→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.25] ■■■ [114] 日本型道儒国家の特徴 道教を国教並みに扱おうという、カリスマ的な天武天皇の意向に応えること自体は 官僚として、主要勢力への目配りさえ怠らなければそう難しい問題ではなさそうに思えるが、系譜の整理はそう簡単とは思えないからである。 と言うのは、序文で示しているように、中華帝国を越える"道教的"神国としての系譜を提示しなければならないからだ。 そこでの、一番の難しさは、道教の概念が確定的でない点。中華帝国の様々な土着信仰の寄せ集めでもあるから教義が錯綜せざるを得ないし、儒教や仏教との相互癒合的な概念も少なくないから、枠組みがどうしても不明瞭にならざるを得ない。 易・五行・風水、等々も含めるとなれば、どこまでを"道教的"と見なすべきか、答は自明ではない。にもかかわらず、"道教的"正統性を示さねばならないのだから実に悩ましい。 ただ、インターナショナルなセンスでの時代感覚は研ぎ澄まされていただろうから、勅の意義は100%理解していた筈。 660年 百済滅亡 663年 白村江で倭国敗北 668年 高句麗滅亡 672年 内乱(壬申の乱) _____ "日本"国号 ところが、唐も新羅も、儒教ベースの天子独裁-官僚統制の軍事国家だ。領土拡大の機会を鵜の目鷹の目で探っているのである。その機未だ熟せずなら、到来まで共存和平を主導しながら、内部分裂誘導の画策を図ることになる。軍事的に劣位と判断すれば、人質提供だろうが、なんでもありで当座しのぎをするだけ。儒教国は、天子がすべてを掌握する社会を造れというイデオロギーで成り立っており、統治力不足の国家なら革命起こすべしということになるから、和平にたいした意味がある訳がない。非合理的な負け戦を避けるべしとの合理主義のお勧め以上ではない。 従って、倭国弱体化を狙って国内分裂を仕掛けたり、唐-新羅連合での倭国侵攻も、オプションの1つとして検討されていて当然。そのような検討もできない官僚は無能と見なされて放逐される仕組みなのだから。 と言っても、唐の状況を把握している倭国上層部に強い危機感が走っていた訳ではないと思う。 海(新羅-倭[+蝦夷, 済州島, 南西2島])・陸(唐)分離共存体制が、一時的ではあるもののの機能していたようだから。(これが壊れかけたら、倭としては、唐との外交が最優先となるだけの話でしかなく、常にその準備はされていたに違いない。) しかし、東シナ海を巡ってのパワーバランスが動揺しているのだから、一枚岩的な軍事国家形成が不可欠との見方が自然に広がっていった筈で、国内の中央集権体制邁進には好都合である。 しかも、そのような道教国家のモデルはすでに存在していたから、模倣するだけでよいのだし。 その方向に合わせ、神代の時歴史を編纂する必要があるとの天皇の意向が、高級官僚で、当代一の知識人たる太安万侶にわからない筈など有りえまい。 周 武帝/宇文[在位:560-578年]→ 隋 文帝/楊堅→ 隋 煬帝/楊広→ 唐 高祖/李淵→ 唐 太宗/李世民[在位:626-649年] この流れを支えてきたのが道士達。(特に隋⇒唐の王朝転換に果たした道士の役割は特筆モノ。天命ありとの証を数々提示しただけでなく、儒教の宗族第一主義を全面的に採用し、李姓の祖である老子を敬うべしとさせた点が大きい。道士が指摘する反老子勢力の絶滅は、子々孫々の最優先すべき勤めと化し、李王朝が官僚統治機構を通して絶対的権力を実現するための論理を提供したからである。) しかし、倭国に渡来したとの記録は無い。このことは、"道教的"であって、"道教的"でない状況をどう記述すべきか、太安万侶が直面したもう一つの問題。純漢文の序文と、倭文の本文のトーンが違う理由はここに由来しているとも言えよう。 中華帝国では、天子のお墨付きを得て、国教化させる教団活動あってこその道教。儒教国である以上、有史以来、現代まで、許可なく布教できない仕組みなのだから当たり前 。 儒教とは革命肯定であり、認可なき布教とは天子交代勢力以外のなにものでもないからだ。そうした儒教の上に土着道教が乗っかって国教化すると、政祭分野にとどまらず、全ての生活文化活動が天子の一存で左右され、完璧な統制社会が実現することになる。 儒教の宗族第一主義は個人精神を社会の表層から消滅させることにこそ意味がある。そこが官僚制に儒教が不可欠になる由縁でもある。一方、道教は個人精神重視といえば聞こえがよいが、個人願望実現第一主義。このため、本来的には対立的存在。 ところが、個人精神まで統制しようという方向を嫌っていながら、神々は官僚制に閉じ込めざるを得ないのである。かなりの矛盾だが、儒教国という大前提は外しようがなく、天子を頂点とするヒエラルキーを擁護し、国教化に進むしか道は無い。もちろん、国教化を目指さない方向も理屈ではありえるが、天子の弾圧対象になるだけのこと。儒教的な統治制度なしの道教国樹立など夢物語なのは当たり前。 📖「酉陽雑俎」[前集卷二]玉格 📖唐朝道教の変遷@「酉陽雑俎」の面白さ 📖神道視点での道教考(官僚的仕組み) 📖神道視点での道教考(最高神グループ) ("儒教伝来"はありうるが、"道教伝来"はあり得ないのは、ここらに由来すると言ってもよいだろう。さらに注意が必要なのは、前者は、物理的に五経が初めて日本列島に入ったことを意味する訳ではなく、国家間の公式行事である点。官僚統制国家化宣言と同義ということ。これなくしては殲滅対象の"蛮族"扱いされるから、軍事力劣位と見なされたら避けられない対応であろう。 もちろん、「古事記」序文がそんなことを匂わすことは無く、意気軒高そのもので、御大八洲天皇は、道教的(符術六極八荒陰陽五行)には中華帝国の皇帝をはるかに凌駕する存在と寿ぐ訳だ。) 倭国では教団が編成されていない。(道士の修行場である"道観"さえ存在していない。)これでは、道教国教化どころの話ではなかろう。 そうなると、伝統的神祇勢力に道教的振る舞いを要求するしかない。各地のご祭神を、天皇が承認したヒエラルキーのなかに収めよ、との命令を下すことになる。極めて曖昧ではあるものの、"天武天皇型道教"としか呼びようがない神祇体系に衣替えさせる訳だ。 そのヒエラルキーの土台となる"系譜書"の編纂の勅を受けることになったのが太安万侶である。さぞかし困惑しただろう。 もともと、道教とは、地場土着信仰を集めてキメラ化したような宗教。しかし、それなら、日本列島の信仰に当て嵌めればよいという単純な話にはならない。その核はあくまでも天子の承認を受けた道士教団だが、倭国にはそれが不在なのだから。 そうなると、すでに存在している社家が主体的にその役割を担うことになるし、神祇系にはできかねる祭祀は僧侶がその機能を受け継ぐ必要がある。(八色の姓に"道師"が入っており、社家に与えたのであろう。) その辺りの人々に十分満足がいく伝承譚になっていないと、「古事記」作成の意味がなくなってしまう。これは簡単なことではなかろう。 しかし、結果論で見れば、「古事記」は十分、その任を果たしたと言えそう。 "天武天皇型道教"は、結局のところ、その祭祀形態の主体を天照大御神信仰に組み込むことで完成したということになろうか。ただ、国教化に邁進したようにも思えないところが、不思議だが、不適合な部分まで受け入れることはできなかったということなのかも知れない。 「今昔物語集」が仙人を持ち出しているが、多くの部分は仏教に取り込まれてしまったのであろう。 結局のところ、倭国では、道教は教団宗教としては一歩も踏み出せなかったと言えそう。 (だからと言って、ここにハイライトを当てる意味は薄かろう。中華帝国の道教集団を霞を食べて生きる仙人達と信じるなら別だが、修行場維持のパトロンが必ず存在することを考えれば、たいした違いがある訳ではないからだ。吸収される信仰勢力側は、祭祀行為に道士を必要としていないものの、財政等を考慮すれば所属化するしかないだけのこと。反王権あるいは独立姿勢もとりうるが、それが目立てば抹殺されかねず、見かけ所属を望むのが普通だろう。) しかし、それなら、倭では、道教的な影響力がたいしてなかったと見ることはできない。逆なのだ。「古事記」序文が示す通り、天武天皇期は道教一色だったと言ってよさそう。・・・ 天渟中原瀛真人天皇@飛鳥浄御原宮/大海人皇子/[40]天武天皇[在位:673年-686年]との呼称がそれを物語る。 天渟=天沼…天沼矛 中原=覇者の居る中央の地…飛鳥浄御原 瀛="海":東方海中三神仙瀛州…日本 真人=奥義を極めた道士@「荘子」e.g.始皇帝贏政の自称[秦人] …制定した八色の姓("真人"-朝臣-宿禰-忌寸-"道師"-臣-連-稲置) 【参考:瀛が登場する本朝漢詩】 葛野王[父: [39]弘文天皇/大友皇子+母:[40]天武天皇第一皇女]:「五言 遊龍門山」 命駕遊山水 長忘冠冕情 安得王喬道 控鶴入蓬瀛 [「懐風藻」] (王喬=周靈王[在位:前571-前545年]の早逝太子(謚號:至道玉宸皇帝):控鶴登仙長生不老) ただ、このように書くと誤解を生じ易い。繰り返すが、道教国家とは、儒教型国家が必然的に行きつく先でもあるからだ。道教と儒教の根は水と油だが、それを強引に合体させればどうなりそうかは想像がつくというもの。 その辺りを、ついでに素人解説しておこう。 (「酉陽雑俎」「今昔物語集」「古事記」を自分の頭で読んで来た結果の当たり前の到達点でしかなく、小難しいことなど何もない。) 道教は個人願望から発生した呪術型の祈願宗教。教祖から発生した宗教然とした信仰とは原点が違う。("場=原"での交流感を大事にする倭の信仰とも異質。)教義と教団は祭祀上の必要に応じて生まれてきたと考えるべきもの。そのため、老荘の哲学を接ぎ木しているように映るが、この出自を確認しているだけのこと。簡単に言えば、官僚統制の現実社会から逃避したい願望を教義化しただけ。教団化すれば、当然ながら反官僚統制色を帯びるから、脱社会の仙人修行が基本となろう。 このため、個人精神統制社会を目指す儒教とは出自からして対立的。王権・神権にとどまらず生活文化をも一手に支配したい古代の王からすれば、儒教は統治に必須だが、独裁者としての様々な願望も叶えたいから、両者の根本的な対立を無視して両立させようということになる。 そのため、道教教団は神々の世界に、儒教的なヒエラルキーを自律的の持ち込むことで、王による文化統制容認を是とすることになる。 そのような個人精神の自由度に欠ける社会では、個人的願望はもっぱら福禄寿になるのは自然な流れ。(子孫・富裕・長生) そして、その願望実現には中華帝国強大化が不可欠ということになれば、天子独裁-官僚統制は大歓迎されさらに深化していくことになる。儒教型統制国家の宗教であるから、倫理とか道徳を道教に問うのは筋違い。精々のところ、儒教道徳に反する行為は祈願にマイナスという程度でしかなかろう。 そうした流れを冷ややかにみるのは、一部の知識人のみ。但し、天子交代を画策する一派が常に生まれるから、天子と道教の蜜月状況が持続できる訳ではない。 プロフィール化すると、こんなところか・・・📖道教について ○根は地場的独立呪術群 "鬼道"(巫:神憑) 卜占 蠱術 生贄祈願, etc. ○専門性向上のために修行集団化 ○集団教義発生(論理性付与)…実効性ありそうな手法創出とペア <万物根源論>…老荘 <生命論>…不老長生 尸解/神仙術 養生術 房中術 武術 錬丹/薬術, etc. <方術理論化> 天文(占星) 易筮 風水 太極/陰陽 五行 霊符 調伏, etc. ○総合的な"方士の術"として結実 これらを理解していると、既に述べたように、儒教の伝来についてはなんらかの形で触れる必要があるが、キメラ的寄せ集めである道教については全く不要なことがわかる。バラバラと祈願成就の各種呪術が伝えられ、個人ベースで適用され広がって行くだけだからだ。 そして、もう一つ、太安万侶が指摘した重要な点がある。中華帝国型道教は多神教では無いのである。 至高神が複数(天寶+霊寶+神寶)な上、様々な神々が存在するし、用語の定義上からすれば、そう見なして間違いではないが、そう見てはいけないのである。 すべての神々は、天帝の下に見える形でヒエラルキーが形成されており、下位の神は特定の機能だけ発揮する構造。このため、自然体でナンデモアリになる。 祈願内容に応じて、直接信仰する神は変わるが、その神を通じて頂点の神に帰依していることになる仕組み。 現代日本の多神教感覚とは、誕生祭祀は神社で、結婚式はキリスト教会で、法事は寺でという風土を指すが、それは中華帝国ではあり得まい。 --------------------- 【参考】 朝鮮半島が百済・新羅・高麗併存だった頃、中華帝国で道教の地位が急激に高まった。その対応で、属国の地位にあった高麗は道教を招請し、事実上の国教化を図ったことが知られている。当然ながら、新羅や百済にも道教が入っていた筈。 実際、百済肖古王が七枝刀@石上神宮と七子鏡を倭国に献じており、その用途は、道教の呪術用神器以外に考えられまい。魏は、倭を鏡を神器とする鬼道の国と見なしている位で、極めて自然な動きだが、前方後円墳は倭の独自性を示しており、道教的ではあるが、異なる信仰と考えるべきだろう。 下表から想定できるように、仏教は、百済だけではなく、新羅・高麗からも流入したと考えるべきで、倭国支配層から見れば圧倒的な魅力がある"方術"の流入が伴って当然だろう。しかし、それは、皇統持続の観点からすれば、危険な流れを生みかねない。道士は"李"姓を祖とする宗族を支える祭祀者でもあり、"李"朝への王朝転換革命の熱烈な支持者にもなりうるからだ。渡来承認は難しかろう。・・・
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