→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.3.10] ■■■ [68]言葉発祥の違いの気付き ❶"やまとうた"とは☚ ❷やまとうたの"みなもと"📖歌のみなもとは古事記 ❸うたの"ちちはは"📖大雀命のどの歌を重視するか ❹"うたのさま"むつ"📖太安万侶流の歌分類 ❺"はじめ"をおもふ📖心地概念や修辞法は似合わない ❻"かきのもとのひとまろ"と"やまのべのあかひと"📖柿本人麻呂とは無縁か? ❼ちかきよに "そのな きこえたるひと"📖太安万侶に六歌仙的皮肉は効くか ❽なづけて"こきむわかしふ"☚ ❾ときうつりとも うたのもじあるをや☚ "仮名序"を、こうして眺めて来ると、表面的には、「古事記」との間にかなり深い溝があるように見える。 もともと、成立時期がかけ離れているし、「古今和歌集」は内容分類型編纂で、作者不詳の歌だらけとくるから、両者の性格が違うのは当たり前だが、短歌集を表に出すということは、叙事詩歌謡からの脱皮を図っていると言えることが大きい。素朴な荒々しい表現でなく、婉曲化を当然視し、練りに練った修辞を求めるのだから、両者の溝は深そう。思想的に180°異なると言わざるを得ないかも。 「古事記」は、諸氏祖を示せるように、皇統譜明確化に取り組んでいるのだから、当然ながら粗削りであればあるほど、事実らしさが増すことになるから、できる限り伝承叙事詩をママで提示したに違いなく、「古今和歌集」と方向が合う訳がない。 そんなことはわかりきっているのに、両者の比較に何の意味があるかということになりかねないが、小生はその価値大いにありと考える。 と言っても、両者が、非漢文を追求している点をとらえて、その意義を追求したいのではない。 実際、使用言語方針が両者が同一地平を歩んでいるとも思えない訳だし。 少し、補足的に書いておこう。・・・ 公式文書は漢文に限ると決められた社会のなかで、確かに、両者とも、非漢文を追求している点では同じではあるが、片方は叙事詩歌謡の粗野でアドリブを容認する"口誦"を重視し、もう一方は修辞的に推敲完成された"読文"を基本としており、相当な開きがある。しかも、「古事記」の'音読み指示注付き'漢字文と、「古今和歌集」の全面仮名文を、単なる表音文字の違いと見なす訳にもいかない。この2書成立の間に、言語的大改定が行われているからだ。 ・・・現代とは違い、「古事記」記述言語の3母音ieoには2種類あったというもの。(計20音節 関係子音:k/g h/bi m s/z t/d n y r)「古今和歌集」は、仮名文字化でこの発音習慣をものの見事に葬ってしまったのである。それと同時に、多義の語彙をそれとなく示すことができる複数漢字の同音表記も廃止したのである。 このような"過激"な改定が、一筋縄で行くとは思えず、どのようにして標準化させたのか、えらく気になるところだが、さっぱり見えてこない。ただ、漢字の表意文字である点を用いて、全国で地名の嘉語化を図らせた方針が、その意図に反して、純粋な表音文字の仮名使用を促進させた可能性はありそうだが。 万葉仮名的な漢字による表音表記は、おそらく、かなり複雑になってしまった筈。と言うのは、もともと日本語が単一語義でないからだ。例えば、ヒは比卑日氷臂飯などを使えるので、その場で意味が一番通じそうな文字を選んだに違いないからだ。この場合でも、甲乙の発音を無視すれば、太陽神・火神・飛霊・姫神等々がすべてヒということになるのだから。 "a"にしても、阿 安 英 足の4種があるが、片仮名は<阿⇒" ア">なのに、平仮名は<安[宀+女]⇒"あ">と違っており、どういう経緯で標準化が進んだのかは見えてこない。 さて、ここからは、想像に過ぎぬ。 「古事記」と"仮名序"はこのように全く異なっている思想に見えるが、実は同根ではないか、というのが小生の見立て。両者は、思想的につながっており、時間的経過で異なって見えると考えるのだ。 つまり、言語的には、こんな流れを想定することになる。 口誦(無文字)⇒政治用漢文記録⇒叙事詩記録⇒和歌記録 日本列島は、徹頭徹尾、漢文導入を嫌ってきた。しかし、その一方で、交易や戦争を避ける訳にはいかないから、外交上漢文は使っていたが、それ以上ではなかった。 それで万事事足りたし、口誦言葉には呪術的力があるとの信仰があり、それを記録したりすると、何をされるかわかったものではないから、極く自然な形で禁忌になっていたということだろう。現代で言えば、写真を撮られると魂を抜き取られかねないとの危惧を抱く観念と瓜二つ。 しかし、その観念を一変させる思想が渡来したということ。 それは、まず間違いなく、仏教渡来だと思う。 「今昔物語集」を読んでいてつくづく感じさせられたのは三国観。仏教は、叙事詩信仰の風土で生まれた宗教。釈尊のお言葉が信仰対象であり、教えは口誦で伝えるべきもの。経典文章自体に意味がある訳ではなく、そのお言葉に力の根源があるとされていたのは間違いない。ところが、中華帝国は天竺渡来経典を全面的に漢語に意訳化。天竺の言葉文化を抹消させたのである。 当時の日本列島の精神風土からすると、とんでもないこと。しかし、サンスクリット経典も渡来したが、基本は漢訳が仏教経典とされていたのである。 余程鈍感でない限り、そのようにして統一を図ることなくしては、国家樹立など有りえないと学んだに違いない。それに失敗すれば、国土分断の策略で、なにをされるかわからない訳で、国家乱立と戦乱の日々が待っていると気付かない訳が無いと思われる。 太安万侶の見立てからすれば、その第一歩を踏み出したのは聖徳太子ということになろう。日本の歴史としては、そこらが結節点ということになる。ここから新生日本国が始まる訳で、「古事記」とはその前の事績を叙事詩として残しておこうとの取り組み。 余計な話をしてしまったが、"仮名序"に戻ろう。 その末尾だが、"編集過程"との小見出しをつけたくなる、書誌的情報が記載されている。もちろん、そこには、編纂者名が並んでいる。 その特徴だが、紀貫之を除けば、下位の専門職。そのなかには、無位も含まれている。 紀友則…六位大内記 紀貫之…御書所預 従五位上木工権頭 凡河内躬恒…前 甲斐少目 六位和泉大掾 壬生忠岑…右衞門府(武官) 無位 考えてみれば、序で崇め奉っている、歌聖の柿本人麻呂も同様に低い地位の人だった。それに、その後に素晴らしいとされて記載された六人の歌人にしても、とても高位とは呼べないし、政治的に云々される立場からは程遠い。 これはある意味当然だろう。 特定の祭祀歌謡を除けば、和歌は私的な場面で用いるようになってしまったのだから。 それこそ、恋愛贈答歌担当の私的御用人も多数存在していたに違いない。もともと、科挙が馴染まない風土でもあるから、詩歌の才能で一躍宰相にという話が生まれる訳もないからだ。 しかし、だからこそ、"仮名序"のような主張が可能だったともいえる。 そして、これらの歌はずっと残り続けるとの予言は見事的中したのである。 それは、冒頭の、一見、抒情に訴える文章が、実は本質を抉り出したものだったからだと思う。それは、ひょっとすると、太安万侶の見方と一致しているのかも知れない。 その一行を再掲しておこう。 倭歌は、人の心を種とし 万の言の葉とぞ成れりける。 これを上記の主旨で読むと、なかなかに含蓄がある文章に見えてくる。 中華帝国では、文字は、天命を知るためのコミュニケーションの呪術的道具として生まれており、それを寿ぐものが漢詩であるが、倭歌はそれとは発祥からして全く異なるとの主張とも思えるからである。 先ずは、歌ありきの風土であると言い切っている。言葉で歌を作るのではなく、歌が言葉を創るという観念が見事に著されている文章でもある。 おそらく、歌は、貴人のものと言う訳ではなく、勅勅物も発するということにもなる。それをヒトの言葉として認識できるかは別問題だが。 つまり、<言葉⇒歌>ではなく、<歌⇒言葉>であると言い切ったことになる。心から発した歌こそが初元であり、そこから語彙が生まれたとなる。だからこそ、日本の単語は多義になるといわんばかり。確かに、日本語は重層化している雑種言語であり、そういうものかも知れないという気にさせるところがある。 極めて情緒的なお話でしかないし、なんの論拠もないが、天竺や震旦と比較すると、納得させる力がある。 「古事記」においても、歌謡を"神語"と、はっきり記載している位なのだから。 どうあれ、倭人の言霊信仰とは、集団歌謡祭祀と表裏一体だったことは確かそう。「古事記」が記載している叙事詩とは、そのような場での歌謡であり、古代ギリシアやインドで呼ばれる叙事詩とは性格が異なる。 ❽なづけて"こきむわかしふ" ●かゝるに、今天皇(すべらぎ)の天の下しろ示すこと、 …今上(醍醐)天皇 四つの時、九のかへりになむなりぬる。 …即位後四季9年目(905年) あまねき御慈しみの波、八洲の外迄流れ、 広き御恵の蔭、筑波山の麓よりも繁くおはしまして、 万の政をきこ示すいとま、諸々のことを捨て給はぬ余りに、 古のことをも忘れじ、旧りにし事をも興し給ふとて、 今もみそなはし、後の世にも伝はれとて、 延喜五年四月十八日に、 大内記紀友則、 御書所預紀貫之、 前 甲斐少目凡河内躬恒、 右衞門府壬生忠岑 らに仰せられて、 「萬葉集」に入らぬ古き歌、自らのをも、奉らしめ給ひてなむ。 ●それが中に、 梅を插頭すより始めて、郭公(ほとゝぎす)を聞き、 紅葉を折り、雪を見るに至る迄、 又、鶴亀につけて君を思ひ、人をも祝ひ、 秋萩 夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りて手向けを祈り、 あるは、春夏秋冬にも入らぬ草々の歌をなむ、撰ばせ給ひける。 ●すべて千歌二十巻、名付けて「古今和歌集」と云ふ。 ❾ときうつりとも うたのもじあるをや ●かく今度、集め選ばれて、 山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積りぬれば、 今は飛鳥川の瀬になる恨みも聞えず、細石の巌となる喜びのみぞあるべき。 ●それ、枕詞(臣等の歌詞)、 "春の花"匂ひ少なくして、空しき名のみ、 "秋の夜の"長きをかこてれば、 かつは人の耳に恐り、 かつは歌の心に恥思へど、 "棚引く雲の"立ち居、 "鳴く鹿の"起き臥しは、 貫之らが、この世に同じく生れて、 この事の時に会へるをなむ喜びぬる。 ●人麻呂亡くなりにたれど、歌の事留まれるかな。 たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、 この歌の文字あるをや。 青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、 まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久しく留まれらば、 歌の様を知り、ことの心を得たらむ人は、 大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも。 ❶"やまとうた"とは📖歌のみなもとは古事記 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |