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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.19] ■■■
[322] [私説]片崗御陵時代は激動期かも
事績無収録(例外…竺紫君石井征伐の事績📖)に徹している、24〜33代天皇段の意味を探るべく、御陵名の記載を読み解いてみようとの試みを続けていこう。・・・

と言うことで、22〜29代の御陵地域設定がどうなっているのか見ていこう。えらく、わかりにくい部分だが、前半と後半に分けると、太安万侶があえて御陵地無記載にした気分もなんとなくわかって来る。
先ず、無記載の22代だが、婚姻せずのため、御名代部が設定された天皇である。父が、ライバルとなる皇族を根絶やしにしたため、崩御後皇統断絶に直面した訳だ。
  故 天皇崩
     …白髮大倭根子命/[22]清寧天皇@伊波禮甕栗宮
  後 無可治天下之王也
  於是 問日繼所知之王
  市邊忍齒別王之妹 忍海郎女 亦名 飯豐王

     …角刺神社@葛城忍海(宮跡)+卍忍海寺(御陵)
  坐 葛城忍海之高木角刺宮 也

忍海郎女は、天皇の崩御以前から皇后的存在だったのだろう。そうだとすれば、実質的宮はもともと葛城だったことになる。飯豐王が皇継決定権を押えていたようだから、御陵の地も決めたと見てよいのでは。しかし、それは先代天皇の息のかかった御名代部の志向とは反するものであってもおかしくなかろう。そのため、22代の御陵地確定が難しかったのではあるまいか。葛城地区に関する残存文字情報が極めて少なかったこともあろうし。
しかし、御陵で皇嗣儀式が行われただろうから、葛城忍海からは離れていても、奈良盆地西部地域に設定されている筈だ。要するに、7代辺りの地域に戻されたのである。
飯豐王の影響が残る時代の御陵は、この辺りということになろう。24代は、23代の兄であり、片方だけ情報が欠ける必然性に乏しく、近隣御陵との伝承があっておかしくないが、太安万侶はそれには従わなかったのだろう。風土記からは想定できないものの、播磨に寿陵を造らせていた可能性があるからだ。

ただ、区分的には、下記の"不明瞭-I"は、奈良盆地内葛城勢力の地、ということになろう。それを感じさせるように記述されていると言ってもよいだろう。
しかも、全体構成を考えた上での御陵記述になっており、"無記載"自体にメッセージ性が生まれており、その知性のレベルの高さには恐れ入るばかり。

葛城と言えば一言主が頭にうかぶように、16代天皇が、天皇同等とみなした勢力の地。瀬戸内重視で、奈良盆地に興味がなさそうに描かれており、嫉妬談になってはいるものの、海側勢力 v.s. 従来型盆地勢力(葛城)の角逐を象徴しているのはすぐにわかる。この対立は、後世まで続き、ついには難波宮炎上に至る。表面的には、熾烈な皇嗣争いではあるものの、盆地内居住の地方代表勢力を取りまとめようと図る葛城と、インターナショナルな展開を急ぐ脱盆地勢力の激突を予想される流れが示されている訳だ。御陵における皇統継承祭祀が行われた記録はあっても、どこまで信用すべきかは難しい問題だったろう。
要するに、伝統の中央-地方の2重構造型 v.s. インターナショナル標準とも言うべき中央集権型、の対立が熾烈化したということ。既存勢力からの揺れ戻しと見ることもできよう。

太安万侶的視点からすれば、国際情勢から見れば無理筋追及がなされた時代とになり、意味の薄い皇位継承の戦いが行われていたことになろう。事績を記述する気力を喪失して当たり前。

奈良盆地外竹内街道 📖[私説]小治田宮への道間の角逐
 ○磯長谷…33, _, 31, 30
   《32》寺川上流宮地近辺
不明瞭-II
 □無記載…29, 28
   《27古市》河内古市高屋村
   《26高槻》三島之藍[≒今城塚古墳]
不明瞭-I
   《25片崗》片崗之石坏崗
 □無記載…24 <↑この代から事績記載無し>
   《23片崗》片崗之石坏崗上
 □無記載…22
奈良盆地外海側
 ○古市…21, _, 19, ____, 15, 14
 ○百舌鳥…___, 18, 17, 16
奈良盆地内東山麓
 ○巻向柳本…_________, 12, _, 10
奈良盆地内西北
 ○佐紀…_, 20, ________13, _, 11, _, 9
   《20》菅原伏見 📖[私説]皇統を示す地から外された御陵例
   《13沙紀之多他那美
   《11菅原之御立野中
   《_9伊邪河之坂上
奈良盆地内西
 ○片崗…7
   《_7片崗》片岡馬坂上

---------------📖古墳リスト再掲---------------
  《馬見古墳群@広陵〜大和高田》…大和川支流葛下川流域
●馬見@広陵〜大和高田
  (川合)大塚山215m▲△🈭
  築山210m🈭
  巣山204m🈜
  新木山200m🈭
  島の山190m🈜
  新山137m[前方後方]🈜
  乙女山130m[帆立貝]
  佐味田宝塚112m
  狐井城山109m
  ナガレ山105m
  牧野50m[円]…前方後円墳消滅の頃
〇香芝
  狐井城山140m🈝
  (観音山/さね山)…銅鐸出土
〇葛城
  新庄二塚60m
  平林@当麻兵家55m🈡
●御所
  室大墓/宮山240m▲△🈭
  掖上鑵子塚150m△🈭
  條ウル神100m
  巨勢山[群:700]
  ネコ塚[円]70m
  みやす塚[円]50m
  水泥[円]
  鴨都波[方]20m
  三室博多山[自然丘]=掖上博多山上陵◇5
  玉手宮山=玉手丘上陵[円丘]◇6
  (楢原遺跡)=交流拠点

  《宮内庁治定陵》
片丘馬坂陵(御廟所)@王寺本…[7]孝靈天皇
傍丘磐坏丘南陵@香芝北今市…[23]顯宗天皇
傍丘磐坏丘北陵@香芝今泉…[25]武烈天皇

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---磯長谷@南河内 太子 📖御陵記載が必須である意味
↓上ノ太子駅
└──┐┼┼┼┼┌┘
─○─────┘近鉄南大阪線
┼┼┼└┐
┼┼┼┼└┐
┼┼┼┼┼└┐R166:竹内街道
┼┼┼┼└┐ ←山田上ノ山古墳(円)◇36
┼┼┼┼┼└────────
┼┼┼┼┼┼┼┼ ←小野妹子墓
┼┼┼┼┼┼↑山田高塚古墳(方)=科長大稜◇33
┼┼┼┼↑春日向山古墳(方)=科長中稜◇31
↑太子西山古墳(前方後円)=川内科長◇30
  ---
◇32…寺川上流宮地近辺に比定地@倉橋池北東側。
   7の宮は寺川に近い。
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◇29…無記載
◇28…無記載

  ---古市
◇27, 21, 19, 15, 14
  ---
◇20…@菅原伏見
◇11…@菅原
  ---
◇26…@摂津 高槻
◇24…無記載
◇23, 25…@王子辺り(7:それ迄と違い宮地と離れた地。)
◇22…無記載
---百舌鳥
◇16, 17, 18
---巻向柳本
◇10, 12

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