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■■■ 「古事記」解釈 [2023.2.26] ■■■
[歌の意味31]「記紀」重複歌の齟齬は当然
「記紀」読みを避けるべしとの立場からすると、なんの不思議もないが、「記紀」の歌の違いでことさら強調されることが少なくない話を取り上げておこう。

"「記紀」重複歌は、違う天皇段に収録されていたり、なかには全くの異譚であることさえ。"

これを耳にすれば、現代感覚だと、なんという恣意的な書きっぷりという印象から逃れ得ない。当然ながら、一体、どちらが潤色しているのかと訝ることになりがち。
   📖同一/類似歌
冷静になって考えればわかるが、太安万侶と国史プロジェクトの見方が違うだけでは。それぞれまともに仕事をしたことを物語っているに過ぎないと思うが。
異なるストーリーで同一歌が両立する筈なし、と頭から決めつけてしまうことになんらの疑問を感じない理由を考えた方が有意義だろう。(「古事記」を天皇賛美の書とみなす思考と似ている。どこからそう読めるのか小生にはさっぱりわからない。)

すでに書いて来たが、"歌曰"で引用されている作品は、当該歌詠み人の作歌であることを意味していない。皆知っている歌を使って謳うことは当たり前の行儀。センスが冴えていれば拍手喝采を浴びることになろう。当然ながら、ママが多いだろうが、部分替え歌も一興であるのは言うまでもなかろう。
ここらは、口誦叙事特有とも言え、歌詠み人の個人的な抒情を詠む文字歌とは根本的に違う。(天竺の叙事も幾通りかあり、すべてが原則口誦。当然ながら、類似だが異なるストーリーも乱立状態。統一が図られたのはベーダだが、文字化で伝承の固定化が図られた。サンスクリットはそのために生まれたと言ってよかろう。そのサンスクリットの音素概念を取り入れたのが「古事記」。)

人気のある歌は、様々な場面で謳われたに違いなく、当然ながら、伝承話を収集すれば、全く異なる譚で同一歌が登場してくる筈。それを編纂者はどう料理するかというに過ぎまい。
それでも、大勢としては「記紀」重複歌のほとんどは同一譚として収録されている。
ただ、数は少ないとはいえ、現代人の解釈では、全く意味が異なる歌とされている場合もある。そこだけは見ておく必要がありそうだが、以下の4ヶ所に目を通せば十分だろう。

<出雲健騙し討ち成功で得意三昧>…1首
[_24]やつめさす出雲建が佩る太刀黒葛多纏[巻]きさ身無しにあはれ📖
歌詞では、[記]"やつめさす"⇔[紀]"や雲立つ"の違いがある。
[記]倭建成敗完了歌⇔[紀]出雲での伝承歌というはなはだ異なるシーンに当て嵌められているが、倭建が出雲の伝承歌をそのまま謳ったと見ることもできるので、双方妥当な収録結果と考えることも可能。
倭建命は、惨殺した熊襲建への敬意と云うことで、名前を"賜って"おり、本来的にはこの歌でも何らかの魂を頂戴する意味が含まれていておかしくないと思うが、通説では、出雲健への嘲笑歌とされている。国史はこれとは異なる譚で収録しており、この通説と比較すると、わざわざ出雲に気遣いしているように映ってしまうので、折角の成敗譚が台無しとなるので、違和感を覚える。

<辞世的に、最後の気力で心持発露>…5首のうち3首
   (大和国→平群地域→我が家の3段階)

[_31]倭は国のまほろばたたなづく青垣山籠れる倭し麗し📖
[_32]命の全けむ人は畳薦平群の山の熊樫皮を髻華に挿せその子📖
[_33]はしけやし我家の方よ雲居騰ち来も📖
[記]命尽きようとする倭建命@能褒野「思國歌」⇔[紀]熊襲討伐の⑫天皇@日向国子湯県丹裳小野「思邦歌」という違いがある。
両書に於ける倭建命の扱いの違いは極端。「古事記」では、父の天皇段と云うに、天皇については形式的な系譜記載以外に全く事績が見られない。対して、国史では、天皇親征による熊襲平定の話や、臣下に東国や日本海側の情勢視察を命ずる事績が長々と語られている。倭建命の活動はほとんど添え物的。
「古事記」は、倭建命の生から死に至る迄の物語を描こうとしていると見てよさそう。その全体で見れば15首のうちの重複歌は7首となる。
・・・⇒【西征】熊襲→出雲●⇒【東征】相武→后入水○→足柄/あづま→酒折宮問答●●→月経御合掛け合い○○⇒一つ松●⇒国思●●●⇒崩御○⇒大葬儀歌○○○○
こうしてみると、「古事記」の皇統譜はバックグラウンドミュージックでしかなく、大君譜(倭建命⇒大雀命⇒大長谷若健命)を描こうと企画されているのでは、との印象を抱いてしまう。

<超大木製の船を造り、その廃船材で琴を作成>…1首
[_75]枯野を塩に焼き其が余り琴に作り掻き弾くや由良の門の門中の海石に触れ立つ水浸の木のさやさや📖
[記]⑯天皇@大阪湾[紀]⑮天皇@伊豆国〜遠江大井川という違いがある。御製と云うより、宮廷内の噂話に尾鰭がついて一般に流布してしまったために、双方の編纂姿勢の違いからこのような結果をもたらしたのでは。もちろん、奇跡的能力を発揮する様子を眼前にしたため、人気の宮廷歌となっており、外すことなどできないからだ。(南島伝来工法の多人数漕手のアウトリガー船に衝撃を受けたのだろう。)
太安万侶の姿勢は"聖帝"のアハハ譚で100%ОKだが、国史は真面目に取り組むしかなく、そもそも船名からして理解不能だったに違いないから、奇跡的に発見された超巨木による建造と見て、思案の末に記載したと思われる。

<禁断の情事悲恋物語>…12首のうち5首
[_79]あしひきの山田を作り山高み下樋を走せ下問ひに我が問ふ妹を下泣きに我が泣く妻を今夜こそは安く肌触れ
[_80]
[_81]大前小前宿祢が金門陰かく寄り来ね雨たち止めむ
[_82]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人響む里人も謹
[_83]天だむ軽の乙女甚泣かば人知りぬ可し波佐の山の鳩の下泣きに泣く
[_84 _85]
[_86]大王を島に葬らば船余りい帰り来むぞ我が畳ゆめ殊をこそ畳と言はめ我が妻はゆめ
[_87 _88 _89 _90]
[_69]あしひきの山田を佃り山高み下樋を走しせ下泣きに我が泣く嬬片泣きに我が泣く嬬今夜こそ安く膚觸れ@23年3月
[_70 _71]大王を島に葬り船餘りい還り來むぞ我が疊齋め辭辭をこそ疊と云はめ我が嬬は齋め
天飛む輕嬢子甚泣かば人知りぬべみ幡舎の山の鳩の下泣きに泣く@24年6月
[_72 穴穗皇子]大前小前宿彌が金門蔭斯く立ち寄らね雨立ち止めむ
[_73]宮人の足結の小鈴落ちにきと宮人動む里人も斎め
ここでは双方の扱いの差が見えてくるので実に面白い。
[記]天皇崩之後 定木梨之輕太子所知日繼 未卽位之間 姧其伊呂妹輕大郎女⇔[紀]天皇崩・・・是時 太子行暴虐 淫于婦女と記載されており、国史では同腹兄妹相姦の禁忌破りの重大罪状とされてはいない。
当然ながら大前小前宿彌の家での話も大幅に異なって来るものの、宿祢が戦闘を避けたかったという点では違いはない。その結果、[記]太子身柄拘束(そして伊豫國流罪)[紀]太子自死(…但し<一云 流伊豫國>との注記)の差が生まれる。
そのために、流刑者も異なってきて、[記]輕太子⇔[紀]軽大娘皇女。歌人も異なってしまう。
そりゃそうなるだろう。実態は皇位継承争いで、輕皇子は力不足で宮から逃亡し、匿った臣下は敗死しただけのこと。近親相姦云々は追い落としキャンペーンだろうが、実際に皇子・皇女の禁忌の恋愛が存在したからこそ伝承譚がある訳で、口誦叙事は宮廷でも大人気だったろうから、話に様々な尾鰭がついてバリエーション豊かでおかしくない。そこからの選定の仕方でいくらでもストーリーは変ってこよう。(どう書こうが、政治的配慮は不要だろう。太安万侶は一番ドラマティックなストーリーを選んだと思う。一方、国史プロジェクトは手堅い動きに映るように描くことになろう。)

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