→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.6.29] ■■■ [365] 尼紫雲御来迎 その前に、本朝における比丘尼の端緒譚に簡単に触れておく必要がある。本朝 付仏法の巻の冒頭に尼が登場するからだ。 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#_1]聖徳太子於此朝始弘仏法語📖本邦三仏聖 📖弥勒菩薩 天皇、 守屋の大連を寺に遣て、堂塔を破り仏経を焼しむ。 焼残る仏をば、難波の江に棄てつ。 三人の尼をば、責打て、追出しつ。 よく知られている、585年の反仏勢力物部氏の行為だ。 ここに、本朝初の尼僧達への刑罰が記載されてはいるが、尼は突然登場しており、仏教伝来の経緯として尼の存在は明示的に記載されていない。なんらの説明も無い。 恣意的に書かなかったと考えるべきであろう。 正史によれば、584年、蘇我馬子は弥勒菩薩半跏像供養のため、高句麗還俗僧恵便を立て、11才の童女を出家させたとされている。尼達は、その後、渡百済[588-590年]。戒法を学んで帰国後、桜井道場が尼寺 桜井寺@豊浦宮(⇒豊浦寺)となり、そこで12名を出家させたとされる。(大伴狭手彦の娘 善徳、大伴狛夫人、新羅媛の善妙、百済媛の妙光、漢人の善聡、善通、妙徳、法定照、善智聡、善智恵、善光、司馬達等の子 多須奈/徳斎) 〇善信尼[574年-n.a.]…鞍作部 司馬達の娘 嶋 ├〇恵善尼…渡来漢人 夜菩の娘 豊女, 伝聖徳太子乳母(玉照姫) └〇禅蔵尼…錦織壺の娘 石女 その後、624年には、46寺、比丘816名、比丘尼567名に達したとされる。 蘇我氏寺の豊浦寺、上記の多須奈が造仏像し安置した金剛寺(⇒坂田寺)、推古天皇が関係する小墾田寺、聖徳太子建立と伝わる寺のうち、勝鬘経で知られる橘寺、中宮寺、法起寺、葛城尼寺は尼寺である。(国分寺尼寺が建立されるのは741年以後。) 巻十一には、尼の話を収録するつもりとしているが、姿勢だけ。欠文である。尼寺の位置付けが違いすぎて、とても書けませんゼ、と書いているようなもの。 ●[巻十一#19]光明皇后建法華寺為尼寺語 (欠文) 仏教伝来当初は、尼が教導を主導していたが、「今昔物語集」成立期には、尼寺の役割はおおかた消滅してしまったということである。出家せずとも、俗人往生でも十分という状態になってしまったのである。 つまり、尼の地位は守られているとは言い難く、その経済的基盤も極めて脆弱。 分類的にはこうなろう。 1 寺内房 〇伝統的尼寺…官としての比丘尼は廃れたようだ。 〇母の供養のため建立された菩提寺 2 寺外専住処 〇親族や縁の深い僧の寺の近傍の家屋 〇山寺近傍に結庵 3 在俗時住居内 4 放浪・遊行…僧の遊行とは違い、興行者になるしかない。 出家し悲惨な最後を遂げざるを得ない場合もあり、それが稀有な例とも言い難いところがある。 【本朝世俗部】巻三十本朝 付雑事/雑談(歌物語 恋愛譚) ●[巻三十#_4]中務大輔娘成近江郡司婢語📖姥捨山 【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺) ●[巻三十一#30]尾張守□□於鳥部野出人語📖要介護老女 なかには、"尼天狗"なる、訳のわからぬタームが登場する譚[巻二十#_5]もあるが、鬼が化けるというより、そのような尼の死霊がうろついているとも考えられる。 どうあれ、尼の極楽往生シーンを美しいものに描くと、自らの力ではどうにもならない女性達の惨めなシーンがより引き立つ訳である。 「今昔物語集」が指摘しているのは、僧母への孝養(教化と没後供養)こそ、釈尊の教えというのは間違いないだろうが、それは、見方を変えれば、女性はあくまでも被救済者の存在ということ。この時代、尼として生活できるのは、終身身分と十分な収入が確定している超上流階級出身か、超富裕層の親が顕在な娘のみになってしまったのだ。 仏教渡来時とは様変わりした訳で、それに気付いているからこその、巻十一の"尼"の記載と見てよいだろう。 このことは、俗の女性信仰者には、大きな役割が生まれていることを、示唆しているとも言える。檀越(パトロン)家では、尼だろうが、非出家だろうが、家内の仏事を仕切り、日々、仏様のご加護を願ってもらえれば十分なのである。 個人の信仰という点で考えれば、世俗の中での教団に加わり、"尼"という名称に拘る必要がどこまであるかという問題意識が透けて見える訳だ。 男女平等なら、比丘と比丘尼という制度上の仕組みを整える必要ありという考え方に、果たしてどこまで意味があるかという、冷徹な眼がそこにある。 と言うことで、その6譚。・・・ ●[巻十五#36]小松天皇御孫尼往生語 ●[巻十五#37]池上寛忠僧都妹尼往生語 ●[巻十五#38]伊勢国飯高郡尼往生語 ●[巻十五#39]源信僧都母尼往生語📖源信物語 [3:母からの手紙] ●[巻十五#40]睿桓聖人母尼釈妙往生語 ●[巻十五#41]鎮西筑前国流浪尼往生語 ㊱ 小松天皇(=光孝天皇[884-887年])の御孫は若くして嫁いだ。 3人出産したが、次々と死去してしまい、 さらに幾ばくもしないうち、夫も逝去。 世の無常で厭世感を覚え、独り身を続けた。 そして、道心を発し出家してしまった。 只々、阿弥陀念仏口唱のみの日々。 そのうち、腰を患い経てなくなったので、 医師に診てもらうと肉食で治すべしと。 それなら療治せずともよいとしていたら自然に治癒。 元来、柔軟な心で慈悲深い方だったので、 人を哀しみ、生類を悲しむ姿勢を貫いた。 50才を越え、多少、病で煩うことになっていたところ、 空中から微妙な音楽が流れて来た。 尼は、 阿弥陀如来が来迎された。 これで人の世を去り極楽往生致しますと、 お側の人に言って、 西方に向かい、お隠れに。 ㊲ 仁和寺池上の寛忠僧都[906−977年:宇多天皇敦固親王の第3王子]の実妹は、 一生独身を貫くと出家。 そこで、寛忠は寺辺に住まわせ養育。 老境に入り阿弥陀念仏を唱え、極楽往生を予告。 不断念仏を修しながら、寛忠に看取られて臨終を迎えた。 尚、この僧都は、別譚にも登場する。 ●[巻三十一#_5]大蔵史生宗岡高助傅娘語📖目利き ㊳ 伊勢飯高郡上の尼は、道心を発して出家し、 極楽往生祈願、弥陀念仏口唱一途。 そのうちに、 手の皮膚を剥いで、極楽往生相図を描き、 奉納しようと思い立ったものの、自分ではそれができない。 知己ではない僧がそれを行おうと申し出て来た。 喜んで頼むと、皮膚を剥いだ途端に消え失せてしまった。 しかし、極楽浄土相の写図は出来上がり、 常時、身に着けて、奉っていた。 臨終時には、空中から微妙な音楽が流れた。 尚、石山寺の僧 真頼は末孫で、 一族の他の者も入れて、3人が往生したとされている。 ㊵ 睿桓上人その母は若いころから人や生類を哀れむ慈悲深いお方。 正直で穏和。 道心を発し、剃髪し出家して、釈妙と名乗るように。 戒律遵守。 汚れた手で水瓶を持たないし、 手を洗わなければ袈裟も着けずない。 仏前参拝の前には、必ず身を浄める。 寝る時に、足を西に向けることもなく 西に向かって大小便もしない、と徹底していた。 昼夜に法華経読誦。常に弥陀名を称え、 念仏百万遍も数百回に及んでいた。 その釈妙尼はいつも夢を見ていた。 仏がやって来て 「我は常に汝を守護しておる。 臨終の際は必ず迎えに来る。」と告げるのである。 尼は老い、臨終を迎えることに。 顔を仏に向け、 手に仏の御手に掛けた五色の糸を取り、 心をこめて念仏。 心乱れることなくして息を引き取った。 ㊶ 筑前の身寄りなき尼が貴い上人が住す山寺に身を寄せた。 上人の食事の世話等々をして、厄介になっていたのである。 常に、阿弥陀念仏を口唱えていたが、 高音で、あたかも叫んでいるように称えていたので 上人の弟子達ははそれを憎んでいた。 そのため、上人に、尼の悪口を告げたりするので、 ついには、寺から追放されてしまった。 行く当てもなく、広野を流浪の身となり、 歩き回って念仏を称えていたところ、 慈悲深い女がそれを見て哀れと感じ、家に呼寄せた。 ある男の妻だが、家も庭も広く、 ここで念仏を称えてくれればよいと言うことで 身を寄せることに。 養育してもらえるので、 尼は麻糸を紡ぐことにした。 そうして、3〜4経ったある日のこと。 尼は、感謝の言葉とともに、明後日に死ぬと伝え、 ついては、臨終前の沐浴をお願いしたい、と。 そのお礼として、その様相を見せたいとも。 当日になり、 沐浴後、衣を着せてもらい、 従来通り、高い声でに念仏口唱し そのうち、深夜になった。 すると、後方の畑の中に、見たことがない美しい光が突如出し、 麝香でさえ及ばぬ程の素晴らしい香りが一面に満ちた。 紫雲が湧くようにして、空から下りて来た。 尼は西に向かって坐したままで、 合掌した手を額に当てて御臨終された。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |