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■■■ 古代の都 [2018.11.4] ■■■
[時代区分:1] 1〜9代総ざらい

「古事記」の中身を眺め、その示唆していそうな点を天皇事に検討してきたので、全体感をつかみ取るつもりで時代区部してみたいと思う。もちろん、すべて推測の域を出ない。

1〜9代だが、御陵の地の変遷が印象的である。すでに述べたが、御陵は宮の北方に造られることが多い。
先ずは、橿原地区が4代続く。
 [1]畝火山北方白檮尾上陵
⇒[2]衝田岡陵
⇒[3]畝傍山之美富登陵
⇒[4]畝火山之真名子谷上陵
付近には新沢千塚@畝傍山南越智岡丘陵[群:円]もあり、目立つような体裁の御陵ではなかったのだろう。

これが、葛城地区に移る。
 [5]掖上博多山上陵
⇒[6]玉手丘上陵・・・
その後は王子(舟戸・西岡高地性集落の地)へ。
 [7]片岡馬坂上陵⇒・・・

宮地の方はこうなっている。
当然ながら橿原地区の宮の流れから。
 [1]畝火之白檮原宮
⇒・・・⇒[4]軽之境岡宮
"軽"は畝傍山の南東で、山麓からは離れている。
葛城地区の宮の流れは2代から。
 [2]葛城高岡宮
⇒・・・⇒[5]葛城掖上宮
⇒[6]葛城室之秋津嶋宮
流れが明確に示されていると言ってよいだろう。そうなると、3代目の比定地は異なる場所の可能性が高そう。
 [3]片塩浮穴宮@大和高田

7代からは転々と移動と言っても、その場所は奈良盆地内の近隣でしかない。軽は畝傍山の山裾ではなく、陸路上の要衝の地と見ることができるから、交易拠点での宮の造営の方向に転換したと考えることもできよう。橿原・葛城の時代からの脱却の動きと言ってもよさそう。
 [7]黒田廬戸宮 @黒田
 [7]片岡馬坂上陵@王子
 [8]軽之堺原宮 @橿原 軽
 [8]剣池之中岡上陵@〃
 [9]春日之伊邪河宮@奈良
 [9]伊邪河之坂上陵@〃

と言うことで、1〜9代を一つの時代としてくくってみた。
《葛城〜金剛〜巨勢時代》

畝火山を拠点とする渡来武力勢力の貴種を頭領にした、葛城〜金剛〜巨勢一帯の【部族連合】が成立した時代と見る。

集結した部族数はかなりの数にのぼった可能性があろう。この時代の初期の宮は山がちの場所が好まれたようだから、部族単位はかなり細分化されていた可能性が高い。何れも、女系制で、歌垣による部族間婚姻が追求されていたと思われる。従って、実質的にはこの地区一帯は同族と言えないこともないが、祖やトーテムは部族毎に違っていたのでは。つまり、危機的状況に遭遇しない限り一体化は困難だった筈。(と言っても、宗教祭祀的には山麓の高木を祖の依り代とするといったレベルでの信仰同一性はあったと思われる。)
都度連帯はあったろうが、部族連合体である以上、統領は代表者総会での全会一致で決めることになる。統領に全権を預ける訳でもないだろう。そんな政治体制の社会に強力な軍事力を有する貴種が渡来したのだから、統領として迎え入れることは悪くない方針だ。ただ、全体の紐帯は何もない。それはあくまでも功利主義的な決断。反対部族がいてもおかしくない。天皇勢力はそのような邪魔者を抜き去っていったのだと思われる。細分化された部族のアイデンティティをママ尊重しながら、詔に従う体制を創りあげていった時代ということになる。

初期においては、天皇が九州出自であることを目立たせることは貴種としての意味を持ったろうが、一体化を進めるざるを得なくなれば、なし崩し的に土着風俗と習合せあるを得ない。一般に、このような状況の部族伝承は消え去っていくしかないと思うが、「古事記」はそこらを拾って来たと考えるべきだろう。天皇の命で各地に散らばった部族のうち、遠隔地にこの時代の伝承が残っていたのだと思う。ただ、事績は部族毎に違う筈で、収載できたのは統領の系譜だけということ。
その辺りの変遷は尊称を取り払った名称から読み取れよう。
 [1神]地名らしき大尊称だけ。名前は不明。
 [2神]ぬなかは耳…九州渡来勢力的。河川筋を統治の鍵としたのだろう。
 [3]たまでみ
 [4]すきとも
 [5]かゑしね
 [6]くにおしびと…勢力範囲を拡大し、部族集団から脱皮せざるを得ない。

この後も勢力は弱まることはなかったが、宮地から見て、試行錯誤が続いたようだ。
 [7]ふとこ @田原 黒田廬戸宮
 [8]くにくる@軽 堺原宮
 [9]おほびび@春日 伊邪河宮
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