→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.2] ■■■ [609]「古事記」の蠶譚で見えてくること そろそろ、天照大御神 v.s. 速須佐之男命の解釈に踏み込んでみようか、といった気分で書いているだけ。だらだらと長いが、文章量はそれほどではないので、サッと眺めて頂ければ、主旨はなんとなくお分かりになれるのでは。 検討対象は、天安河の ここでの記述では、速須佐之男命が行う暴虐の仕方がいかにも突拍子もない呆れかえる様なモノなので、読者は思考停止状態に陥ってしまい、細々とした点にばかり目が行ってしまいがち。それは拙いと云うことで大きな流れで解釈しようとすると、自分の考えている「古事記」像に合わせて大雑把に見るだけになってしまうこと請け合い。 従って、現代人にとっては意味をとらえにくい段である。 しかし、宇氣布の扱いをはっきりさせておくと、読み方も定まってくるので、実は、それほど難解な訳ではない。ここは、≪呪 v.s. 呪≫が描かれていると理解できれば、すべてが自然にわかってくるからだ。📖呪は倭人の心根だが仏教用語でもある 📖宇氣比は誓約と同義ではなさそう 換言すれば、≪天津神 v.s. 国津神≫の根源が<呪>行為を通して示されているだけの話。それに気付けば、意味は自ずとわかってくる。その対立には、抜き差しならぬものがあることが示されている訳で、それを解消するための動きが≪国譲り≫ということになる。(中華帝国とは対立克服の手法が全く違う。) そんなことだろうとは、全篇を読んでしまえば、薄々気付くが、速須佐之男命の行為と結びつける確証がないので、お茶を濁しておくのが普通。だが、ここで一歩踏み込まないと、太安万侶の折角の努力に応えることにならないので、挑戦しておこう。 ・・・そう決断しさえすれば、この箇所の読み方は"一意的に"すぐに決まる。 頂点を極める暴虐が、速須佐之男命が斎服殿に逆剥した天斑馬を放り込んだことだからだ。 この暴虐の結果、天の服織女が杼で陰部を衝いて自死するので、現代人の理解を越えていて、何を意味しているのかはなはだ解り難いし、西洋化された土壌では、この部分の細かな分析に踏み込もうとする人も出てこないだろうから、解釈どころではなさそうに見えるが、実は逆。 ≪天津神々の生業 v.s. 国津神々の生業≫の対立から生まれた呪の仕草と見ればなんら驚くにあたらない。逆剥天斑馬の斎服殿投げ込みとは、古代のセンスでの≪呪 v.s. 呪≫の一大決戦として描かれているだけのことだからだ。 (初期の中華帝国では、信仰的に合わない敵対部族は抹殺し、水利・領地圏を奪取することが国家的命題だったようなもの。神権確保が王権樹立に直結していれば、そうならざるを得ない。その頃は、敵対部族の生き残りを捕囚として都に連行し天帝祭祀に際して生贄として捧げていたのである。大陸では今でも厳然として存続している宗族廟祭祀はここらが原点。但し、生贄以外は抹殺というステップ民的粗放農業発想は比較的早くに廃れたようだ。労働集約農業化が進み、国富増大には属国化・奴隷化が常識となり、帝国の地理的拡大が国家的命題と化してしまったからだ。その風土に収まる唯一の信仰こそが儒教。) この対立での、逆剥天斑馬の呪の意味だが、考えられるのは中華帝国の蚕王信仰との対立。 葦原中国でも、殺された大宜津比賣~の頭から蚕が生まれるのだから、古くから家蚕の絹織物作りも確立していた筈で、蚕信仰が存在していておかしくないこともあるし。 そして、家蚕飼育と並んで麻栽培もなされていて、穀類農業、家畜は一切無しとの状況も、そう考える妥当性を後押ししてくれる。 ●「三国志」魏書 東夷伝倭人条 種 禾稻 紵麻 蠺桑 緝績 出 細紵 縑緜 其地 無 牛馬虎豹羊鵲 意外といっては何だが、古くから家蚕飼育が行われていた割には、本朝には、蚕譚は少ない。その後は主流の蚕信仰は仏教であり、そこらを勘案してもよさそう。 ●絹糸発生譚📖[「今昔物語集」巻二十六#11] 参河国始犬頭糸語 ●📖帝国中央樹木 その仏教だが、蚕信仰は天竺発祥ではないことが明らか。しかも、日本国での習合で勃興したものでもなさそう。一方、大陸では、古代から信仰されていたのはまちがいなく、それが仏教に取り込まれたことになる。・・・ 金剛智[譯]:「馬鳴菩薩大神力無比験法念誦軌儀」で記載される菩薩は、織物で財をなす福徳が得られる天竺僧である。蠶についても触れられていることもあってか、蚕神と習合して信仰を集めて来た。本朝では、"曼陀羅"と呼ばれる絵図が核になっていたらしいが、極めて中国的な様相で描かれており、持物や眷属が蠶関係しか無いこともあり、出自が大陸であることをしいて強調しているかのよう。本朝で養蚕業が勃興したのと軌を一にして篤い信仰を集めてきたようだが、古くから存在していたとは思えない。 常識的に考えれば、天竺で、馬と係わり合いが深い菩薩信仰が中華帝国に入って来て、馬と蚕の「氣」を同一視する観念があったので、蚕の菩薩とされたとなろう。この仏典の蠶部分は中華帝国で挿入されたと見ることになる。蠶母信仰がすでに確立していた状況に、仏教が浸透し、道教の一部と化しつつあった地場の蚕の神々の眷属化が図られたのだろう。 このことでわかるように、大陸での馬=蚕観念は根強いものがある。家蚕自体が5000年前に存在していたことが知られている。神話・異類信仰の抹消に血道をあげてきた儒教の国なので、その観念の発祥時点は文献で探れるものではないが、残存資料からうっすらと全貌が見えてくる。・・・ ●「山海経」海外北経📖 歐絲之野在大踵東 一女子跪據樹歐絲 桑無枝 在歐絲東 其木長百仞 無枝 ●干宝:「捜神記」巻十四(4世紀@東晋 [帝嚳高辛氏時 蜀中(成都)]馬と娘の間に愛情が芽生えたので、馬は殺され皮を剥がされる。その馬の皮は娘を包んで飛び去ってしまうが、やがて糸を吐く蚕となって大木に降りて来る。・・・ ●「蜀郡圖經」 ●孫顔@唐:「神女記」蚕女 ●「荀子」卷第十八賦篇第二十六 <註>女好 柔婉也 其頭又類馬首・・・「蠶書」是蠶與馬同氣也 ●張儼@呉:「太古蠶馬記」 ●「酉陽雑俎」続集巻一 支諾皋上@唐 巨蚕@新羅📖欲深の真似ごと説話 ●王禎:「農書」1300年-農桑通訣巻六"蠶繅篇第十五" 「淮南王蠶經」云:黃帝元妃西陵氏始蠶 蓋黃帝製作衣裳 因此始也 これらの蚕譚は類似性が強い。しかも、本来あるべき馬-女間の恋愛感情に係るストーリーが欠落していることが一大特徴。明らかに、儒教統制の影響である。そのことは、国家祭祀としてまとめ上げられることを意味するが、祭祀者は天子にならず、例外的に皇后が担当している。 ●「周礼」巻二天官 内宰条 中春 詔后帥外内命婦 始蠶子北郊 以為祭服 長々と、バックグラウンドについて語ってしまったが、要するに養蚕-絹織物には、馬婚=蚕神信仰が付いて回っていることになる。 ここまで書けばご想像がつくように、速須佐之男命はアンチ馬婚=蚕神信仰ということ。 もちろん、それは個別的な姿勢ではなく、≪天津神々の生業 v.s. 国津神々の生業≫の一面でしかない。 家蚕 v.s. 麻&藤📖花木代表は櫻・柊・藤 ここには基本的自然観の対立が根底にあると見てもよいだろう。 家畜 v.s. 飼獣鳥 このように考えれば、「古事記」記載の、天照大御~の營田に於ける狼藉行為もすべて同様な呪とみなせることになろう。・・・ 低湿地水田稲作 v.s. 山麓畑穀類作 ●「・・・自我勝云」而 於勝"佐備" 離天照大御~之營田之"阿"埋其溝 亦 其於聞看大嘗之殿 屎"麻理"散 故 雖然爲 天照大御~者登賀米受 而 告:「如屎 醉而吐散"登許曾" 我那勢之命爲如此 又 離田之阿埋溝者 地矣"阿多良斯登許曾" 我那勢之命爲如此 "登" 詔雖 直猶其惡態不止 而 轉 天照大御神 坐忌服屋 而 令織~御衣之時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥 而 所墮入時 天服織女見驚 而 於梭衝陰上 而 死 ●速須佐之男命立伺其態爲穢汚 而 奉進 乃殺其大宜津比賣~ 故所殺~於身生物者 於頭生蠶 於二目生稻種 於二耳生粟 於鼻生小豆 於陰生麥 於尻生大豆・・・ 📖「古事記」の五穀発祥は的確 ここだけ書くと、≪天津神々の生業 v.s. 国津神々の生業≫が強引な私見に映っておかしくないが、この見方は太安万侶の解説に基づいている。 周到にも、大祓の儀でそれがはっきりと示されているのである。実に周到。 しかも、その基本は大"奴佐"とある。天照大御~の復活時点から麻は穢罪を祓う際の不可欠な祭祀用具として使われている訳で、≪家蚕 v.s. 麻&藤≫ではあるものの、葦原中国の原点は"麻"にありでは対立などしていないのである。 ●・・・既崩 爾 驚懼 而 坐殯宮 更取國之大"奴佐" 而 種種求 生剥 逆剥 阿離 溝埋 屎戸 上通下通婚 馬婚 牛婚 鷄婚 之罪類 爲國之大祓 而 ●"(卵⇒)芋虫⇒繭⇒蛾"の3変態の虫の話 📖蚕女・大気都比売・三色奇虫の関係 これだけだと、少々わかりにくいところがあるが、「六月晦大祓祝詞」(「延喜式」卷八祝詞)にはこの記載に沿ってママ編集された規則が収録されている。・・・ ●天之益人等我 過犯家牟雜雜罪事波 天津罪止八 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 許許太久乃罪乎 天津罪止法別氣氐 国津罪止八 生膚斷 死膚斷 白人 胡久美 己母犯罪 己子犯罪 母與子犯罪 子與母犯罪 畜犯罪 昆虫乃災 高津神乃災 高津鳥乃災 畜仆志蠱物爲罪 許許太久乃罪出武 実にわかり易い。 天津神にとって重要なのは、低湿地水田稲作であって、この妨害は万難を排して排除することになる。山麓畑穀類作と棲み分けができる初期はよいが、開墾が野や林に進むとそうはいかなくなる。 速須佐之男命の行為は、一見、水田耕作妨害行為に映るが、山麓畑穀類作の当然の姿勢とも云える。畦・溝・樋で畑地に水を流入されたのではたまらぬし、稲の栽培とは違って粗放的に行うなら重蒔は当たり前の農法。焼畑であれば、連作を避ける必要があるので畑地所有の目印など不要だが、水田は所有(串刺)についての厳格性が必要となる。牛馬を水田耕作に利用すれば収量増大は顕著であるから、大切にされるが、畑作では無用の草食動物で飼って、焼畑可能地を減らすことなどあり得まい。 一方、国津神の領域では殺人傷害やそれを思わせる行為を深く嫌っていたようだ。母系制を壊しかねない姦淫については厳格そのもの。他は病気と自然災害発生に罪感覚を覚えていたことがわかる。さらに、呪詛濫用を嫌っていたらしいことも見てとれる。 国津神からしてみれば、馬婚の蚕女信仰など許し難きものであっておかしくなかろう。(馬-蚕女の恋は現代人にはどういうことかわかりにくいが、両者間に精神的紐帯が生まれること自体はおかしなことではない。極めて面倒で神経をすり減らす養蚕と、馬の餌やり・手入れだけの、日々とてつもない重労働をする女性が存在すれば、半ば必然の現象だからだ。そのような女性の存在のお蔭で上質の繭生産ができたということでもある。) ≪天津神々の生業 v.s. 国津神々の生業≫の文化的対立は小さなものではない。・・・それが太安万侶の見解。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |