表紙 目次 | 2014.2.26 銅鐸を考える[続々]素人が古事記をのんびりと読んでいると、色々と気になることが生まれる。なかでも不思議なのは、剣、矛、太刀や、勾玉/珠、鏡が登場するのに、銅鐸を想起させるような話が一つも無いこと。どうなっているのだろうかと、どうしても思い巡らしてしまう。 そうでなくても、様々に想像してみてしまう訳で、それが増幅されることになる。 → 銅鐸を考える [2009.6.4] , 銅鐸を考える[続] [2009.6.25] → 銅鐸文化圏とは [2009.4.16] 一般には、銅鐸は農耕祭祀用と言われている。浅学なので、理由のほどはわからないが、大陸の銅鼓からの類推では。形は違うものの、どちらも楽器だから、同じような聖器と見なしたくなるのはわかる。しかし、それなら、何故、銅鼓は連綿と使い続けられたのに、銅鐸の祭祀は消滅したのか。ここが大いなる疑問。 そこで、ついつい、そこら辺りを考えてみたくなる訳だ。 と言うことで、銅鼓について触れておこう。 この場合、キーワードがあり、それは「南」。この字は、"South"という方角から生まれたと考えがちだが、それは誤り。楽器の象形文字なのである。正式には、「南任」と呼ばれていたようだ。(フォントが見つからなかったが、「南」を鼓つ象形文字、<南殳>もある。。)・・・これが、苗族が使っていた「鼓」を指すらしい。"殷"の時代(B.C.1046以前)の話である。 「北鼎南鼓」は、現代の発掘型考古学者の用語ではなく、根源的なものなのである。 この「鼓」という文字は、偏が音器のツヅミで、これを叩いて音を出す象形文字。 宗族の祖神霊をツヅミの音で呼び出す、「彭」行為のためのもの。祭祀としては、この「彭」の下に「示」をつけた文字になるが、フォントが見つからない。音符として「方」を使った「祊」で代替することになっている模様。要するに、これらの文字は、音を出して、神を探し回っている祭祀に関係する文字ということ。 ちなみに、「喜」は、祝詞容器「口」の前でツヅミで神を呼んでいる様を示していることになる。 → 示偏 [2014.2.7] ツヅミとは、楽器ではあるが、根源的な祭祀用具であることがわかる。 "殷"の次の王朝、"周"(B.C.1046-B.C.256)の文化はかなり異なっている筈だが、「鼓」は祭祀に重要なものとして取り入れられている。「鼓」文化花盛りの観あり。 神祀・・・「雷鼓」 社祭・・・「霊鼓」 鬼祭・・・「路鼓」 軍事・・・「フン鼓」 役事・・・「コウ鼓」 礼会・・・「晋鼓」(鐘を用いる「金奏」との合奏) この他に、以下も。 日食儀礼 田祖歓迎儀式・・・苗族の銅鼓(土中より掘り出す.) 文献上だけでなく、"後漢"(25〜220)の頃のものとして、広西藤県冷水沖から出土している。この頃の特徴は鼓の上部に蛙の飾りがついている点。その流れは、現代の、チワン(壮)族旧暦正月「蛙祭」に引き継がれているから驚きである。もちろん、ヤオ(瑶)族、ミャオ(苗)族でも、未だに銅鼓は現役祭器である。宗族の儀式にはなくてはならぬということなのであろう。(もっとも、観光用にも必須な楽器と言えよう。)その需要に応えるべく、東蘭県に銅鼓鋳造工場があるほど。 「銅鼓は天の雷神が、 天下に威力を示すために造ったもの」 尚、壮族だが、漢民族の覇権下で、その力を使いながら、広西/雲南/貴州で優位な地位にあったタイ系民族と言われている。この民族が銅鼓文化普及に熱心だったことで、この伝統が失われなかったということでは。おそらく、東南アジア一帯のタイ系村落にも、銅鼓文化が残っていることだろう。 一方、苗族は、洞庭湖周辺から追い出されて、広西/雲南/貴州に移動してきたらしい。銅鼓文化は移動前にすでに確立されていたと考えるのが自然。「南任」は揚子江辺りの文化だったと考えられる訳だ。 → 「東アジア文化圏の分類」 [2013.11.11] さて、ここで銅鐸を考えてみよう。 まず呼称がおかしい。 「銅鼓」は、木製の鼓が金属製に替わったことを示す。鼓に適した樹木がある南方での話で、これは北方の鐸には当てはまるまい。初めから、金属音を出す器具として作られたものだからだ。(石製類似品があったという説もあろうが。) このことは、北方では、金属音が神霊と関係するとみなされたと考えるべきで、南方とは思想的に違うのでは。 そのようなものの代表は、鈴。内側の玉が本体にぶつかり音が出る仕掛けであり、舌を必要とする鐸と基本構造は同じ。両者ともに、基本はぶら下げて、揺らして音を出すもの。これに柄をつけるなりして移動型にしたものが、鉦。おそらく、鈴と鉦の合体発展形が鐘。つまり、鈴-鉦-鐘はTPO対応ということ。鉦が消えているように見えるのは、もともと利用が進軍用中心だったからにすぎまい。あくまでもその役割は、金属音で、神霊を呼び覚まし、邪気を払うことにあると見てよかろう。木製から出発した「鼓」の南方文化と似てはいるが、系統は全く違うということ。 しかし、このラインと別な金属音器も"殷"の時代に存在していたらしい。それが、「鐸」と「鐃」(銅鑼)。前者は舌で鳴らし、後者は叩いて音を出す違いがある。残念ながら、両者とも、発祥も役割もよくわかっていないようだ。 しかし、「鐃」は江南一帯から出土しており、山の中腹に綺麗に埋められていることがわかっている。そこで、南方の異民族に対抗するための呪器という説がある。そりゃそうだろう。「鼓」で神霊を呼ぶ勢力に対して、金属音で威嚇するような祭祀が定期的に行われ、その間、ボーダーを守ってもらおうということで土中に埋めたとの解説は説得力がある。鐸-鐃はこの手の呪器だと見る訳だ。 結局のところ、この南北の文化的対立が、ゴチャゴチャになってしまい、呪器は不用になったということか。・・・銅鐸の消息としては、殷墟(3500年前)から出土しており、"越"(B.C.600-B.C.334)の貴族墓[江蘇省無錫市]でも発見されたが、その後は不明ということのようだ。 ということで、鐸と鼓の違いを見ておこう。引き続き、白川学ベースで。 鐸の金偏を取ると「睪[エキ]」。これは、獣の屍の象形文字。上部の「四」は獣の頭部で、その下の「幸」は屍体が展いた状態を示している姿。 従って、釋/釈は獣爪で獣を引き裂く意味になる。そして、肉を選び採るのが、 擇/択。古代の文字を見れば、確かに、それは妥当な判断と言えよう。だが、その内容はおどろおどろしい。北方遊牧民的としてはどうということもないのだろうが。 そうなると、供犠が下火になれば、「鐸」は消えていく訳かナ。 倭に於ける銅鐸も同じ運命を辿ったのかも知れぬ。 話が長くなってきたので、倭の銅鐸に焦点を当てよう。 銅鐸絵が大陸の青銅器のデザインと比し随分と違うから、独自性に注目しがちだが、基本的な扱いは同じと見ると、そう考えたくなる訳である。それは、古事記をのんびりと読んでみたせいもある。銅鐸に描かれている「絵」の意味を示唆していそうな感じがしないでもないのである。 ということで、銅鐸絵について少々書き留めておこう。 ともあれ、風景画とか、農耕の情景を単に描く筈がないと思う。白川学からすれば、この時代の基本思想は呪術的発想ということになるからだ 以下、要点。 ○ 大國主ノ~が、出雲の御大之御前(美保崎)に来訪した~の名を尋ねたが誰もわからず、多邇具久[たにぐく/谷蟆]ことヒキガエルが久延毘古こと案山子が知っていると教示する話が掲載されている。 ○ 国生みの八番目が、大倭豐秋津島こと本州。秋津の説明はないものの、大長谷ノ若建ノ命が天皇として「空見つ、倭の國を、蜻蛉島とふ。」と御歌をよみしということで、アキヅとは「虻を咋う」トンボであることがわかる。この歌が生まれたのは、吉野への狩の行幸でのこと。 → 「ムカシトンボが醸し出す郷愁感」 [2012.6.1] ○ 「安見しし、吾が大君の、猪鹿待つ」時の出来事である。この場合は、シシは鹿ではなく猪だったようだが。 ○ 鹿は猪とは違い、肩甲骨を太占(フトマニ)こと卜占に使用するため特別視していた。なにせ、国生みでの最初の失敗の原因を探るため、「天ッ~のみこと以ちて、布斗麻邇に卜へて」ということなのだから。 ○ ただ、卜占の発祥は海亀の甲羅だと思われる。小生は、"殷"の出自は海人と見ているからだが。ただ、中原では陸亀にならざるを得ないとは思うが。ということで、銅鐸のスッポン型に見える絵は海亀ではなかろうか。まあ、後述するが、どちらでもかまわないと言うとごへいがありすぎるか。 ○ そうそう、伊久米伊理毘古伊佐知ノ命が天皇として「太卜に占相て」「鷺や、うけひ落ち」を行った事績も記載されている。誓約の結果、「鷺地に墜ちて死にき。」しかし、「又うけひ活きよと詔りたまえば、更に活きぬ。」白鳥としての鷺は、卜占と深い係わりがありそう。ソリャ当たり前で、周王朝に殷の祖霊が現れる祭祀があるが、それが白鷺の群舞なのである。「振鷺」と呼ばれるらしい。 ○ ちなみに、大陸からの影響が大きいとしたら、ヒトの姿絵のうち、三角頭は~の姿と見た方がよかろう。 ○ カマキリに関係しそうな事績はなさそう。ただ、有名な「蟷螂の斧」の斉の荘公の在位はB.C.550年頃。「銅鐸」が大陸からの直接渡来時期がその後だとすれば、この話がついてきてもそうおかしな話ではなさそうだが、なんとも言い難し。 ○ 4本足か、8本足かわからない生物になると、これはなかなか手に負えない。小生は、8本足と受け取って、クモとするのは無理があると見る。古事記では、「尾ある土雲八十建」は平定の対象であり、蜘蛛が異類であると見なしていることは明らか。土雲勢力が銅鐸保有の主勢力とはとうてい思えまい。従って、これはアメンボと見たくなるのが一般人的姿勢を言えよう。 → 銅鐸絵のアメンボの意味を探ってみた [2012.6.3] 尚、漢字では、アメンボは「水黽」。部首「黽[ぼう]」そのもの。これは「亀」と思ってしまうが、それは新字体に慣れているからで、カメはそのままズバリの形状を示す文字「龜」だから、違う概念のようである。なにせ、上記で云々している生物は、このグループに入っているのだから。・・・ ・帝亀[鼇])---巨大な化石亀とか。だが、"鼈甲"は現存生物。 ・海亀[鼂]---「旦→単」も。実態不詳。 ・青海亀[黿] ・スッポン[鼈]---女媧の話の海中の巨亀 ・蛙[鼃] ・蜘蛛[鼅] ・アメンボ[水黽] イヤー、勢ぞろいだネ。ただ、異説も多く、確かなことはよくわからない。 大胆に推定すれば、龜=超硬甲生物で、黽は形態は似るものの硬甲では無い類ということになろうか。 アメンボウが「飴ン棒」なら、それは後世の話に違いあるまい。知られていないようだが、翅があり、飛ぶことができ、餌の体液を吸い取って活きる虫であり、かなり特殊な生態である。従って、感覚的には「天ノ坊」であった可能性もあろう。それに唐突な動きをするから、ト占的対象になったとしてもおかしくなかろう。古代はト占を主体とする呪術時代だったのだから。 ─・─・─日本の「鼓」に関する補足─・─・─ ツヅミを「鼓」、タイコを「太鼓」とする日本の見方は面白い。 木の文化から見れば、大きさを別として、桴(バチ)で、木製本体に張った皮を叩く、タイコの形態こそが、呪器の根源的な形態だと思われる。自分達の祖たる神霊を呼ぶための音器である。従って、「銅鼓」は金属器技術を導入した派生型に過ぎまい。 タイコは、皮を乾燥させて張りを持たせる必要があるが、過度の乾燥環境だと本体の木が持たないから維持は結構厄介である。モンスーン地帯の音器として誕生したが、耐久性から金属器になるのはわかる。それに、大きな音器ほど嬉しい筈だが、木製では無理だし。従って、タイコは「南任」、あるいは「真鼓」との命名が妥当では。 一方、ツヅミは持ち運び可能な軽量小型品が発祥と思われる。しかも手打ち。南方の「鼓」とは本質的に違う音器と見なすべきもの。少なくとも、「鼓」ではなく、「皷」であることは確か。この「皷」だが、石や金属ではなく、皮で、できる限り同じような音を実現しようとしたものと思われる。「鼓」とは違い、邪というか、異なるものを払う目的の音器と見てよいのでは。 従って、張り詰めた音を出すことに意味がありそう。 どう見ても、湿度変動環境のモンスーン地帯には不向き。日本の場合、それをわかっていて、敢えてツヅミを重視したのである。穢れを嫌う文化だからかも。その結果、ツヅミ演奏家は湿度コントロールの卓越したスキルが不可欠。厄介な話。 ちなみに、古事記で登場する「鼓」は酒楽の歌で登場しており、邪気払いではなさそう。 しかし、その前段では「御琴」が登場。 「天皇御琴控して、・・・~の命を請ひまつり・・・ 詐りせす~と思ほして」しまう。 「その~大く忿らし」、天皇崩御を招く。 これを考えると、「鼓」に呪術色が薄いとは言えないかも。常世国に渡った少名御~の御酒とされているし。 「この御酒を、醸みけぬ人は、 その鼓、臼に立てて、 歌ひつつ、醸みけれかも」 祖神を鼓で呼び、その音の余韻を臼に移し、噛み酒造りを始めたシーンに見える。ここでの鼓はツヅミではなく、タイコではなかろうか。 (参照) 日本の銅鐸のルーツ?/中国で青磁器の「鐸」出土 2006/02/09 16:41 四国新聞【共同@上海】 広西チワン族自治区河池市 神聖なる銅鼓の音とカエルを崇める人々 by 魯忠民 人民中国 2012-09 鈴木正崇:「銅鼓の儀礼と世界観についての一考察−中国・広西壮自治区の白褲瑤の事例から−」 族歴史学 64 pp265 白川静:「漢字の世界1/2 中国文化の原点」 東洋文庫/平凡社 1976 (使用テキスト) 旧版岩波文庫 校注:幸田成友 1951---底本は「古訓古事記」(本居宣長) 新編日本古典文学全集 小学館 校注:山口佳紀/神野志隆光 1997 歴史から学ぶの目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |