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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.5] ■■■
[612]美母呂山の神について
≪低湿地水田稲作 v.s. 山麓畑穀類作≫の見方をする人がいない訳がなかろうが📖「古事記」の蠶譚で見えてくること、おそらくここだけ取り上げることになるから、せいぜいがマイナーな説の1つとされているに違いない。そこから一歩進めて、≪天津罪 v.s. 国津罪≫を関係づけたりすれば、無視されるだけのようにも思えるが、どうなのだろうか。📖天津罪について

つまらぬことを書いたのは、ここらの話は素人以外は余り取り上げないのではないかと思ったから。・・・「古事記」が須佐之男命の出雲系譜を、まるで皇統譜と同一次元と云わんばかりに記載している理由を探ることなどできかねるだろうし、推測だけで述べる訳にもいくまい、と云うことで。

素人からすれば、気になるのは、大国主命譚を細かく記載する出雲重視姿勢そのものより、頭を欠く上に、尻切れトンボ的になっている点の方。・・・
n.a.⇒氣多(裸菟)⇒稻羽(八上比賣)⇒伯岐國[焼死]⇒木國(大屋毘古神)⇒根堅州國(須佐能男命・須勢理毘賣) via.黄泉比良出雲[作國]⇒高志國(沼河比賣)⇒出雲(嫡后)⇒<騎馬>倭國
 [歌5]【大国主命】嫡后の嫉妬の抑制
   ・・・群鳥の 吾が群往なば 引け鳥の 吾が引け往なば
    泣かじとは 汝は言ふとも 倭の 一本薄・・・

 [歌6]【須勢理毘賣命】<~語>契り再確認
   ・・・寝を為寝させ 豊御酒 奉らせ

はたして、嫉妬に直面して、大和地区行幸を決行したのかは実は定かでない。当然ながら、倭國の比賣との相婚を目論んだことになるが、その名称は不明だし、それが実現したのか、取りやめたのかは、読者のご想像におまかせという記述になっている。

ここらは実に悩ましい。・・・倭國の何処に行こうとしていたのかだが、不明とするしかなさそうに思ってしまうが、その一方で、<美和山>の比賣と違うか、という気分になりそうな記載がなされているからだ。
唐突にも、少名毘古那神を失ってしまうと、<御諸山>に座すので祀れと指示する神が渡来して来る。
 「吾者 伊都岐奉于倭之青垣東山上 此者坐<御諸山>上神也」
ここが又厄介で、もともとは御諸=美母呂みもろという名称の山なのに、突然、三輪=美和みわに変わってしまう。(「万葉用字格」[借訓]御諸ミモロ 三輪ミワ)📖[安万侶サロン]御諸山信仰の核心 📖「古事記」が示す大物主神の独自な性情 📖 御諸山の大物主大~の意味

それは、皇統譜上で、御諸山の神が初代天皇を継承する皇子の母系祖となった時から。・・・
 三嶋湟咋之女 名 勢夜陀多良比賣 其容姿麗美
  故 <美和>之大物主神 見感 而
  其美人爲大便之時 化丹塗矢 自其爲大便之溝流下 突其美人之富登


┼┼┼┼┼<美和>之大物主神
┼┼┼┼┼└┬─勢夜陀多良比売(三嶋湟咋の娘)
┼┼┼┼┼┼丹塗矢陰部突き
┼┼┼┼┼┼富登多多良伊須須岐比売命
┼┼┼┼┼┼│ (=比売多多良伊須気余理比売)
初代天皇@狭井の河之上(三輪山麓)
└┬───┘<大后>
┼┼├─日子八井命
┼┼├─神八井耳命
┼┼└─神沼河耳命⇒皇位継承
<美和>の地名由来譚は別途記載されている。三輪山〜巻向山〜柳本📖山の辺の道時代(盆地内)に初期前方後円墳が登場した頃と目されるが、御諸山の神が娶ろうということで、なんと奈良盆地外の河内之美努村まで出向いての通い婚。臍の緒的麻糸巻をすべて使うほどの遠距離であるというお話とも読める。(あるいは、その場所は山の辺の道沿いかも。)大国主の代理として、本拠地から遠い地区の比売を娶って勢力圏を広げていたことになろう。数々娶ったなかでは、河内の比売が最愛ということだろうか。
普通に考えれば、大物主神の后の地域とは、御諸山一帯の神ということになるが、そうでないなら、倭に於ける大国主的存在ということになってしまうのでは。・・・
 即以意富多多泥古命[@河内之美努村] 爲神主 而
 於<御諸山> 拜祭 意富<美和>之大神前・・・
 ・・・自然懷妊 是以其父母 欲知其人 誨其女曰
   以赤土散床前 以"閇蘇"紡麻貫針 刺其衣襴 故如教 而
   旦時見者 所著針麻者 自戸之鉤穴控通 而 出
   唯遺麻者 三勾耳 爾 即知自鉤穴出之状 而
   從糸尋行者 至<美和山> 而 留神社
   故 知其神子 故因 其麻之三勾遺 而 名其地謂<美和>也。


ともあれ、これを以て、<美和>に改名されたと考えがち。ところが、その<美和>河で娶ることを約束した引田部の赤猪子との出会いの地はあくまでも<美母呂>とされている。地名に関するこだわりが矢鱈に強いことがわかる。
 [歌92]【天皇】志都歌 婚姻の約束を忘れたままだった
    三諸[美母呂]の 厳橿が本 橿が本 由々しきかも 橿原乙女

 [歌94]【赤猪子】志都歌 待たされ続けた、と
    見諸[美母呂]に 築くや玉垣 築き余し 誰にかも依らむ 神の宮人


そんなことを気にし始めると、赤猪子譚が光って見えてくる。17代天皇から、男女の恋愛観が大きく変わったことを、<美母呂>⇒<美和>で示唆しているようにも思えるからだ。
かつての天皇は、暗殺のリスクなどどこ吹く風で、歌垣に参加し、直接的に愛を語って女性を娶っていたのであるが、そんな時代は終焉を迎えつつあった。天皇であっても、臣下のお膳立てで朝廷の規律に従うしかなくなっていく。【赤猪子】への求婚は、そんな雰囲気のなかで、まさにノスタルジアそのものと言ってよいのでは。
それは、<美母呂>の乙女を娶った、<御諸山>の神の姿を彷彿させるものがある。このことは、初代天皇が大和に入る以前は、山ノ辺の路一帯は倭の青垣の比売を頂く女系の地であったことになろう。そこから赤土器生産の地たる河内之美努村に移って行った理由はわからないものの、この比売は麻糸織女と見るのが自然だろう。

こうした初代天皇以前に関するノスタルジアは大長谷若健命の前から、倭国中央には存在していたと考えるべきだろう。息長帯比売命は、わが皇子が皇位継承の戦いに勝利したことを祝う宴にあたって、驚くことに大国主命の補佐役とも云うべき少名御神の名前を持ち出して来ているからだ。・・・
 [歌40]【神功皇后】天皇勝利凱旋の酒宴📖石立たす少御神と酒宴
    此の御酒[美岐]は 吾が御酒ならず
    御酒(奇[久志])の司[加美] 常世に坐す 石立たす 少名御神[須久那美迦微]の
    神祝き[加牟菩岐]・・・


この様な見方をするのは、[歌92/94]美母呂という音素表記にどのような漢字を当てるかという問題でもある。
  [巻七#1095]<三諸>就く <三輪山>見れば 隠口の・・・
  [巻七#1240]玉くしげ <見諸>戸山を 行きしかば・・・

こうして眺めていると、所知初國之御眞木天皇とされる所以は、<御諸>⇒<三輪>にあるようにも思える。神君と鴨君勢力を使って、大和国にまだ残っていた大国主命系の独自の神権を切り崩したと共に、女系の色彩が抜けきれない葛城〜金剛〜巨勢時代📖から脱したということでは。

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