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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.21] ■■■
[628]焼畑粟から水田稲へ
今では語られることがないが、"産業の米"との用例があったところを見ると、米は稲とは違う概念であることに薄々気付いていた可能性もあるが、稲籾を取ると米になるという見方が一般的になっている。もともとは<粟>の実を指す文字。隋朝以前の中原中華帝国では、稲は南蛮イメージが被さる穀だったと見てもそう間違っていないと思う。
  <米>:粟實也 象禾實之形 @「説文解字」

このことは、日本列島にも当て嵌っていたようで、≪低湿地水田稲作 v.s. 山麓畑穀類作≫と云っても、初めは勝負にならない程粟一色だったが、次第に水田勢力が力を持つようになったということになろう。
  📖美母呂山の神について 📖「古事記」の蠶譚で見えてくること

有史代の倭国では、両者拮抗状況と考えられる。農地棲み分けができていれば、国としてまとまることができたようである。
  [魏志倭人伝]種禾稻紵麻 蠺桑 緝績出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲
  [隋書]土 ♂ム稻麻紵 蠶桑 知織績爲縑布

ただ、稲が陸稲か水稲かが不透明なので、そう見てよいかはよくわからない。種を頒布したのは、文脈から見て、五穀譚の大宜都比売⇒神産巣日神⇒[子]少名毘古那神⇒[パートナー]大国主命としか思えなし、風土記からするとこの稲は陸稲を意味していそう。
但し、五穀譚はあくまでも中華帝国の観念であり、それに倣った見方が日本列島に入っていたことになるが、中国の国史では、属国は五穀が記載されているにもかかわらず、倭国は禾稻としている。粟=禾を筆頭に書いており、倭国に自分達の古き時代を想像しながら見ていたに違いない。(上記国史記載の鵲はニワトリの誤写ではない。編纂者としてはそう書きたかったろうが、半家畜的に存在しているので、嘘とみなされて首が飛びかねないから、野鳥のカササギが居ないとしたのだろう。)📖鵲は登場せず 玄色鳥は鵜

ともあれ、粟國📖阿波は麻の国ではなく粟時代の雄と小豆嶋が先鞭をつけており、粟栽培で國が成り立つ時代が倭国の曙光期ということになろう。
  於二目生稻種
  於二耳生粟
  於鼻生小豆
  於陰生麥
  於尻生大豆


初代天皇即位以前は、粟が主穀であったことは、天皇自らが、久米人ともに謡っていることからも、まず間違いなかろう。📖中巻初代天皇段所収歌13首検討・・・
[歌12]【久米人】@東遷戦いに当たって気勢を上げる
        如此歌 而 拔刀 一時打殺也
        然後 將擊登美毘古之時 歌曰:

    みつみつし 久米の子等が
    粟生には 臭韮一本 苑が本
    そ根芽繋ぎて
    撃ちてて止まむ

美美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟
  [「古事記」]賀美良=香韮(韭)
  [「萬葉集」]久君美良[巻十四#3444]=茎韮
  [出土木簡]古美良(コ韮)⇔(大蒜)大美良
尚、粟は天竺(セイロン島譚だが)での穀類とは受け取られていなかったと思われる。[大乗経典「入楞伽経」4世紀後半]・・・米 大麦 小麦  緑豆 豆 小豆  酪  胡麻油  蜜 粗糖 黒糖 蜜糖 糖汁
ついでながら、粟が主穀とすれば、この歌での一本の韮とは、香りを振りまく作物守護の強い力を発揮する呪草を意味している筈。「たとえ切り取られても根は残っているから復活する。だからこその勝利。エイエイオー!」ということになろう。

それなら、様々な粟の歌があってしかるべきと思ってしまうが、「萬葉集」所収歌はわずかである。
[巻三#404]ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
[巻三#405]春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
[巻十四#3364]足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし
[巻十四#3451]左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ
[巻十六#3834]梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く
しかし、「出雲國風土記」「播磨國風土記」では粟時代の存在を示唆していない。
「出雲國風土記」飯石郡多禰鄉 屬郡家
  所造天下大神 大穴持命 與 少彥名命須久奈比古命 巡行天下時
  
稻種墮此處
  故云 種

「出雲國風土記」仁多郡三處鄉 即 屬郡家
  大穴持命大國主命詔:「此地
好 故吾御地占」詔
  故云 三處

「播磨國風土記」揖保郡御橋山
  大汝命積
立橋 山石似橋
  故號 御橋山

「播磨國風土記」揖保郡稻種山
  大汝命大國主 少日子根命 二柱神 在於神前郡 堲岡里 生野之岑
  望見此山云:「彼山者 當置
稻種」即遣稻種 積於此山 山形亦似稻積
  故號曰 稻種山

「播磨國風土記」賀毛郡飯盛嵩
  右 號然者 大汝命大國主之
御飯 盛於此嵩
  故曰 飯盛嵩

「播磨國風土記」賀毛郡粳岡
  右 號粳岡者 大汝命大國主 令
舂稻於下鴨村 散粳飛到於此岡
  故曰 粳岡

ところが、「伯耆國風土記(逸文)」を見ると、粟栽培普及を進めている少日子根命の姿が見えてくる。粟派はついに弾き飛ばされたようにも読める。
「伯耆國風土記(逸文)」相見郡 郡家西北 有餘戶里 有 粟嶋
少日子命
蒔粟 莠實離離 即載粟彈 渡常世國
故云 粟嶋 也

蘇民將來譚は出自が見えてこない上、不快な宗族はなんとしても抹消させるという生の儒教信条を示していそうだが、ここでは主穀が粟とされている。たとえお世話になっても、女系の血以外は生き残らせない方針からすると、徹底した反粟感情が存在しているのかも。
「常陸國風土記」筑波部
  古老曰:
  昔神祖尊巡行諸神之處 到駿河國福慈岳 卒遇日暮 請欲遇宿 此時 福慈神答曰:
  「
新粟初嘗 家內諱忌 今日之間 冀許不堪」
  於是 神祖尊恨泣 詈告曰:
  「即汝親 何不欲宿 汝所居山 生涯之極 冬夏雪霜 冷寒重襲 人民不登 飲食勿奠者」
  更登 筑波岳 亦 請容止 此時 筑波神答曰:
  「今夜 雖新粟嘗 不敢不奉尊旨」
  爰設飲食 敬拜祗承 於是 神祖尊歡然 諱曰:
  「愛乎 我胤 巍哉神宮
   天地並齊 日月共同 人民集賀 飲食富豐 代代無絕 日日彌榮 千秋萬歲 遊樂不窮者」
  是以 福慈岳常雪不得登臨 其筑波岳 往集歌舞 飲喫 至于今 不絕也

「備後國風土記(逸文)」疫隅國社
  昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎結婚與波比 爾坐 爾日暮
  彼所蘇民將來二人在伎 兄蘇民將來 甚貧窮 弟將來 富饒屋倉一百在伎
  爰塔神借宿處 惜 而 不借
  兄蘇民將來 借奉 即以
粟柄為座 以粟飯等饗奉
  爰畢出坐後 爾 經年率八柱子還來天詔久:
  「我將來之為報答 汝子孫其家爾在哉」止問給
  蘇民將來答申久:
  「己女子與斯婦侍」止申
  即詔久:「以茅輪 令著於腰上」隨詔令著
  即夜 爾 蘇民之女子一人乎置天 皆悉殺滅許呂志保呂保志天伎 即詔久:
  「吾者 速須佐雄能神素戔嗚尊也 後世仁疫氣在者 汝蘇民將來之子孫止云天
   以茅輪著腰在人者 將免」止詔久

当然ながら、皇孫の地は粟ではない。しかし、峰に降臨して水稲栽培でもなかろうという点で、どうして皇孫が稲魂と関係するのか、もともと、よくわからない話である。
「日向國風土記(逸文)」臼杵郡內 知鋪郷
  天津彥彥火瓊瓊杵尊 離天磐座 排天八重雲 稜威之道別道別 而
   天降於日向之高千穗二上峰時
  天暗冥 晝夜不別 人物失道 物色難別
  於玆有土蜘蛛 名曰大鉗小鉗二人 奏言:
  「皇孫尊 以尊御手
拔稻千穗為籾 投散四方 必得開晴」
  于時 如大鉗等所奏 搓千穗稻 為
籾投散
  即天開晴 日月照光 因曰高千穗二上峰
  後人改號 智鋪


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