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■■■ 「古事記」解釈 [2023.3.23] ■■■
[歌の意味53a]道教について
道教について別立てで触れるということで、追記的に。📖記歌はアンチ儒 紀歌はアンチ道・・・

道教は、広大な大陸での各地の土着信仰と呪術寄集めの顔を持つが、その上に老子の哲学が被さっているので分かり難い。さらに、それに加えて、仏教を見習って教義宗教化し、帝国の天子独裁-官僚統治のなかで生きていけるような教団活動にまで踏み込んでいるので、そこらを細かく分析すればするほど全体把握から遠のきかねないので至厄介極まる。📖<私的解説>道教サミングアップ 📖太安万侶的道教観を探る
(道儒両者をこんな風に考えればわかり易かろう。
儒教とは宗族ありき。一種の部族集合体の国家観から来ており、これを帝国としてまとめるには軍事権と祭祀権を握る独裁者による統治しかなく、当然ながら、それを支える巨大組織による社会的管理が必須となる。もちろん、宗教的には、天帝-天子の関係が大前提であり、天子が替わるだけで、この体制自体は永続可能というのが儒教信念の核。
識字能力を有する階層のみを対象とする宗教であり、哲学的見地では、主体と客体観念が明瞭。そして、何より目立つのが<孝>という倫理の道を歩むことが強制される点。それが社会的にできさえすれば、宗族社会である以上、自動的に、天子による軍事独裁による安寧な社会が築けるとの強固なイデオロギーを形成していることになる。
一方の道教は、もともと特別な神はなかったようだから、天帝-天子という概念があった筈がない。大陸では、「山海経」の如くに地域毎に山水動植物への呪術が絡む信仰があり、その地で超能力を発揮すればすべて神扱いされていたと考えてよいだろう。従って、哲学的には、そこに存在している全てが属する"場"ありき。信仰で追求するのはその様な自然との一体化の道しかありえまい。地場共同体で完結しがちな信仰しか生まれないから、そこに汎用性のある倫理や道徳という感覚が生まれる必然性は無い。)


「古事記」序文は、日本国は道教と根が同じと言わんばかりの書きっぷり。<混元>を緒としているし📖「古事記序文講義」(1:感想+序原文)、いかにも道教経典文的な文章も並ぶ。
 参神作造化之首
 日月彰於洗目
 察生神立人之世

ところが、本文から受ける印象は相当に異なる。従って、どのような意図で記述したのか、解釈は分かれること必至。
天武天皇の諡は瀛真人天皇であり、瀛は瀛州を意味するし、真人とは道教用語以外に使われないから、神道≒道教と見なされたりもする。他の使い方は見当たらないから、反論はできかねるが、無視することになっている。
ただ、本文を読む限り、明らかに道教とは一線を画す。倭国は大陸文化の吹き溜まり化し易い地であることを考慮に入れると、道教的哲学の雑炊・無名無為的な風土がもともとあったと考えた方が自然だろう。倭国は人種的にも雑種であり高級難民や冒険的渡航民が大勢押し寄せて互いに住み分けていたと見ることもできるし。

そう考えると、神道とは、プレ道教の時代の日本列島での土着信仰が根にあって、それに渡来の宗教が習合していった可能性が高そうに思えてくる。
と云うか、それが太安万侶の見立てと違うか。

瀛州にしても、それは「古事記」用語としては、<常世の国>に当たるようにも思えてくる。
  五山[岱輿 員嶠 方壺/方丈 瀛州 蓬莱]@渤海東方幾万里[「列子」湯問篇]
  八神祭祀(巫祝信仰)@斉の北東海浜・・・
   渤海湾仙境
(三神山[蓬莱 方丈 瀛州])[「史記」始皇本紀 封禅書/天官書]
それは、おそらく【不死之國】[阿姓]・・・甘木是食@「山海經」大荒南經から続いて来た観念だろう。📖

この辺りの想念は道教の核となっている信条の<不老不死>を、描いてみせているようなものだが、倭人の心情もほとんど同じだったということになろう。
【参考】(「太上玉佩金璫太極金書上經/玉佩金璫経」に"上靈元年正月一日・・・飛空下降 玄授天王 太帝二君 於是 二君對齋高天・・・"とあり、高天原の出典と見なす説があるらしい。)

「古事記」を読み始めて、筋が何もなくて退屈なので飛ばしたくなるのが、神名の羅列箇所だが、よく考えれば倭人にとっては重要な箇所だったのかも。
  仙人の道を目指して修行したいと思う者は、
  始めるに当たって、先ずは、(図録を学んで、)
  神々の姓名とその地位名称(位号)を暗記し
  諳んじることができるようにしなければ。

    [「抱朴子」卷十五 雜應] 📖[学び] 儒教と道教@「酉陽雑俎」の面白さ

--付録--
道教が宗教としての姿を現したのは六朝時代の江南だが、その地では江南仏教(呉音の元)が隆盛を誇っていた。それまでのフラグメントな山中での仙道修行活動が経典成立で教団化したからである。
「古事記」の3~と高天原は、道教由来とされることもあるが、假訓文字である<天皇>用語の導入の様なもので、それ自体にたいした意味は無いと思う。と言うのは、肝心の道教に於ける発祥由来が定かでないからだ。換言すれば、仏教の3界(須弥山に重層化され28天となる。)を取り込んだと見るしかないということ。大陸に於ける宇宙観念は、形而上学的な陰陽2極と、伝統的な4方あるいは8方に中央という平面方位からくる5神あるいは9界と思われるからでもある。(「酉陽雑俎」からすると、道教が描く世界は土着感覚を仏教概念に移し込み、お得意の精緻化を突き進んで、中華思想の至高性を誇ったようなものでしかない。国教化とは、道士の官僚化を意味するのだから、これは必然であることが明々白々。📖道教世界・・・余程の鈍感官僚でなければ、太安万侶がそれに気付かなかった訳が無いと思う。)
尚、道教の流れは、こんな風に見ると解り易い。・・・

(左慈)@後漢末期…神仙方士
 │≪師資相承≫
葛玄[164-244年]@呉:「霊宝経誥」…祖師
 │
(鄭隠)
 │
葛洪[283-343年]@江南:「抱朴子」[編纂「神仙伝」]
 │   符呪書(「霊宝経」「霊宝五符序」「霊宝五篇真文」・・・)
 //
 │
楊羲[330-386年] 許謐[305-376年] etc.
 │…茅山サンガ的活動@東晋
 │
 //         (干宝[n.a.-336年]:志怪集「捜神記」)
 │     //
 │     │▼教団組織(師弟・位階制度)
 │     寇謙之[365-448]@北魏:「雲中音誦新科之誡」
 │     │
 │     //
 │
 │▼国教的地位
陸修静[406-477年]@南宋:「三洞経書目録」
 │      [道教大乗経典編纂(新バージョン)「霊宝経」]
 │…天師道霊宝派
 │   洞真(上清経)・洞玄(霊宝経)・洞神([天師]三皇経) 3分立
 │   元始系(天尊)・仙公系(葛玄)分別
 │   儀軌(戒律・儀礼)
(孫游岳)
 │     (任ム[460-508年]@南朝斉〜梁:「述異記」
 //        …"昔盤古氏之死也 頭爲四岳 目爲日月")
 │
陶弘景[456-536年]:「真誥」「本草経集注」
 │…茅山派開祖・薬学祖
 //
 │
武帝/宇文邕[543-578年]@北周(撰):「無上秘要」
 │  三教談論⇒廃仏 道教外護
 │ …"黃帝曰:三皇者 則三洞之尊神 大有之祖氣也
 │    (天寶君 靈寶君 神寶君)"[巻六 洞玄玉訣經帝王品] 
 │  "一年日運周度 冠帶四鄉 合一百八十日"[巻三 日品]
 //
      ---712年「古事記」成立---
 //
 │
張君房@北宋(撰):「雲笈七籤」1017-1021年

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