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■■■ 日本の基底文化を考える [2018.9.3] ■■■
鳥崇拝時代のノスタルジー[54]
−"鵲の橋"の由来は定かではない−

カササギは「酉陽雑俎」考で取り上げたが、[→「鵲考」[2017.6.9]]もう少し掘り下げておこう。

先ず、吉祥とされる理由だが、既に述べたように、鵜、烏、燕(玄鳥)と同じく、モノトーン色からきていると見てよかろう。従って、大陸での尊崇の歴史は古い筈。「山海経」冒頭の山経に登場しており、極めてポピュラーな鳥だった筈。鵲的鳥としても、青耕、嬰勺、鵲的鳴き声の夸父的鳥としてがあげられている位だ。[→]

ところが、鵲は日本にはいない。(九州北部や島嶼には渡来。)「風土記」に記述はあるものの。
【壹岐國】[存在疑問譚][→]
新羅烏。麥蒔種時群飛。麥喰云々。
【播磨國 讃容】[→]
船引山、近江天皇(天智天皇)の世、道守臣、此の國の宰(みこともち)と為り、官船を此の山に於いて造り引き下ろすよう命令。故に曰く、船引山。此の山に鵲が住む。一つには、韓國の鳥と云う。枯れ木の穴に栖み、春時に見え、夏には見えず。

だが、小生、100%納得している訳ではない。鵲はカラス族で、ハシブト、ハシボソと並ぶ代表的な種だからだ。
【烏/鴉/の一族】
 
嘴太烏ハシブトガラス
 
嘴細烏ハシボソガラス
 
鵲/勝烏/高麗烏カササギ
 懸巣/カケス
 星鴉ホシガラス
【烏の近縁】
 鵲鶲カササギヒタキ@ヤップ島
【縁遠し】
 鵲雁カササギガン@豪州〜ニューギニア

ハシブト、ハシボソは日本列島の至る所に居ついている。ところが、食性がたいして変わらぬカササギは棲息できないのだ。説得力ある理屈が思いつかない。

この3種、大きさが違うが、カササギだけ特に一回り小さい。カラス2種は黒色で同じ様に見えるが、環境で棲み分けていたので、判別するまでもなかったが今はそうはいかない。名前の通り、嘴が違う訳だが、体の大きさからくる餌の違いの結果と考えるとよいだろう。(目視判別なら、御凸の出っ張りの様子ですぐわかる。)
カササギは白い部分があるので、すぐにカラスでないことがわかる。
美的感覚は人それぞれではあるものの、飛翔姿の写真映像はは素晴らしい。黒色と言っても紫や緑が入ったような青色だし、それに白が生えるのだから。
日本列島に早くから連れて来られていたのは間違いないと思う。カラス系は頭がよく働き雑食だから大いに繁殖していてもおかしくない。ところが、そうはいかなかったのだ。考えられるシナリオとしては、縄張り命のカラスに巣や幼鳥を攻撃されて絶滅の憂き目に合ったという展開。烏だけでなく、鳩も巣を奪っている可能性がありそうだが。・・・ミクロではあり得る話だが、そんなに簡単に全てがやられるものか疑問が湧く。

とはいえ、日本でのカササギ和歌のモチーフは、漢籍をネタにした"烏鵲橋"だから、一部地域を除けば、持続的棲息は難しかったと見るしかなさそうである。
菅原道真[「新古今和歌集」巻第十八#1700]
彦星の 行合を待つ 鵲の 門渡る橋を 我に貸さなん
大伴家持[「新古今和歌集」#620…小倉百人一首] 
鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

有名な句であるが、"烏鵲橋"の由来ははっきりしない。天帝が命じたようだが、何故に鵲なのだろうか。・・・
七月七日夜,鳥鵲填河成橋而渡織女。[逸文「淮南子」@陳元:「時廣記」巻二十六]
織女七夕當渡河,使鵲為橋。[應劭:「風俗通義」@韓那「華紀麗」巻二十一]
(袁珂[編]:「中國神話傳説辭典」に典拠一覧)

カササギ自体は古くから信仰対象であったものの、どうして機織りや牛飼いと関係してくるのかわからぬ。群れ鳥だから皆で載せて飛んで運ぶのかと思いきや、一列に並んで橋を作るとしているのも違和感あり。それに、何と言っても、二十八宿の体系や「星官」構造とは相いれないお話だし。

"烏鵲橋"は、もともとの鵲信仰とは本来的に無縁と考えるしかなかろう。
どう考えても、古層信仰のポイントは「鵲始巣」だからだ。大陸の七十二候小寒の次候。
 小寒之日,鴈北向,又五日,鵲始巣,又五日,雉始[「逸周書」時訓解]
「全唐文」巻七百十六 陳仲師には「鵲始巣賦」と「鵲巣背太賦」が収載されており、季節をもたらすことをお知らせにやってくる鳥と見られていたのだと思われる。

「楚辞 v.s. 詩経」[→]で"鵲"も見たが、その巣作りが注目されている訳だし。
 鸞鳥鳳皇,日以遠兮。
 燕雀烏鵲,堂壇兮。
  「楚辭」九章[屈原]
「詩経」では、鳴き声もあるが。
 維鵲有、維鳩居之。
 之子于帰、百兩御之。
  「鵲
 防有鵲有旨
 誰予美、心焉
  「防有鵲
 鶉之奔奔、鵲之彊彊。
 人之無良、我以為兄。
  「鶉之奔奔」

ただ、美しい鳥だから、その地位が高まり吉祥図案化に至って当然。しかし、巣だけでは今一歩な絵だから、春到来の兆しに絡めることにしたと考えるとわかり易い。

それが、"喜鵲登梅/喜鵲鬧梅"となったのだろう。
日本では、これができないから"梅に鶯となったにすぎまい。

囀りをどう聴くかは文化の違いが大きいが、大陸では嬉しい鳴き声だったのだろう。結果、"喜鵲能報喜/靈鵲兆喜"と見なすことになる。「喜鵲叫、客人到。」である。お話は、おそらく地域の状況に合わせて色々生まれた筈。その割に残っているのは僅かのようだ。
常山張為梁州牧,天新雨後,有鳥如山鵲,飛翔入市,忽然墜地。人爭取之,化為圓石。椎破之,得一金印,文曰:「忠孝侯印。」以上聞,藏之秘府。後議郎汝南樊衡夷上言:「堯舜時舊有此官。今天降印,宜可復置。」後官至太尉。  [干寶:「搜神記」巻九]

喜鵲はいかにも俗っぽい名称だから、その表現を避けたい時は"乾鵲"で代替することも少なくなかったようだ。
 乾鵲噪而行人至,蜘蛛集而百事嘉。  [「西京雑記」巻三]
 知往,乾鵲知來。  [王充:「論衡」龍虚]
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