→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.4.16] ■■■ [662]本文のプレ道教性[4]星剣化以前の聖剣 (「萬葉集」には、星・夕星・明星・孫星/牽牛/男星/彦星/比故保思が登場してくるのに、「古事記」に、何故に、星の記載が無いのか、納得できそうな説明を見たことが無い。と云うより、その事実に全く触れずに議論される場合が少なくない。日本の風土をよくあらわす現象だが、そう書かれること自体が不愉快な人が大多数を形成している社会なので、そこらの説明は割愛。) ここでは、倭の精神が前駆道教との論旨とは違って、大陸道教とは異なる点について触れておきたい。 <星>が全く記載されていないので、見るべき対象は<剣>†になる。よく知られるように、呉越では<剣>は特別扱い。 ≪錫青銅劍[鳥蟲書体銘文]≫ "戉王鳩淺自乍用"越王勾践劔@湖北省荆州市江陵縣望山一號楚墓出土 56cm "吴王夫差自乍用矛"@(北江陵)馬山五號楚墓出土 30cm 【†】<剣>は両刃で接近相対戦闘に向く腕力を使う武器だが、<刀>は片刃で大きくて重量があり騎馬で慣性力で鎧もろとも切断することを狙っている。大陸は南船北馬の状況なので、剣の時代は終わり刀一色となる。その後、剣は呪器としての認知が一気に進んだことになろう。当然ながら、優良剣産といえば呉。・・・鄭之刀 宋之斤 魯之削 吳粤之劍 遷乎其地 而 弗能為良 地氣然也 [「周禮」冬官考工記] しかも、<星>と<剣>は深い関係にある。 「古事記」でも、剣の力については、様々な記述が見受けられ、しかも極めて重要視されていると見てよいだろう。 その発端は、"蛇を三尺劍で退治し天下をとった。"という話だろう。明らかに"秦(始皇帝)⇒漢(高祖)"を意味しており、「古事記」高志之八俣遠呂の切散蛇譚に似たモチーフと言えよう。 ■「吾以布衣提三尺劍取天下 此非天命乎?命乃在天 雖扁鵲何益!」 [「史記」卷八高祖本紀] 問題は、その聖剣の力の根源をどこに認めているか。 例えば、それは鉄の精だったりするが[「今昔物語集」巻九#44] 震旦莫耶造釼献王被殺子眉間尺語📖(石⇒玉⇒銅⇒鉄ということか。)、後世の日本の名刀だと、刀鍛冶の魂とか<星辰>と見ることが多そう。「古事記」では聖剣・レガリアとされてはいるが、道教的と考えるのは行き過ぎでは。星記載をしない以上、剣と星を同一視する道教型観念を避けているのは明らかだからだ。(天上から星が降りて来て、地上で作った剣に神聖性が付与されることになる。このため、剣に七星が刻み込まれたりしている。星は剣に墜ちてくるのである。「古事記」のように鍛冶が作った剣が天から降って来ることはありえない。) (剣に思い入れがあるのは一世風靡した登仙術のせいもある。)📖宝剣 ---------------漢籍の気になる箇所--------------- ■<吴書曰:「慈臨亡,歎息曰: “丈夫生世 當帯七尺之劍 以升天子之階 今所志未從 奈何 而 死乎!” 權甚悼惜之」> [「三國志」卷四十九 吳書四(注)] ■干將作劍 來五山之鐵精 六合之金英 候天伺地 陰陽同光 百神臨觀 天氣下降 而 金鐵之精 不銷淪流 於是干將不知其由 莫耶曰:「子以善為劍聞於王 使子作劍 三月不成 其有意乎?」 干將曰:「吾不知其理也」 莫耶曰:「夫神物之化 須人而成 今夫子作劍 得無得其人而後成乎?」 干將曰:「昔吾師作冶 金鐵之類不銷 夫妻俱入冶爐中 然後成物 至今後世 即山作冶 麻絰葌服 然後敢鑄金於山 今吾作劍不變化者 其若斯耶?」 莫耶曰:「師知爍身以成物 吾何難哉!」 於是 干將妻乃斷髮剪爪 投於爐中 使童女童男三百人鼓橐裝炭 金鐵乃濡 遂以成劍 陽曰干將 陰曰莫耶 陽作龜文 陰作漫理 [趙曄:「吳越春秋」闔閭内伝第四] ■「此吾前君之劍 中有七星 價直百金 以此相答」 [「呉越春秋」王僚使公子光傳 五年] ■夫有干越之劍者 柙 而 藏之 不敢用也 寶之至也 [「荘子」外篇刻意第十五] ■晉鄭王聞 而 求之不得 興師圍楚之城 三年不解 倉穀粟索 庫無兵革 左右群臣 賢士 莫能禁止 於是 楚王聞之 引<泰阿之劍>登城 而 麾之 三軍破敗 士卒迷惑 流血千里 猛獸歐瞻 江水折揚 晉鄭之頭畢白 楚王於是大ス 曰:「此劍威耶?寡人力耶?」 風胡子對曰:「劍之威也 因大王之神」 楚王曰:「夫劍 鐵耳 固能有精神若此乎?」 風胡子對曰:「時各有使然 【軒轅・神農・赫胥之時】 以<石>為兵 斷樹木為宮室 死 而 龍臧 夫神聖主使然 至【黃帝之時】 以<玉>為兵 以伐樹木為宮室 鑿地 夫玉 亦神物也 又遇聖主使然 死 而 龍臧 【禹穴之時】 以<銅>為兵 以鑿伊闕 通龍門 決江導河 東注於東海 天下通平 治為宮室 豈非聖主之力哉? 【當此之時】 作<鐵>兵 威服三軍 天下聞之 莫敢不服 此亦鐵兵之神 大王有聖コ。」 楚王曰:「寡人聞命矣」 [吳平@東漢:「越絶書」卷十一越絕外傳記寶劍第十三] ---------------「古事記」--------------- ■是伊邪那岐命拔所御佩之<十拳劔> 斬其子迦具土神之頸 ■於其 八雷神副千五百之黃泉軍令追 爾 拔所御佩之<十拳劔> 而 於後手布"伎都都"逃來 ■宇氣布時 天照大御神 先乞度建速須佐之男命所佩<十拳劔> 打折三段 ■速須佐之男命拔其所御佩之<十拳劔> 切散其蛇者肥河變血而流 故 切其中尾時 御刀之刄毀 爾 思怪以御刀之前刺割而見者 在<都牟刈之大刀> 故 取此大刀 思異物 而 白上於天照大御~也 是者 <草"那藝"之大刀>也 ■於是 阿遲志貴高日子根神 大怒曰: 「我者愛友故弔來耳 何吾比穢死人云 而 拔所御佩之<十掬劔> 切伏其喪屋 以足蹶離遣 此者在美濃國藍見河之河上 喪山之者也 其持所切<大刀>名 謂大量 亦名謂<神"度"劔> ・・・故 令取其御手者 即取成立氷 亦取成劔刄」 ■是以 此二~降到出雲國"伊那佐"之小濱 而 拔<十掬劒> 逆刺立于浪穗 趺坐其劒前 故爾 懼 而 退居 ■(天降也) 於是副賜其"遠岐斯"八尺勾璁鏡 及 <草那藝劔> ■故 其弟破御佩之<十拳劔> 作五百鉤 雖償不取 亦 作一千鉤 雖償不受 ■御陵在劔池之中岡上也 ■給其姨倭比賣命之御衣御裳 以<小劔>納于御懷 而 幸行・・・ 盛樂 故 臨其酣時 自懷出劔 取熊曾之衣衿 以劔自其胸刺通之時・・・ 以劔自尻刺通 爾 其熊曾建白言:「莫動其刀・・・ ■倭比賣命 賜<草那藝劍> ■故 爾 御合 而 以其<御刀之草那藝劔>置其美夜受比賣之許・・・ 到坐尾津前一松之許 先御食之時 所忘其地<御刀> [歌30]尾張に直に向かへる📖 ■又 吉野之國主等 瞻大雀命之所佩<御刀>[歌48]品陀の日の御子大雀📖 ■亦百濟國主照古王・・・亦 貢上<横刀>及大鏡 ■是 大長谷王詈其兄言:「一爲天皇 一爲兄弟 何無恃心 聞殺其兄 不驚而怠乎」 即 握其衿控出 <拔刀打殺>・・・ 其王子答詔:「然者 更無可爲 今殺吾 故 <以刀刺殺>其王子 乃 切己頸以死也 ■天皇 於是 惶畏 而 白:「恐我大神 有"宇都志意美"者 不覺白 而 <大御刀> 及 弓矢始 而 脱百官人等所服衣服以拜獻 ■天皇看行其浮盞之葉 打伏其婇 <以刀刺充其頸> 將斬之時・・・ ■爲詠曰:「物部之我夫子之取佩 於<大刀>之手上・・・[(歌)105]立つる赤幡見れ者📖 (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |