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■■■ 「古事記」解釈 [2021.4.30] ■■■
[119] 序文に対する姿勢の違い
随分と前のことだが、「古事記」を読み始めるにあたって、本の選び方に触れた。📖古事記本の選び方@2012.8.4 📖古事記本の選び方[続]@20131203

そんなことは、好き好きであり、他人がどうこう言う筋合いではないものの、書籍は山のようにあるが、読む方の時間は有限だから、心してお選びになった方がよいだろう。

本屋的分類からすると、4つのジャンルか。
  <入門>
はじめての 知識ゼロから らくらく読める 読み直す 知っておきたい 現代人のための 読み出したら止まらない より深くより楽しく 面白いほどよくわかる 一気にわかる よくわかる 絵で見てわかる 謎解き マンガ
  <神話として>
  <歴史として>
  <文学として>
  <注釈・訳>

小生は、わからないからこそ面白いと考えている。粗筋を教えてもらって、何が嬉しいのかさっぱりわからないからでもある。それを知っていると処世術的に有利になれる環境にいる人は別だろうが。
そもそも、納得のいく成立理由無き書であり、そんな本の意味が簡単にわかる筈もなかろう。しかし、だからこそ面白いとも言える。と言っても、謎解きゲームをしている訳ではない。
編纂者の精神に触れる気がするから魅力的なのだ。下手に書くと危うい、ギリギリの線で、命じられた内容に仕上げてあると見ているからでもある。つまり、当時のピカ一インテリの太安万侶の私見と言うか、考え方が読み取れるということ。社会観や歴史観がわかるのなら、素晴らしい読書体験ではなかろうか。
従って、神話・歴史・文学という一面的な読み方をすると、それが見えなくなってしまう。特に、海外の神話との比較や、「記紀」合わせで暦年型解説、あるいは、生々しい神話を文芸的に味わうのは、考えもの。それは翻案作品を味わっているようなモノだからだ。芥川の今昔物語集譚を鑑賞しているのとほとんど変わらないのでは。
小生は、"生きている"叙事詩を文章化した書と見ているからだ。全体を通して読むと、倭国支配層の思想遍歴が読み取れるように設計されており、太安万侶の歴史観がわかるようになっていると考えている。

そうなると、なんといっても原文を読むのが一番。ただ、註なくしてはよくわからにので、やっかいそのもの。
その場合、一番手頃な、ということではなく、註が"しっかりしている"と感じる本を選ぶ必要があろう。
それを知るには、序文に対する姿勢を見るとよい。
📖序文要約部冒頭は解題的
例えば、序は後世に挿入された偽書と見る説もある。📖神話扱いはお勧めできない
序文を正式文書とみなす本居宣長とは180°見方が違うが、序文と本文が全く異なるという点では同じ。
[「古事記傳」二之巻初段の主旨はこんなところ。・・・漢文調で文を飾ったので、自然に漢意となり、"混元既凝""乾坤初分""陰陽斯開""齊五行之序"といった語句が多くなっている。こうしなければ、文章とされなかっただけ。
序にこういう文が多いからといって、軽率に本文の趣意を見誤ってはならない。
さらに、本文と大きく違うから、「序は太安萬侶作ではなく、後人の挿入。」との主張もあるが、それは余り考えずに言っているに過ぎない。
すべてを考え合わせてみれば、後に他人が書いた物ではなく、間違いなく太安萬侶朝臣本人の筆による物。]

宣長は当たり前のことを書いたに過ぎまい。・・・
業務として行っている官僚が上奏に当たって書く文章なのだから、その時点で遵守すべき不文律に合わせた作文以外にあろう筈がなかろう。
ただ、同時に、矛盾した主張がなされている。漢語と和語の違いはあるにしても、本文も同じ論理でいけば 政治的配慮がなされている筈だからだ。
ただ、これは国学だからと言う訳ではない。小生は全く知らない分野ではあるが、序文の扱いは評者によってえらく違うらしいから。忘却のかなたに近いが、小林秀雄は確か、本居宣長は序文を徹底的に軽視しており、まるでカルト的な信仰で本文を金科玉条の如く読んでいるといった趣旨で書いていた筈。平田篤胤については、全く逆で、あるべき古代信仰から、「古事記」を客観的に評価しており、序文をその時代に合わせた正当なものとしていると言っていたような気がする。記憶違いの可能性もあるが。
(宣長は「古事記」本文に理想的な神道の在り方を希求したが、篤胤は理想的な神道の在り方からすると逸脱も多い書として読んだことになろう。)
📖太安万侶の立ち位置を考えるべし

重要なのは、序文を、ママ、読むこと。
例えば、山田孝雄:「古事記序文講義」志波彦神社/鹽竃神社 1935年のように。・・・素人からすれば、空前絶後と言えそうな考証の山盛り本である。・・・
 序文と云ふのは俗稱てあつて、上表であることは明白である。
 それ故に之を讀めば著述の本旨がわかるわけである。
 古事記の精神なり、目的なりが序文(上表文)に依つてわかると思ふ。
  :
 "邦家之經緯、王化之鴻基焉"といふ語が古事記の本質を語るものであると思ふ。
  :
 その傳承の内容から見れば、
  神祇及びその系統、神祇祭祀の大事
  國體の本源、皇位の繼承
  政事上の大事、氏族の出自
  大歌の由來
 といふ事になるであらう。
  :
 目的は敍事詩にあるのではない。
 又 歌謡や神話が豐富であるが、それらは古事記の全部てはない。
 又 歴史のやうであつても實際歴史としての傳承が目的でなかつたので、
  どこまでも祭政一致氏族政治時代の
  國家統治上の口誦的傳承を組織したものであるといふ事になる。
 だから古事記を材料として
 神話、歌謠、歴史を論ずることはもとより吾人の彼是と喙を挿むべき事ではないが、
 古事記全體を一括して見れば、
 上述の如き事が本質であるといふより外にいひ方がない。
 若し古事記を、最もよく本質に觸れた見方からして材料とするならば、
  古代のわが國體法制を記述したものと見るべきものである。


古事記を材料として、神話、歌謠、歴史を論ずるのではなく、全體を一括して見るべしというのは、その通り。
ただ、その理由は、国家精神と言うか、国体を現したもので、絶対的な尊崇対象であるからとされる。皇国の粋を極めている書というのである。本文の内容から見て、どうしてそう言えるのかわかりにくいが、実際、皇国軍事独裁体制はそのお蔭で盤石だったようだから、信仰とはそういうものなのだろう。

ともあれ、序文の内容を頭に入れた上で本文を読むと、矛盾や余計な付け足しに見える箇所、はたまたえらくヘンテコな記載が見えてくるのである。
天皇命で作成されている第一級の書に間違いやいい加減な引用がある訳もなく、それらは意図的にそうなっているに違いなく、それを考えると太安万侶の考え方がわかるようになっていると見るべきだろう。
それは謎掛けの類ではない。本質が伝わるように工夫して書いてあるだけ。それが読め取れない人は、読者対象としていないのだ。国史や大衆書とは違う。

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