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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.28] ■■■
[529] 岩石信仰
岩石信仰と一言で言っても、現代の物質概念で様々な流れを一括したにすぎず、闇雲な議論になるのは避けられないが、「今昔物語集」編纂者のセンスからするとどう映っていたのか、想像してみたい。

普通に考えれば、少なくとも3つに峻別しておく必要はありそうだ。
 ○磐座信仰(依代である岩への降臨)
  ・霊地(土着自然物)
  ・聖石像/碑/チャーム(移動可能/半土着+人的加工物)
 ○磐蔵信仰(神霊包容)
  ・異界との境界璧(墓蓋等)
  ・霊威主体の鎮護(経典倉等)
 ○神威を顕わす奇異な玉的岩石(非降臨)

「古事記」では、冥界と娑婆は直接繋がっており、その境の扉というか、塞ぐための岩石が印象的だし、天の岩戸譚がハイライトであり、岩石と言えばそのイメージしか浮かばないようになっている。そのため、それしかなさそうに見えてしまうが、目立たないとはいえ、高天原での磐座の神が降臨するとの記述もあることにはある。
考古学的には、日本列島は黒曜石交易で各地が繋がっていたのは明らかだし、ストーンサークル、陽物、副葬石、等々の存在も確認されており、岩石信仰が盛んでない筈はない。しかし、それを上記の概念で整理できるかはなんとも。
それに、無文字時代のことだから、整合性がつかない話は史書に記載される訳もなく、実情のほどは皆目見当もつかない。

「古事記」を踏襲したとも思えないが、「今昔物語集」でも岩石譚については余り触れていない。
もともと、震旦と違って、本朝には、奇妙な岩石の伝承話は希少ということもあるのかも知れない。
  「酉陽雑俎」續集卷二支諾皋中[#901]📖「蛭石」
  ・・・有漁子下網,舉之重,壞網,視之,乃一石如拳。
  因乞寺僧置於佛殿中,石遂長不已,經年重四十斤。・・・


もっとも、奇妙な岩石とは違うものの、、現代でも不詳としか言いようが無い石像の存在については記載しており、関心が薄い訳ではないことがわかる。・・・
軽寺の南で、"石の鬼形共"を檜前陵の周囲に安置したとの話。これは明日香の"猿石"を指すと見られている元明(比定は欽明)天皇陵改修の際の厄除けと解釈されていそう。なにか事情がありそうだ。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#35]元明天皇陵点定恵和尚語📖多武峰

"猿石"話に触れているのだから、ひょっとすると、"さざれ石"についてもなんらの示唆があるかと、期待したのだが、こちらはみつからず。「君が代」は現代に入ってから制定されたものではあるものの、「今昔物語集」編纂者が知らない筈はないが。・・・
  「古今和歌集」巻第七 賀歌[#646]@905年
  題しらす よみ人しらす
 わか君は 千世にやちよに さされいしの
  いはほとなりて こけのむすまて
  「和漢朗詠集」巻下「祝」[#775]
  古今
 きみが代は 千代にやちよに さざれ石の
  いはほとなりて こけのむすまで  読人不知
  「古今和歌集」真名序
 ・・・昔 平城天子詔二侍臣一令レ撰二萬葉集一。
 ・・・各獻二家集並古來舊歌一。(曰二續萬葉集一)。
 ・・・臣貫之等謹序。
  「万葉集」巻第二 [#2-228]
 四年歳次辛亥、河邊宮人が姫島の松原にて嬢子の屍を見て悲嘆みよめる歌二首
  妹が名は 千代に流れむ 姫島の
   小松が末に 蘿むすまでに


しかし、岩石譚を避けている訳ではなさそう。
磐座信仰については示唆する話が散見されるからだ。

底辺にまで降臨地崇拝が浸透している状況をよく知っていたようで、だからこそ、懸崖造りの寺に人気が集まったと考えていたのは間違いない。言い方を変えると、磐座地建立の寺は、それ以前の信仰を引き継いだかのような霊験が伝えられているということ。
と言っても、懸崖造りの造作になっているとか、磐座存在の地であるとは、原則的には一言も触れない方針らしい。と言うか、有名な寺については、どのような環境にあるかは当時としては常識のレベルだったのかも知れない。

もっとも、そんな常識を欠く現代人でもふと気付くような配慮を忘れてはいない。流石である。
数多くの収録譚がある、長谷寺の本質を見せてくれる話を載せているのだ。
  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#42] 滝蔵礼堂倒数人死存命人語📖三宝加護奇譚
長谷寺の奥の滝蔵礼堂滝蔵礼堂に祀られているのは瀧藏権現。寺建立以前からの地主神である。人々の重みで柱が折れて礼堂が倒壊し、谷底に崩れ落ちた話でしかないが、明らかに懸崖造りだったことを示す。
もちろん、参詣大人気のご本尊十一面観音菩薩を安置する本堂も懸崖造り。
そして、観音菩薩と言えば、普通は蓮華座上だが、磐石上の立像なのだ。
同じように台座が無く磐座上の観音像なのは石山寺。もちろん、お堂は懸崖造り。
懸崖造りは人々の信仰を集める上で極めて重要だったのである。
  <西国三十三所>始祖:徳道上人 中興:花山院
  長谷寺@桜井初瀬 本尊十一面観音
  石山寺@大津 本尊如意輪観音
  清水寺@東山 本尊千手観音
  総持寺@茨木879年(藤原山蔭) 本尊千手観音
  一乗寺@加西坂本笠松山650年(法道仙人) 本尊聖観音…古石仏存在
  圓教寺@姫路書写966年(性空) 本尊如意輪観音
  宝巌寺@竹生島724年(行基:聖武天皇勅) 本尊千手観音…都久夫須麻神社

霊験で知られていた霊厳寺の話にしても、マネジメントの問題を扱ってはいるものの、仏教伝来以前からの信仰対象である、裏山にある磐座が基層にある岩戸妙見のお寺を題材にしている点に注意を払うべきだろう。(圓成寺/岩戸妙見宮@洛北鷹ヶ峰…北山聖地[839年円行が勧請])
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#20] 霊巌寺別当砕巌廉語📖目利き
別当が、行幸の御輿通行の障害になるとして、巌石/巌廉を破砕したため、寺は以後荒廃一途に。

そもそも、比叡山にせよ、愛宕山にせよ、仏教伝来以前から引き継いだ山岳信仰の地、それが、平安京鎮護が国家的重要課題となり、"鬼門"の磐座信仰霊地を固める必要性が急浮上してきたということ。
<王城鎮護 I>
鬼門…東北比叡山+南西愛宕山(五寺781年慶俊+和気清麻呂)
羅生門…東寺+西寺
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平安京では、磐座だけでなく、同時に、磐蔵信仰も断ちあがったようだ。
かなりの後世の書でのお話なので、信憑性のほどはなんとも言い難いが、地名が残っていたりするので、磐蔵建造には真実味がある。桓武天皇が、王城四方に四岩倉を設置したとされているのだ。江戸期の比定地は、四方と言うには位置的にかなりズレがあるものの、その目的は境界に於ける魔除けだろうから、それに適した場所が選ばれたということなのだろう。
「今昔物語集」で、直接的にこの伝承を取り上げている訳ではないが、"西岩倉"という、現代まで続く地名を載せている。・・・
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚+諸菩薩/諸天霊験譚)
  [巻十七#39] 西石蔵仙久知普賢化身語📖普賢菩薩
/(東岩倉の地は、現在は伊勢神宮系の神社域。おそらく山城の人々の参詣地として栄えたのだろう。神祇系信仰地に被せないような配慮がありそうだから、ここにはいくつかの峰があるのだろう。日向大神宮には瓊瓊杵尊と后である大山祇神の娘木花開耶姫も祀られており皇孫崇拝ではあるものの、山信仰の存在を示す必要があったようだ。その地の東方、山階には、神武東征以前の統治者とされる邇藝速日命が祀られている磐座信仰の岩屋三社(岩屋神社+山科神社+n.a.)がある。物部系開拓地域だったと見てよいだろう。)
<王城鎮護 II>
四岩倉
【北岩倉】
 山住神社/(旧)石座神社880年…無社殿(岩露出斜面の磐座のみ)
 [移転⇒(お旅処)石座神社@大雲寺]
【西岩倉】
 卍金蔵寺@大原野石作 岩倉小塩山718年(隆豊/行善:元正天皇勅)
【東岩倉】
 卍観勝寺(移転⇒祇園)@粟田口大日山[日向大神宮辺りの行基座禅石]
    あるいは
 (旧地)卍金剛寺@東山日ノ岡一切経谷740年頃(行基:阿弥陀堂)
 卍安養寺/延暦寺別所一切経堂@東山日ノ岡一切経谷(日向大神宮参道)(円仁)
【南岩倉】
 卍明王院不動寺@松原麩屋町684年
    あるいは
 ⛩石清水八幡宮@雄徳山/男山
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___[離宮]城南宮@鴨川・桂川合流点

磐座に話を戻すが、神が降臨する地とは、神奈備と呼ばれることが多い。出雲系神が鎮座している自然環境を祀った処という概念とされている。言うまでもないが、人工建造物である社の類は対象外となる。
その神奈備という言葉が登場している譚がある。
  【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚)
  [巻十四#25]山城国神奈比寺聖人誦法花知前世報語📖前生蚯蚓の僧
ここで記載されている神奈比寺だが、甘南備山山頂に位置する甘奈備神社@山城綴喜/京田辺(旧)甘南備寺@薬師谷と思われる。行基創建とされており、役行者の伝承もあるから、古い山岳信仰の地と見てよさそう。
場所的には山城と河内の境。北4kmの月読神社と、東北4kmの薪神の降臨地磐座と、組になっているそうで、山と里の2社なのかも。
この地は、地図から見ると朱雀大路の先に位置しており、王城構築の鎮護社だった可能性もあろう。北の船岡山と南の神奈比山と見て。
もちろんのことだが、船岡山にも神奈備であり、露岩磐座がある。
さらに付け加えれば、鴨川水源の岩も信仰対象と言えよう。貴布禰明神が鎮座する地の貴船川対岸には鞍馬寺が創建されたのである。[縁起;巻十一#35]
<王城鎮護 III>
四神相応…東方青龍(鴨川)+西方白虎(山陰道)+南方朱雀(巨椋池)*北方玄武(船岡山)
鴨川源流貴船川

京三山…北山+東山+西山(東山最高峰は如意山で山科地区で目立つのは高塚山。嵐山地区の最高峰は鳥ケ岳。)
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平城京と違って王城内での寺の建立を避けたのは、伝統的信仰対象である磐座が存在する地のみを霊地とみなしたからでもあろう。南都仏教勢力抑制と言うよりは、山岳信仰の力が強くなったからとも言えよう。そもそも、王城といっても本朝式は城壁を造る訳ではなく、山が障壁役を果たすのだし。その流れが山での神仏習合を一気に加速させることになったのは間違いなさそう。

<王城鎮護 II>で、【南岩倉】比定説に石清水八幡宮@雄徳山/男山をあげた。あまりに王城から離れた場所ではあるが、瀬戸海の難波港から淀川を遡って山崎辺りに入っていく辺りを境界と見ればわからないこともない理屈である。男山山頂に建立されのは、そこには古代からの磐座が存在していたからだろう。川筋と渡河地の地主神信仰があった筈である。
その考え方からすれば、笠置寺も同様な位置付けができよう。そこには、弥勒の磨崖仏があり、天人が彫った伝承が残っているとされる。多分にソグド的であり、大友皇子とも係るので、複雑ではあるが。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#30] 天智天皇御子始笠置寺語📖平安期の寺 📖弥勒菩薩
<王城鎮護 IV>
笠置寺磨崖仏+石清水八幡宮
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尚、西側最古でもある松尾大社(山頂近くに御神蹟の磐座。)のご祭神は大山咋神だけでなく、玄界灘の市寸島比売命@宗像大社も。勧請時点はなんとも言えぬが。

<王城鎮護>という観点では、他に四方に大将軍神社(素戔嗚尊)も祀られたが、岩石信仰とは無関係のようだ。後世規定の京都七口(鞍馬口、大原口、幸甚口、粟田口、伏見口、竹田口、鳥羽口)のような場所における防衛役ということらしい。「今昔物語集」では触れてはいないようである。

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