇盛算[932-1015年]…清凉寺建立
 〇[真言念仏]覚縁@東大寺⇒棲霞寺(清涼寺/嵯峨釈迦堂)
土台が作られたので、宿曜道が生まれたと見てよさそう。
[宿曜師]仁宗@興福寺 1000年西大寺別当…982年造暦([暦博士]賀茂光栄)
└〇仁統@興福寺 1025年西大寺別当…造暦([暦博士]賀茂守道)
│証昭、増命、彦祚
└〇能算[法隆寺別当]
┼┼├〇[子]明算[1047-1109年]
┼┼│└〇深算
┼┼└〇永算
┼┼┼└〇慶算[醍醐源氏系]
┼┼┼┼↓↑ライバル
┼┼┼┼〇珍賀[1083年-n.a. 父:禄命師珍也@興福寺&法隆寺]
┼┼┼┼┼┼┼⇒北斗降臨院(清水寺近隣)

天台はおそらくこの流れを取り込んだのだと思う。
"谷流"皇慶/谷阿闍梨[977-1049年 性空の甥]@東塔南谷池上房
└○"大原流"長宴[1016-1081年]
└〇"三昧流"良祐 宿曜師(密教占星術師)📖本朝仏教の母

ここらまで眺め、冒頭譚が何を語っているか、ようやく見えてくることになる。実に厄介な書である。

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