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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.17] ■■■
[523] 巻三十"雑事"の意味
💔💕巻三十は全14譚と極めて小規模。題名は最終巻と同じ"雑事"だが、内容は男女関係の歌物語である。
もっとも、歌が掲載される部分を欠文にしたりしているが。
【本朝世俗部】巻三十本朝 付雑事/雑談(歌物語 恋愛譚)
[_1] 平定文仮借本院侍従語📖歌物語(姥捨山) 📖嗜糞癖
[_2] 会平定文女出家語📖歌物語(姥捨山)
[_3] 近江守娘通浄蔵大徳語📖歌物語(飼い葉桶)
[_4] 中務大輔娘成近江郡司婢語📖歌物語(姥捨山)
[_5] 身貧男去妻成摂津守妻語📖歌物語(姥捨山)
[_6] 大和国人得人娘語📖継子殺戮 (後半欠文)
[_7] 右近少将□□□□行鎮西語📖創作遊びのお勧め附40 (後半欠文)
[_8] 大納言娘被取内舎人語📖歌物語(飼い葉桶)
[_9] 信濃国姨母棄山語📖歌物語(姥捨山)
[10] 住下野国去妻後返棲語📖歌物語(飼い葉桶)
[11] 品不賤人去妻後返棲語📖歌物語(飼い葉桶)
[12] 住丹波国者妻読和歌語📖歌物語(飼い葉桶)
[13] 夫死女人後不嫁他夫語📖歌物語(姥捨山)
[14] 人妻化成弓後成鳥飛失語📖歌物語(飼い葉桶)

和歌を扱ったグループは巻二十四本朝 付世俗(芸能譚 術で集成済みだから、ここではそれとは別に、特に伝えたいことがあって設定されたのだろう。📖「今昔物語集」歌集
中身的にも、両者は相当に違う。和歌を扱ったグループでは、和歌を詠むこと自体が善行に近いことがところどころで示唆されているが、巻三十にはそのようなセンスは全く感じられないからだ。
和歌無しではつまらぬ話になってしまうという点では同じだが、歌の存在でストーリーを読ませるようになっているのが巻三十の一大特徴。実に文芸的。

なんと言っても面白いのは、巻題で、男と女の係りは公事ではないようですな、という皮肉の可能性があろう。
ここらの構成が、仏教の戒をかけて遊んでいるように見えないでもないからだが。
 不偸盗戒・・・巻二十九 悪行(盗賊譚 動物譚)
 不妄語戒・・・巻二十八 世俗(滑稽譚)
 不邪婬戒・・・巻三十  雑事(歌物語 恋愛譚)


そうなると、この巻では、愛とは何かを問いかけるために設定された巻ということになろうか。よくよく見てみると、ここの話は十分に心して読むようにと言っているようにも思えてくるし。
つまり、愛とは何か、というテーマの巻。

系譜的に言うなら、「伊勢」⇒「大和」⇒「今昔」⇒"謡曲"と見ることもできるのかも知れぬ。
伊勢物語利用…井筒 杜若 雲林院 小塩 右近 隅田川
大和物語利用…求塚 采女 姨捨 芦刈(拾遺集) 黒塚(拾遺集)
今昔物語利用…道成寺 田村 昭君 一角仙人 是界/善界/是我意 蝉丸
宇治拾遺物語利用…国栖

世阿弥に言わせれば、能の醍醐味は、<本説>にあり。皆が知る題材や名所旧跡等を材料としてどしどし取り込むべし、なのだ。ストーリーは改変されていても、これによって、イメージが膨らみジーンと来るからである。

巻三十もそのような作品と違うか。
よく知られているストーリーなので、すらすら頭に入ってくるし、訴えてくるものがあり、ついつい心が動く。しかし、冷静になって振り返ってみると、果たした何に感動し、何に怒りのようなものを覚えているか、よくわからなくなってくる仕掛け。

例えば、平中の恋とは、皆が美しいという女性への単なるあこがれ的なものでしかない。そんな女性を口説き落とすことに生甲斐を見出している訳だが、さっぱり上手くいかないので、不浄者と見なし、恋の成就を諦めようとするが、失敗し気落ちし死に至る。
一方、せっかく愛していた夫に出会ったのに、落ちぶれた様を見られたので、が死んでしまったり。しかも、どうして死ぬのか男はさっぱりわからぬご様子。
もちろん、2人の仲がすでに切れてしまっていたのに、ひょんなことから、突然に情愛が戻って来て夫婦の絆が強まることも。

この手の性欲とは直接繋がっていないように見える"愛"とは一体全体何なのかということ。

それに、家や出世、はたまた社会的体面の為の"愛"はそこらじゅうで見かける。これも実態がつかめない代物。期待通りでなかったり、その大前提たる"愛"の役割が終ってしまえば、"愛"は、その当初の目的からして、邪魔者以外の何モノでもなくなること必定だからだ。

「今昔物語集」編纂者の姿勢はこうした点については、あっけらかん。男女関係の機微は、外部からはどうなっているのかさっぱりわかりませんナ、ワッハッハだろう。サロンの面々は、恋愛に淡泊な人しかいなかったのかも。

こんな風に考えると、「今昔物語集」には「伊勢」⇒「大和」⇒「今昔」という流れがかなり入れ込まれていると考えることも可能だ。
  📖王朝恋愛物語観
一知半解で事典ベースで考えるとこうなろう。・・・

「伊勢物語」は叙情的歌物語で、一般的に、その系譜で「大和物語」に連なるとされるが、両者の風合いは全く異なる。
恋を題材にしていても、「大和物語」は、「伊勢物語」で感じさせる純粋性普遍性を取り上げようとの姿勢は皆無。世俗的興味本位の書きっぷり。このため、「大和物語」は雑然とした印象を与える。
しかも、"打ち聞き"ママ収録集ではなく、場合によってはかなりの潤色。読者を引き付けようとの工夫なのだろう。
それなら、全体構成もその観点で整理してもよさそうなものだが、余り考えていないように映る。というか、全体構成は大雑把そのもの。

「大和物語」は951年頃成立と見られており、全173段だが、169段以降は追補らしい。
「今昔物語集」の数と比較すれば、まことに小規模だが、それなりに多様な話が収載されている。
しかし、前述したように、全体構成が見えないので、雑多な集成と言ってよいだろう。だからこそ、話題性を狙った作品の寄せ集めに映る訳だ。
ただ、それだけに歌人は色々な階層から選ばれており、40人を越えている。「今昔物語集」同様に幅の広さを重視していると言えなくもない。

全体構成が大雑把とはいえ、大きな塊として、2つ設定している。
○前半は140譚。
 当代の実在する皇族・廷臣・女房の恋愛中心の話。
 僧の歌も登場。
○後半は歌の由来でもある古そうな伝承話。
 生田川/菟原処女、姥捨山、芦刈、立田山、等々。

雰囲気的には、歌と由来シナリオという印象は薄く、ストーリー重視で、歌は必須だが、アクセサリー的であろう。

巻頭は、古典的な歌謡集の配列の色合いを見せたいためか、宇多天皇が登場するが、その後、勅撰和歌集的に主題等を考えてまとめようとの気遣いはほとんど感じさせない。
しかし、なにも考えずに、話を寄せ集めて並べてしまったのではない。譚間の連続性ゼロという訳ではなく、登場人物、モチーフ、使用用語の共通性・類似性で軽くまとめているのは確か。

「今昔物語集」がなかば遊びで連続譚構成に拘ったのは、これを踏襲したと言うこともできよう。

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